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			<title>bogodelevskiiの日記</title>
			<description>趣味の歴史ブログです。
最近は中東・ヘレニズムなどが好きです。
東アジアも。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>bogodelevskiiの日記</title>
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			<description>趣味の歴史ブログです。
最近は中東・ヘレニズムなどが好きです。
東アジアも。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78</link>
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		<item>
			<title>ツイート埋め込み練習</title>
			<description>&lt;blockquote class=&quot;twitter-tweet&quot;&gt;&lt;div lang=&quot;ja&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;2003年ごろ学校のパソコンルームでネットニュース見てたら、当時の俺からしたらすごいことが書いてあって、それって言うのが、「大手キャリアが動画再生機能のあるケータイを開発した」というもので、&lt;/div&gt;
&amp;mdash; 会祥大慶（カイショウ タイケイ） (@T3rHRUvOuJ6iNw3) &lt;a href=&quot;https://twitter.com/T3rHRUvOuJ6iNw3/status/1118137201693470724?ref_src=twsrc%5Etfw&quot;&gt;April 16, 2019&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;twitter-tweet&quot;&gt;&lt;div lang=&quot;ja&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;当時はガラケー全盛期で、俺の携帯などそもそもカメラすらついてなかったから、「このまま開発が進めば、携帯で動画サイトが観れるようになふんじゃね？携帯がハンディPCになるんじゃね？」っておもって&lt;/div&gt;
&amp;mdash; 会祥大慶（カイショウ タイケイ） (@T3rHRUvOuJ6iNw3) &lt;a href=&quot;https://twitter.com/T3rHRUvOuJ6iNw3/status/1118137203316621317?ref_src=twsrc%5Etfw&quot;&gt;April 16, 2019&lt;/a&gt;&lt;/blockquote&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65260633.html</link>
			<pubDate>Tue, 16 Apr 2019 22:02:39 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>魯迅の故郷の冒頭を少し訳してみた</title>
			<description>故&amp;#20065; &lt;br /&gt;
我冒了&amp;#20005;寒，回到相隔二千余里，&amp;#21035;了二十余年的故&amp;#20065;去。&lt;br /&gt;
故郷&lt;br /&gt;
僕は厳寒を厭わず、相隔てること二千余里、離れること二十余年の故郷に帰る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#26102;候既然是深冬,&amp;#28176;近故&amp;#20065;&amp;#26102;，天气又&amp;#38452;晦了，冷&amp;#39118;吹&amp;#36827;船&amp;#33329;中，&amp;#21596;&amp;#21596;的?，从蓬隙向外一望，&amp;#33485;黄的天底下，&amp;#36828;近横着几个&amp;#33831;索的荒村，没有一些活气。我的心禁不住悲凉起来了。&lt;br /&gt;
時しも真冬であったので、故郷に近づくにつれ、天気はまたどんよりとして、冷たい風は船室に吹き込み、ビュービューと響き、隙間から外を望めば、灰色がかった黄色い空の下、あちこちに活気のない寂れた村がいくつか横たわっており、少しも活気がない。&lt;br /&gt;
&amp;#38452;晦yin1hui4&lt;br /&gt;
&amp;#33485;黄cang1huang2&lt;br /&gt;
冷leng3&lt;br /&gt;
&amp;#33831;索xiao1suo2 寂れた&lt;br /&gt;
船&amp;#33329;chuan2cang1 船室</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65211834.html</link>
			<pubDate>Mon, 11 Feb 2019 20:53:27 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ドストエフスキー『キリストのヨルカに召された少年』『百姓マレイ』の感想  【書きかけ】</title>
			<description>19世紀ロシアの風俗史料としての作家の日記&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は読書会で読んだ、ドストエフスキーのエッセイに関する短編です。『作家の日記』というエッセイ集に出てくる『キリストのヨルカに召された少年』という短編です。&lt;br /&gt;
筋書きはシンプルで、寒いヨルカという祭りの夜に貧しい少年が街で凍死して、異世界でキリストのヨルカの祝いに召されるというだけの話です。ドストエフスキーが「パッと思いついてしまったが、こんなことが現実に起きている気がしてならない！！（作家の発言を概要したものです）」と断って書いた短編です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下本文========================&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先日は読書会で作家の日記の三つの短編を読みました。ところで作家の日記は何かと人気がない。それは冗長な内容だったりドストエフスキー特有のあのクドクドとした言い回しが続く、または長編と違って推敲の浅い短文が出てきたりして長編に親しんだ読者にすると物足りなかったり退屈に思える為でしょう。&lt;br /&gt;
ところで自分は歴史好きですが、歴史好きの目線からするとこの作品は19世紀ロシアや欧米の風俗を知る上で大変重要な史料であり、そこから見出されることはいずれも驚くべきものです。この文章では歴史資料として、またエッセイとして作家の日記が如何にエキサイティングなものであるかを述べます。要は先日の読書会の感想を改めて書く、というだけのものです。&lt;br /&gt;
ちなみに、論文や文章の類はブランクがあるため、書き方などに色々誤りなどが見られるはずですが、その点はご笑覧いただくかご指摘を頂戴できたらと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『キリストのヨルカに召された少年』で初めに目に付いたのが、少年が目を覚ました地下室についてです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「この少年はじめじめした冷たい地下室で、朝、目を覚ました」（p.180）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 ここで示したページは読書会で使った資料のもので、以下でページ数を示した場合、同様のものです。この地下室というものが、よくドストエフスキーの作品に出てきますが、どんなものなのか自分にはいまいちピンとと来ません。まず19世紀に電球は存在してないか、していても庶民に普及はしていないはずなので（ウィキペディアのエジソンの記事によると1879年発明となっている）、我々が見慣れた電気で照らされた地下の階ではないはずです。&lt;br /&gt;
そこで「19c underground room slum」などのキーワードでGoogle検索をかけて、画像検索を見ると天井に近い部分だけ明かり窓がある地下倉庫みたいなのがでてきます。「朝、目を覚ました」とあるので日が入るような、恐らくこの様な半地下式の倉庫みたいなとこなのでしょうか。他の作品でも地下室の手記とかあるので、貧乏な人がよく暮らしている賃貸でこういうタイプがあったのかもしれません（ちなみにスラムのことをロシア語ではТрущобы またはбидонвилиと言うそうです）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ウィキペディアで『地下室』について調べてみました。以下引用になります。引用した記事のバージョンは「 2018年1月20日 (土) 02:13 」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「また、地上階では果たせない地下ならではの役割もある。暖かい空気は上へ昇るという性質から、地下室の内部は地上よりも温度や湿度が低い。」&lt;br /&gt;
「ただし、木造家屋・壁が薄い場合・新築RC建築物・地下水の存在などの条件下では湿度が高くなり、完成から1年程度は様子を見ながら使用する。特に地下水の多い都市や川沿いの土地の場合、地下室は地下水の浸透による壁面のひび割れなどの恐れがある」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要は地下水などの関係で湿度が高く、地上よりも低い位置にあるため、寒い場所のようです。穴蔵みたいな感じなのかも知れません。ペテルブルクはネヴァ川河口の湿地帯なので伏流水は多いでしょうから地下室はさぞかしジメジメしたことでしょう。おまけにそこは屋内なのに息が白くなり、病気の母親が板の上で薄い布団で寝ていて、他の貧困層の人たちと雑居している様子が伺えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「息が白い蒸気になって吐き出される。」p181&lt;br /&gt;
「朝から幾度も寝板のそばへ近寄って見た。そこには煎餅のように薄い敷物を敷き、枕の代わりに何かの包みを頭にあてがって、病気の母親が横になっている。」同&lt;br /&gt;
「なにしろ祭日のことなので、間借人たちもちりぢりばらばらになってしまい、たった一人残ったバタ屋も、祭日の来るのを待たないで、へべれけに酔っ払ってしまい、もうまる一昼夜というもの、死んだように寝込んでいる」同&lt;br /&gt;
「部屋の向こうの隅では、八十からなる老婆がリューマチで唸っている。これはかつてどこかで子守りに雇われていたのだけれど、今では一人淋しく死んでいきながら、唸り声を立てたり、ため息をついたりして、少年にぶつぶつ、小言ばかりいっていた。」同&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冬のロシアで暖房もない穴蔵の底で、ベットもなく板の上で病人が寝ていて、他にも酔いつぶれた個人経営の男性から孤独死を待つ老婆まで一緒に雑魚寝で暮らしている、普通の状況ではないわけです。&lt;br /&gt;
いわゆるドヤ街みたいな場所なのでしょうが、比較的イメージしやすい例として、自然災害の避難所があげられると思います。&lt;br /&gt;
避難所も、複数の家族が同じスペースに雑魚寝していますが、プライベートがない、冬に寒くて夏に暑い過酷な環境です。避難所を体育館からもっと小さいスペースに移したような、そんな雰囲気なのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
アメリカの例ですが検索していて出てきた19世紀の雑居部屋の画像を貼ります。参考になればと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この親子がこんなところで暮らしているのも、どうも生活の安定を求めて都会に出てきたためのようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「よその町からやってきたところが、急に病みついたものに相違ない。」p181&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農奴解放の関係で19世紀の60年代70年代は貧困層が都会に溢れて大混乱したと聞きますが、この親子もそうした例なのでしょう。貧困の罠、という言葉を聞いたことがありますが、貧困に陥ると状況を改善しようともがけばもがくほど転落してしまうと聞きます。親子の描写からはそうした言葉を連想させます。&lt;br /&gt;
こういう例は今日のネットカフェ難民をも彷彿とさせます。雑魚寝でこそなく、冷暖房もあり、パーティションで区切られていますが、当時の貧困層の雰囲気としては近いのかもしれません。&lt;br /&gt;
ちなみに、調べている途中でロシア語でかかれた19世紀の貧困層の住宅に関する記事を見つけました。参考までにここにリンクを載せます。そのうち、機会と余力があったら訳して投稿したいものです。&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;https://arzamas.academy/materials/591&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://arzamas.academy/materials/591&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男の子が外に出ることで町の描写になりますが、ここも当時の都会や繁華街の雰囲気がよく伝わります。&lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ほろほろした雪を通して、舗石にあたる蹄鉄の音がかつかつと響き、人々はお互いに無遠慮に突き当たっている」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代、車道は石で舗装されていたことはなんとなく知ってましたが、馬車が走るところ、つまり車道で使うのは現代人としては意外に感じるのではないでしょうか。自分は特に、蹄鉄の音がカツカツ鳴る辺りに、今日とは全く違う風俗を感じました。昔の風俗というとまずは視覚でイメージしますが、聴覚的にも相違があったのですね。あと文中にはかかれませんが、19世紀の街だと馬糞や石炭の匂いもかなりしたと思います。&lt;br /&gt;
ちなみに、検索で19世紀ロシアの石畳の画像をここに貼ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、歩きながら人にガツガツぶつかるなんてことは我々はやることはないと思います。自分が海外で日本との違いを強く感じるのが、すれ違いざまの対応です。都会などの人混みで体が当たりそうになったり、手などが他の人をかすったりした場合、普通現代の日本人は「すみません」と謝罪したり、会釈で謝罪の意を伝えたりするものです。ところがアジアの国などに行くと、それが全くない。ましてやこの時代のロシア人は、「無遠慮に突き当たって」とあるのでかなり異様な光景です。実際20年ほど前に自分がウラジオストクに行った時は、ぶつかりこそしませんでしたが、やはりすれ違いざまの会釈などは全くなく、変に思ったものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ガラス窓の向こうで金持ちがヨルカ祝うとこ&lt;br /&gt;
「少年はそっと忍び寄り、不意に扉を開けて中へ入った。その時の騒ぎ、みんな手を振り回しながら、かれをどなりつけた。一人の奥さんが大急ぎでそばへ寄って、彼の手に一コペイカ銅貨を握らせると、自分で入り口の戸を開けて、外へ追い出した。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんだって貧しい身なりの子供にこの人たちは怒鳴りつけたりするのでしょうか？そんなこと起こり得るのでしょうか？&lt;br /&gt;
20年ほど前に自分はウラジオストクに短期留学したことがあります。この時期はロシア財政破綻の直後で、町には浮浪児やホームレスが溢れており、繁華街に行くと子供や赤ん坊を連れた女性の物乞いをよく見かけました。そして、子供の物乞いに絡まれたりした優しそうな青年が怒鳴って追い払ったのを見たことがあります。暮らしが貧しいと浮浪児に施しをあげる経済的余裕もなくなり、優しそうな人でも仕方なく追い払ったりするのだろうと思ったものです。引用の少年を怒鳴りつけた人たちや銅銭を渡した奥さんも同じような心境だったのでしょう。&lt;br /&gt;
私ごとですが敗戦直後の都内に自分の祖母が記者で行った時の事ですが、当時中学生の祖母は都内で浮浪児たちに食べ物を請われたそうです。しかし彼女もあげられるものがなく何もしてやれなかったと言います。社会が貧しいと困ってる子供を助けることも我々が思う以上に困難だと言うことなのでしょう。&lt;br /&gt;
読書会でフランダースの犬に言及した人たちがいましたが、その作品に限らず19世紀の作品は子供の貧困が出てくるものが少なくないように思えます。マッチ売りの少女などは良い例ではないでしょうか。この手の話はそうした子供の貧困を見て見ぬ振りして生きていた19世紀人の良心の呵責が現れてるのかも知れません。&lt;br /&gt;
話の後半、少年がキリストのヨルカの祝いに招かれた場面で、非業の死を遂げた子供たちの例をドストエフスキーが挙げます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「この男の子や女の子たちは、みんな自分と同じような身の上で、ペテルブルクの役人の家の戸口にあたる階段の上に棄てられたまま、籠の中で凍え死んだものもあれば、養育院でフィンランド女の乳房に圧されて窒息したのもあり、自分の母親のしなびた乳のかたわらで死んだものもいるし」p.184&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの例はずいぶん具体的に挙げてあることから、実際に新聞や雑誌で作家が読んだ記事から拾ったものなのでしょう。頻繁に町で浮浪児を見かけ、新聞などにも上に挙げたような酷い話が三面記事などに出ていて、そうした話に心を痛めている時に、作家の脳裏にこのような短編が閃いたと言うことかも知れません。&lt;br /&gt;
以上、『キリストのヨルカに召された少年』から読み取れる19世紀ペテルブルクの生活は以下のものが挙げられます。&lt;br /&gt;
１、貧困層が雑居する地下式の賃貸があった。冬は寒く、地下水の位置によっては湿気がひどった。&lt;br /&gt;
２、経済的混乱により地方から出てきた暮らしに困った人たちが多くいて、劣悪な暮らしをしていた。&lt;br /&gt;
３、繁華街は馬車が通る車道が石畳で舗装され、蹄鉄の音が響いた。&lt;br /&gt;
４、交通マナーが極端に悪く、路上のすれ違い時にぶつかり合いながら歩いていた。&lt;br /&gt;
５、幼い子供であろうと人々は浮浪者に冷たく対応した。&lt;br /&gt;
６、悲惨な死に方をする児童が少なくなく、恐らく新聞や雑誌にそうした事件が載る事もしばしばだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あまり楽しい気持ちにさせる例ではないですが、このように生活描写を調べると作家の生きていた時代の雰囲気がよりリアルに感じられるのではないでしょうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65179406.html</link>
			<pubDate>Thu, 03 Jan 2019 19:49:39 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>イブン・ハルドゥーンの「歴史」のうる覚え</title>
			<description>イブンハルドゥーンの覚書を踏まえた雑記。全くこう言うの興味ない人にも上手く伝わるように、もしそう言う機会が来たらサラっと話せるように整理したものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下本文---------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
往々にして政権の初代は極端な天才が多くて、2代目は初代の背中を見て一緒に天下取りの仕事をした努力家の凡人が多く、三代目は天下太平でボンボンになることが多い。&lt;br /&gt;
弓矢と剣の時代は、戦争はもろに兵隊の腕力やメンタルの気合いがモノを言うらしいので、初代と戦っていた武将たちの孫たちもだいたいボンボンになるため、軍隊の力が弱くなる。そして、辺境に住むヤンキー全開の蛮族に攻め込まれても太刀打ちできずに国を取られる。&lt;br /&gt;
都をとった蛮族は、新しい政権をつくるけど結局三代目ぐらいまでにはボンボンになって、別の蛮族に都を落とされる。こういうパターンが歴史では繰り返されるものらしい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65147418.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2018 22:59:56 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>人類史に関する雑記</title>
			<description>縫製を趣味とする友人が「かつて先祖だった原始人が、植物から板を加工して布を使ったり、百歩譲って鉱石から金属を加工するまではなんかわかるが、これ（運転中の彼の車窓に広がるバイパス沿いの街並みと街灯）がどのように原始時代から移り変わってきているのか俺には理解できない」とかなり根源的な問いを発した。&lt;br /&gt;
それに対する、メモ書きです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下本文------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原始人の社会と現代の文明状態との隔離はどうやって起きたのか？&lt;br /&gt;
原始人の状態では全人口が食料の収集（狩りや木の実など食べ物集め）をしないと人口が維持できなかった。&lt;br /&gt;
一万年ほど前に氷河期が終わると、植物が育ちやすくなる。食べられる植物の種や苗を植えれば、自分の意思で食べ物が作れるようになった。川から用水を引けば大規模に植物が栽培できるから、原始人たちが自然と大きな川の周りに集まった。&lt;br /&gt;
用水の管理がみんなの命に関わるから、灌漑工事が盛んに行われた。恐らく灌漑工事のリーダーがコミュニティのリーダーになっていった。そういうコミュニティがたくさんできると、水や土地を巡って争うようになって、コミュニティ同士で戦争するようになる。あちこちで色々なコミュニティ同士で戦争して、弱いコミュニティを併合していって、大きな国が出来る。&lt;br /&gt;
大きな国になると経済が発展する。あと、国の中でのランクづけにしたかった身分も生まれる。経済力があるやつや、身分が高いやつは働かなくても食べていける。そういう中から学問をする連中が出てくる。そういう連中が自分の研究を文字で記録する。原始時代に文字はないけど文明時代には文字があるから、天才のひらめきも文字に残されて、別の人が参考にしたり別の天才がさらに改良したりして、技術や研究が相乗効果で社会に築成されていく。こうして出来たのが古代ギリシャやローマ、エジプトやメソポタミア、古代中国などの古典文明。&lt;br /&gt;
そうした研究の蓄積が古代以来数千年積み重ねられて来た。&lt;br /&gt;
18世紀に産業革命が起きた。これは自然科学の進歩から出たものだが、簡単に言えばこの時初めて人間がモーターを作って、モノづくりに革命を起こしたということ。&lt;br /&gt;
それまではあらゆる商品が手作りだったから、例えば靴下やハンカチですら単価が高かったが、モーターの発明で工場での大量生産が可能になる。貧乏人を安い賃金で大勢雇ってモーターをつけた機械で商品を大量生産させれば、沢山のものが早く出来て、おまけにハンドメイドより値段まで安くなる。&lt;br /&gt;
それまで理論だけあって実現できなかったものか作れるようになり、飛躍的にモノづくり力がアップした。&lt;br /&gt;
それまで自然エネルギーに頼っていた動力、物流、インフラが化石燃料を基にしたものに変わる。&lt;br /&gt;
物流が馬車や川船から、鉄道や自動車に変わった。行燈やランプから、油の管理がいらない電灯に変わった（古代中世にはガラスは高級品だから町中をガラスのランプで照らすことは、普通の街には無理だった）。&lt;br /&gt;
生活水準が向上し、労働が減った人間がますます増え、さらに多くの研究がされて、技術やインフラが進歩した。&lt;br /&gt;
20世紀には通信技術が飛躍的に伸びた。&lt;br /&gt;
電波で音を伝える技術ができて、国じゅうの人に指導者や俳優が語りかけ、それを国じゅうの人が聴けるようになった。&lt;br /&gt;
20世紀中盤には音と映像を伝える技術ができて、テレビで国じゅうの人が指導者や俳優を見ることができるようになった。&lt;br /&gt;
21世紀になると小さい機器で音と映像を送受信できる技術が出来て、世界中の人間が言葉や映像を不特定多数に送れるようになった。&lt;br /&gt;
現在は、相乗効果で、さらにすごいものが出てくる発展途上なんだと思う。&lt;br /&gt;
おわり</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65147414.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2018 22:57:10 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>アル・マアッリー   『luzumiyat』の英訳からの翻訳  途中</title>
			<description>アッバース朝シリアの詩人、アル・マアッリーの詩luzumiyatの英訳のパブリックドメインを見つけたので途中まで訳しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんか、難しい言い回しが多いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元の文章はこれ&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;https://en.m.wikisource.org/wiki/The_Luzumiyat_of_Abu%27l-Ala/The_Luzumiyat_of_Abu%27l-Ala&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://en.m.wikisource.org/wiki/The_Luzumiyat_of_Abu%27l-Ala/The_Luzumiyat_of_Abu%27l-Ala&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-----------------------以下翻訳&lt;br /&gt;
I  &lt;br /&gt;
THE sable wings of Night pursuing day &lt;br /&gt;
Across the opalescent hills, display &lt;br /&gt;
The wondrous star-gems which the fiery suns &lt;br /&gt;
Are scattering upon their fiery way.&lt;br /&gt;
漆黒なる、夜の翼が日を追いて、乳白色の丘の上、見えるのは不可思議の玉の星々、其はすなわち、炎（ほむら）立つ日輪が、撒き散らしたる、焔（ほのお）の軌跡&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
    &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
II&lt;br /&gt;
O my Companion, Night is passing fair, &lt;br /&gt;
Fairer than aught the dawn and sundown wear; &lt;br /&gt;
And fairer, too, than all the gilded days &lt;br /&gt;
Of blond Illusion and its golden snare.&lt;br /&gt;
おお、友よ、夜は誰にとっても等しくに過ぎるものよ&lt;br /&gt;
暁や日暮れのまとう着物なんぞより、ずっと等しいもの&lt;br /&gt;
全ての金髪の幻想や黄金の罠の金ピカの日々よりも、また等しいものだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
III&lt;br /&gt;
Hark, in the minarets muazzens call &lt;br /&gt;
The evening hour that in the interval &lt;br /&gt;
Of darkness Ahmad might remembered be,― &lt;br /&gt;
Remembered of the Darkness be they all.&lt;br /&gt;
聞け！ミナレットで回教僧が呼びかけるは夕暮れ時、それは闇と闇を隔てた場所にある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アフマド（自分のこと？   訳者）が想起するであろう闇の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※ムアッジンとは、実際はイスラム教僧全般を指すのではなく、ミナレットからアザーンを歌う役職のものを指すらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
IV&lt;br /&gt;
And hear the others who with cymbals try &lt;br /&gt;
To stay the feet of every passer-by: &lt;br /&gt;
The market-men along the darkling lane &lt;br /&gt;
Are crying up their wares.―Oh! let them cry,&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シンバルを手にしたものたちが&lt;br /&gt;
行き交うものたちを（自分たちの前に？  訳者）立たせようとする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
暗い路地に沿った市場の男たちが自分たちの売り物のことを叫んでいる。嗚呼！叫ばせてやれば良いさ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
V&lt;br /&gt;
Mohammed or Messiah! Hear thou me, &lt;br /&gt;
The truth entire nor here nor there can be; &lt;br /&gt;
How should our God who made the sun and moon &lt;br /&gt;
Give all his light to One, I cannot see.&lt;br /&gt;
ムハンマド、または救い主よ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我が言葉を聞き給わらんことを、全き真実は何処にもありようもないと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神はなぜ太陽と月を創りたもうたのか、あまねく神の光が注ぎ込まれるもの、俺には見ること能わざるものを。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VI&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
Come, let us with the naked Night now rest &lt;br /&gt;
And read in Allah&amp;#39;s Book the sonnet best: &lt;br /&gt;
The Pleiads―ah, the Moon from them departs,― &lt;br /&gt;
She draws her veil and hastens toward the west.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さあ、来たれ、裸体の晩と共に休まん&lt;br /&gt;
そして読まん、神の書よ、最良の詩を&lt;br /&gt;
プレアデス、嗚呼、月は、彼より出でたる、&lt;br /&gt;
其は描く、己が帳を。急き立てる、そのいく先は、西の方。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
sonnet  で4行詩&lt;br /&gt;
pleiads ギリシャの神、スバル星、プレアデス星団&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VII&lt;br /&gt;
The Pleiads follow; and our Ethiop Queen, &lt;br /&gt;
Emerging from behind her starry screen, &lt;br /&gt;
Will steep her tresses in the saffron dye &lt;br /&gt;
Of dawn, and vanish in the morning sheen.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プレアデスは追いかける、我らがエチオピアの女王、其は己が星明かりのスクリーンより現れたもう、己が巻き毛のひとふさを朝焼の鬱金色の染料に浸し、そして朝の光沢の中に消えるであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※鬱金色といっても今の人はピンとこないから「黄金色に染まる」と意訳しても良いかも知れない。或いは、鬱金色についてがっつり講釈してから描写するとか。&lt;br /&gt;
※エチオピアの女王とはギリシャ神話に出て来るエチオピアの女王、カシオペアのことである。カシオペア座を女王に例えたのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VIII&lt;br /&gt;
The secret of the day and night is in &lt;br /&gt;
The constellations, which forever spin &lt;br /&gt;
Around each other in the comet-dust;― &lt;br /&gt;
The comet-dust and humankind are kin.&lt;br /&gt;
日と夜の秘密は星座の星々にある、それらは永遠に彗星塵の中を互いに回り続ける、&lt;br /&gt;
彗星塵と人は同類のようなものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※彗星塵、というが要は彗星の尻尾の事。彗星の尾は核から噴き出した塵らしい。「彗星」とか「彗星の尾」と書いてしまっても良いかも知れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
IX&lt;br /&gt;
But whether of dust or fire or foam, the glaive &lt;br /&gt;
Of Allah cleaves the planet and the wave &lt;br /&gt;
Of this mysterious Heaven-Sea of life, &lt;br /&gt;
And lo! we have the Cradle of the Grave.&lt;br /&gt;
だが、塵だろうと、炎だろうと、泡沫だろうと、&lt;br /&gt;
神の剣は星も、この不可思議な命ある天の海をかき分ける、&lt;br /&gt;
そして、おお！我らに有るは墓場の揺り籠。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
X&lt;br /&gt;
The Grave and Cradle, the untiring twain. &lt;br /&gt;
Who in the markets of this narrow lane &lt;br /&gt;
Bordered of darkness, ever give and take &lt;br /&gt;
In equal measure―what&amp;#39;s the loss or gain?&lt;br /&gt;
墓場と揺かご、飽くことなき&lt;br /&gt;
両者&lt;br /&gt;
（どこまでも平行線、交わることはないってこと？）&lt;br /&gt;
闇で縁取られたる、この狭路地の市場の者たち、&lt;br /&gt;
かつておなじ度量で与え、得た（交換した）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何が損で、何が儲けか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
XI&lt;br /&gt;
Ay, like the circles which the sun doth spin &lt;br /&gt;
Of gossamer, we end as we begin; &lt;br /&gt;
Our feet are on the heads of those that pass, &lt;br /&gt;
But ever their Graves around our Cradles grin.&lt;br /&gt;
然り、&lt;br /&gt;
gossamer薄布、流れ糸、儚いもの&lt;br /&gt;
我らが足を置いているのは過ぎ去りしとのの頭（こうべ）、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
XII&lt;br /&gt;
And what avails it then that Man be born &lt;br /&gt;
To joy or sorrow?―why rejoice or mourn? &lt;br /&gt;
The doling doves are calling to the rose; &lt;br /&gt;
The dying rose is bleeding o&amp;#39;er the thorn.&lt;br /&gt;
そしてなにが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
施し物の鳩は薔薇に鳴く&lt;br /&gt;
死にゆく薔薇は棘の上に血を流す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-----------------ここまで</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65141433.html</link>
			<pubDate>Sun, 18 Nov 2018 19:05:23 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>wikipedia記事 &amp;quot;Al-Nahda&amp;quot;   の翻訳</title>
			<description>&amp;#160;&lt;br /&gt;
以下はbogodelevskiiによる翻訳記事で、[GNU Free Documentation License]にて提供します。&lt;br /&gt;
英語版ウィキペディアの記事&amp;quot;Al-Nahda&amp;quot;（ &lt;a HREF=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Nahda&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Nahda&lt;/a&gt;)(18:46,27July 2018)に基づくものです。&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
※要領を得ない部分の解釈、思い切った意訳の部分は（～&amp;#160;訳者）のように補足します。&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
※作品名は原文では斜体なのを、当翻訳ではカッコ『』にて表記します。もしかしたらそうなってない所もあるかもしれません。。。&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
以下翻訳本文-----------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・ナフダ (Arabic:&amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1606;&amp;#1607;&amp;#1590;&amp;#1577; / ALA-LC: an-Nah&amp;#7693;ah;Arabic for&amp;quot;awakening&amp;quot; or &amp;quot;renaissance&amp;quot;) は19世紀末から20世紀初期に始まり、のちにレバノン、シリアなどオスマン帝国支配下のアラビア語を話す地域に広がった文化的ルネッサンスである。これはしばしば知識の近代化と改革の時代といわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝統的な研究において、ナフダは1798年におけるナポレオンのエジプト侵攻、改革派によるその後に続いたムハンマド・アリーなどの指導者たちの追放によりもたらされたカルチャーショックと関係があると見なされている。&lt;br /&gt;
しかし今日の研究の見解では、中東と北アフリカのルネッサンスは、それは文化革命の予定表であって〔注釈１〕西側に触発された、またオスマン帝国のタンジマートと、エジプト、シリア・レバノンにおける政治経済と地域の改革上の内政の変化に関係があるということで自然発生的である、とされる〔注釈２〕。ルネッサンス自体はエジプトと大シリア地方とで同時に始まった〔注釈３〕。背景に相違があるため、双方が重きを置いた方向性（the aspects&amp;#160; &amp;#160; 訳者）も相異なるものであった、それはシリアがより文化的な方向性に重きを置いていた一方で、エジプトはイスラム世界の政治的方向性に重きを置いていた、と言ったようにである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら考え方は地域ごとに違ったわけではなかったし（not exclusive by region&amp;#160; &amp;#160; 訳者）、これらの相違もルネッサンスの進展により小さくなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オスマン帝国支配下のアラビア語地域において主要な影響と触発はオスマン帝国による19世紀のタンジマート改革であり、それは帝国の政治に憲法秩序をもたらし、新しい政治的階級を、そしてのちには、出版〔注釈４〕の拡大を許可した青年トルコ革命をもたらした。〔注釈５〕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
リファア・ラフィ・エル・タフターウィー（1801-1873）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトの学者、リファア・エル・タフターウィー（1801-1873）は広くアル・ナフダの先駆者と目されている。彼は1826年に西欧の科学と教育のメソッドを学ぶため、ムハンマド・アリの政府によりパリに送られた。もっとも当初はパリの軍事アカデミーでエジプトの士官候補生のためにイマームをするためだったのだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は批判なしとはいかなかったが、フランス社会に大変肯定的な見方を持つようになった。フランス語を学びながら、彼は重要な科学と文化に関する作品をアラビア語の文語〔注釈６〕に訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼はまた1830年のシャルル10世に対する７月革命を目撃しているが、おそらく、当然のことではあるが、ムハンマド・アリに対する報告においては注意深くこの事柄をコメントしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の政治的見解は元々アル・アズハル学院での保守的なイスラムの教えに影響を受けていたが、色々な事柄により変化し、彼は議会主義や女性の教育を唱道する様になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五年をフランスで過ごしたのち、彼はその地で発展させた改革の思想を実行するためエジプトに戻った。そして彼の見解を1834年に出版された本、Takhlisal-ibriz fi Talkhis Bariz（時にパリの本質と訳される）にまとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは韻を踏んだ散文で書かれており、説いているところはエジプトのムスリムから見たフランスとヨーロッパである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タフターウィーの提言はすなわち、エジプトとイスラム世界はヨーロッパに学ぶべきことが多くあるというと、そして広くヨーロッパ社会を取り入れること、だが同時に改革はすべからく、イスラム文化の視点から取り入れられるようするべきだ、ということであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この自信に満ちた、そして開明的な近代化の刻印〔注釈７〕はアル・ナフダの考え方を定義づけるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブトゥルス・アル・ブスターニー（1819-1893）は1819年の一月、シューフ地区〔注釈８〕のディッビイェ村〔注釈９〕でレバノンのキリスト教マロン派の家に生まれた。多言語話者であり、教育家であり、活動家であった彼は、19世紀中葉のベイルートを中心に、アル・ナフダの見事な妙義であった〔注釈１０〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカの宣教師たちに影響を受けて、彼はプロテスタントに改宗し、地元のプロテスタント教会の指導者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、彼はアーベイ〔注釈１１〕でプロテスタント宣教師の学校で教えており、宣教師たちの聖書のアラビア語への翻訳の中心人物であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼のアメリカ人への強い結びつきにもかかわらず、アル・ブスターニーは次第に独立し〔注釈１２〕ついには彼らのもとを脱退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1860年のドルーズ派マロン派の衝突とコンフェッショナリズムの常態化に鑑み〔注釈１３〕、アル・ブスターニーは1863年に世俗主義に則った国立学校、またはアル・マドラサ・アル・ワタニーヤを設立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この学校はナフダ（啓蒙）の先導者（leadingnahda&amp;#160; 訳者）やベイルートのパイオニアを雇い、またナフダの思想家たちを輩出した。同時に彼はいつくかの学校教科書と辞書を編集して出版した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらはかれをアラブルネッサンスの指導者として有名にした〔注釈１４〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会的、国内的、政治的面において、アル・ブスターニーは自国のエリートを育てる意図のもと組織を設立し、彼の雑誌であるナフィール・スーリーヤにおいて、連続して統一を訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化や科学の分野において、彼は隔週発行のレビューと二つの日刊新聞を発行した。さらに、彼はアメリカ宣教団のエリ・スミス女史、コーネリアス・ヴァン・ディックとともにスミス・ヴァン・ディック訳として知られる聖書のアラビア語翻訳の取り組みを始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の多く出された作品と草分け的な取り組みは近代アラビア語の説明文創作に続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西欧人に教育され、西欧技術を強く主張していたが、彼は強烈な世俗主義者であり、シリアナショナリズム（アラブナショナリズムと混同しないこと）の基本方針を作り上げる重要な役割を演じた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スティーブン・シェーヒは言う、アル・ブスターニーの「重要性は、彼のアラブ文化の予測や国民としての自尊心にあるのではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の、西欧の知識や技術を差別的に取り入れて、アラブ人の本来有する文化的成功（ナジャフ）に対する可能性を「目覚め」させ、それが彼の世代で独特であった、その主導的役割にあるのでもない〔注釈１５〕、むしろ彼の貢献があるのは、雄弁術の活動においてである。すなわち、彼の書いたものはオスマン帝国統治下シリアにおける近代性の母体となる統一のビジョンを表現している、重要な定型文を地元の発展のために表現したことだ〔注釈１６〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハイレッディン・パシャ・アットゥンスィー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハイレッディン・パシャ・アットゥンスィー（1820-1890）は、オスマン帝国統治下のチュニジアに奴隷として向かった〔注釈１７〕、そこでチュニジアの近代化志向の指導者であったアフマド・ベイの政府における階級を上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は間も無く、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との外交業務を任され、それがオスマン帝国のタンジマート改革と同様に彼を西欧的理想〔注釈１８〕と接触させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は1859年から1882年までチュニジアの首相を務めた。この時代に、彼はチュニジアの近代化における主要な勢力のある人物であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数々の執筆において、彼はイスラムの伝統と西欧近代主義の縫い目なき混合を描いた［注釈１９］。ヨーロッパ啓蒙主義の著作とイスラムの政治思想への信念を基礎としながら、彼が主に関心を置いたのは、特にチュニジアの人々の、また一般的にはイスラム教徒の自主性を保つことだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この探求において、彼は最終的に最初の例となるとイスラムの立憲主義を作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・ナフダの影響&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宗教&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宗教の面において、ジャマル・アッディーン・アフガーニー（1839-1897）は、イスラム教を近代主義者的な再解釈をし、教義への信奉を反植民地主義と融合させた。その説くところは、欧州の脅威における汎イスラム教的連帯であった。彼はまた独裁的な君主制を議会制に変えることに賛成し、彼の時代のイスラム教における教条主義、停滞、腐敗と思われるものを非難した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は伝統（taqlid &amp;#160; &amp;#1578;&amp;#1602;&amp;#1604;&amp;#1583;）がイスラム教の議論を窒息させ、競技の正しい実践を抑圧すると主張した。アル・アフガーニーの古いイスラムの解釈の再定義に対する件と、彼の伝統宗教の大胆な攻撃は1924年のカリフ制崩壊に大いに影響を与えたのかもしれない〔注釈２０〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは宗教の教義に真空〔注釈２１〕を作り、イスラム教コミュニティの社会的組織を作った。これはアブドゥルハミド二世の時、全世界のイスラム教徒の扶養を支持するため、一時的に回復したが、突然消滅した。これはイスラム教徒に競技の新しい解釈に目を向けさせ、広く保持された教義を再検討させた。正にアル・アフガーニーが何十年も前に彼らに説いていたことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ムハンマド・アブドゥ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・アフガーニーは多くの影響を与えたが、彼の支持者で最も偉大なのは疑いもなく彼の学生のムハンマド・アブドゥ（1849-1905）である。その教えはイスラムの実践の改革において、同様に重要な役を演じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アフガーニーのようにアブドゥは伝統主義者のイスラム教当局の道徳と知性の退廃、人々やコミュニティにイスラム教の空論的な形を課していることを非難した。それらは教義の正しい効果を妨げた。彼はそれゆえイスラム教徒は古代カリフによって実践された「真の」イスラム教に帰るべきだと唱えた。それは理にかなったものであり、また神々しい霊感を受けたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
預言者ムハンマド本来のメッセージを伝統や彼の後継者たちの誤った解釈の妨げなしに応用すれば、自然とコーランに神が定めた公平な社会を作り、またイスラム世界に植民地主義と不正義に抵抗する能力を与えるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブドゥの学生の中に〔注釈２２〕シリアのイスラム法学者であり、改革家のラシード・リダ（1865-1935）がいる。ラシード・リダは彼の遺産を受け継ぎ、公平なイスラム教の政府という概念を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の如何にしてイスラム国家は作られるべきかという命題は、ムスリム同胞団など今日のイスラム主義者の間に影響力を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シーア派&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シーア派の学者たち、例えば言語学者シャイフ・アフマド・リダ、歴史家ムハンマド・シャベル・アッサーファ、そしてスレイマン・ダヘルはルネッサンス運動に貢献した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重要な政治改革がイランでも一斉に起き、シーア派の宗教的信仰は宗教的階層の組織化による重要な発展を経験した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治改革の高波が続いた。それはイランにおける立憲運動によるものであり、ある程度まではエジプトのナフダの改革と並行するものであった（並行／似るほどに&amp;#160;&amp;#160; 訳者）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文学&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
19世紀と20世紀を通して、多くの発展がアラブ文学に現れ始めた。始めは伝統的な形態を堅持していたが、近代的なテーマと現代アラブ世界により直面させられた挑戦を述べている〔注釈２３〕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クスタキ・アル・ヒムスィ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1865年、シリアの作家フランシス・マッラシュはガバット・アル・ハックを出版した。これは寓喩であり、平和、自由、平等を扱っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アレッポの作家、クスタキ・アル・ヒムスィは彼の作品の一つである『批評科学における研究者の資料』により近代文学批評を作ったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マリアナ・マラッシュはアラブ世界の文学サロンの伝統を復活させた19世紀で最初のアラブ人女性である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年、ムハンマド・フサイン・ハイカル（1888-1956）は『ザイナブ』を出版した。これは最初のエジプト文学としばしば見なされる。この小説はアラブの創作の近代化運動を始めた。若い作家たちのグループか新しい学派を形成し、1925年に習慣の文学誌『アル・ファジュル（夜明け）』を発行し始め、これがアラブ文学に大なるインパクトを与えた。これらのグループは特にドストエフスキーやトルストイ、ゴーゴリなど19世紀のロシアの作家に影響された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詩において、エジプトのアフマド・シャウキは他者の間にあって、彼は明らかに新伝統詩に属していたが、伝統的なカスィーダの限界を探求し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の後には、ハーフェズ・イブラヒムを含む別のものたちが詩を、伝統的コンセプトと同様に反植民地主義のテーマを探求するために使い始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も有名なのはレバノンのハリル・ギブラン（1883-1931）で、他の詩人たちも含まれる移民の詩はアメリカと同様に南米で、アラブ詩に可能な形の発展にさらに貢献した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1923年にボストンに本拠地を置くギブランにより出版された『預言者』は恐らくこの時代に西側に最もよく知られた作品だが、じっさいは最初英語で書かれた（the prophet参照のこと）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アラブ-アメリカペンリーグ（al-Rabita al-Qalamiyya)におけるギブランの仲間、ミハイル・ナイマ（1898-1989）はのちにレバノンに戻り、そこで文学の発展に貢献したものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・ナフダの最終段階における主要な文学の革新者はタハ・フセイン博士(1889-1973)である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼はエジプトの農家の家庭の、視覚障害の子供であり、こんにちエジプトの知の巨人と見なされており、アルアズハルで受けたコーランの教育に加え、カイロ大学、ソルボンヌ大学、パリ大学の三つの博士号を持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は1950年代のエジプトでに教育大臣として従事し、無償の義務教育を作る責務を負った。彼の最も知られた本に、自伝的な『el-Ayyam（あの日々）』がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メディア&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中東における最初の印刷された出版物はレバノンにあるコジャーヤの聖アンソニー修道院においてであり、その日付は1610年に遡る。これはシリア文字を用いてアラビア語の本を印刷した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初のアラビア文字の印刷機はレバノンのヒンシャラにある聖ヨハネ修道院に1734年、アル・シャマス・アブドゥッラー・ザヘルにより作られた。この印刷機は1734年から1899年まで動いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1821年、エジプトのムハンマド・アリは最初の印刷機をエジプトに持ってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代印刷技術はすぐに広がり、それは近代的なエジプトの新聞を誕生させた。この新聞はアル・ナフダの改革者の傾向を、台頭しつつある事務員や貿易者といった中産階級との接触に向けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトの新聞アル・アハラムは1875年に始まり、1875年から1900年にかけて、ベイルートのみが、約40の新しい定期刊行物と15の新聞設立を経験した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言語&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨーロッパやアメリカの文学を翻訳する努力はアラビア語の近代化をもたらした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代の発明の言葉のみならず、多くの科学や学問の用語が近代アラビア語の語彙に取り入れられ、新しい言葉が、アラビア語の語システムに基づき他のものを代用するために作られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代出版業の発展は（上記参照）近代アラビア語の新しい形態、すなわち近代正則アラビア語の社会への普及を確かなものとした。これはこんにちまで全てのアラビ世界で使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レバノンの学者ブトゥルス・アル・ブスターニー（1819-83）は19世紀後半、最初の近代アラビア語の百科事典を作った。これは辞書編纂方法の中世アラブ学者や西側の方法に則って書かれた。そして、アフマド・リダは最初の近代アラビア語辞典Matnal-Lugha（&amp;quot;Lisan al -arab&amp;quot;は13世紀に書かれた）を作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#160;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治&lt;br /&gt;
1876年、オスマン帝国は憲法を発布した、これはタンジマート改革（1839-76）の完成を飾るものとしてであって、こうして帝国の第一次憲政時代が始まったのである。&lt;br /&gt;
これはヨーロッパの政治の仕方に触発されたものであり、帝国を西欧の力と同等に戻すために計画された。&lt;br /&gt;
議会政治の導入はまた、政治的な階級をオスマン帝国統治下の諸州に作ったが、これらのなかからのちに進歩的な愛国者エリートが現れ、彼らはいくつかの愛国者運動に、とりわけエジプトナショナリズムの指導をすることとなる。&lt;br /&gt;
エジプトナショナリズムは非アラブであり、ヨーロッパ植民地主義とトルコによるエジプト占領に対し民族としてのエジプト人アイデンティティと歴史を強調する。これはオスマン帝国中心部の諸州や当局における青年トルコ党の台頭と同時に進行した。&lt;br /&gt;
トルコ支配への怒りはスルタン専制への抗議と一体になり、アラブナショナリズムの重荷世俗的概念は、宗教的正当性に関するオスマン帝国カリフ制の主張への文化的反応として現れた。&lt;br /&gt;
第一次世界大戦に先立つ数年間において、様々なアラブナショナリストの秘密結社が現れた。例えば、アル・ファタト、そして軍隊を基礎としたアル・アフドてまある。これはシリアナショナリズムを含む他の国民運動にも補完された。例えばエジプトナショナリズムがいくつかの現れ（in some of its manifestation　訳者）において非アラブ主義者的であり、大シリア主義と関係があったように、である。&lt;br /&gt;
後期アル・ナフダ時代の主な例はパレスチナナショナリズムがある。これはイギリス統治時代のパレスチナにユダヤ人が移民し、その結果パレスチナ人自主独立主義の意識として生じたため、シリアのナショナリズムとは区別される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翻訳ここまで---------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈&lt;br /&gt;
１．要領を得ないが、文化革命のプロセス、ぐらいの意味だろうか &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．多分「西側に触発されたもので、タンジマートとそれによる社会変化と関係があるものであるため、自然発生的であった」くらいの意味だろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．大シリア地方とはイラク＝メソポタミアと東地中海の間を漠然と指す地域名で、現代のシリア共和国のみならず、レバノンやイスラエルなどを含むものであった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４．press and other publication &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５．ムスタファ・ケマルのトルコ革命とは別で、第一次世界大戦前に憲法を復活させた若者による政治運動 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６．正則アラビア語 フスハー &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
７．brandをこう訳した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
８．Jabal ash-Shouf &amp;#1580;&amp;#1576;&amp;#1604; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1588;&amp;#1608;&amp;#1601; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９．Dibbiye &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1583;&amp;#1576;&amp;#1610;&amp;#1577; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１０．傑出した人物であったらまたは傑出した活動をした、ぐらいの意味だろうか &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１１．山岳レバノンの村 &amp;#1593;&amp;#1576;&amp;#1610;&amp;#1607; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１２．プロテスタントの学校から独立して私塾をひらいたのか、または態度がindependent独自のものになったのか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１３．&lt;br /&gt;
（コンフェッショナリズムとは、プロテスタントの心情的対立や政治闘争。ここでは、ドルーズ派とマロン派の衝突に続いてることから、「1860年のドルーズ派マロン派の衝突と、宗派対立の固定化に鑑み」の意味、でよいのではないだろうか。 訳者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１４．leadingの主語がよく分からないが、前の文節自体を主語とみなして訳した &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１５．ごちゃごちゃしてるが、「アル・ブスターニーが出版物や学校を通して、西欧知識と技術の導入に主導的役割を演じ、それがアラブ人が本来持つ文化的成功への可能性を目覚めさせたこと、それが彼の世代では彼の他にやっているものがいなかったこと、これらを以っても彼の重要性を説明しているわけではない」ぐらいの意味だろう &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１６．近代的なシリアナショナリズムの、原型となるスローガンや主義ら思想、フレーズや概念を彼の出版物が作ったと言うことだろう &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１７．ハイレッディンの生い立ちに関して、この記事には偏りがあるため、ロシア語版の生い立ちに関する箇所を以下に追記する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;quot;Хайреддин-паша&amp;quot;　ВИКИПЕДИЯ&lt;br /&gt;
（ 8:11 23 april 2018　UTC）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
URL:&lt;a HREF=&quot;https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A5%D0%B0%D0%B9%D1%80%D0%B5%D0%B4%D0%B4%D0%B8%D0%BD-%D0%BF%D0%B0%D1%88%D0%B0&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A5%D0%B0%D0%B9%D1%80%D0%B5%D0%B4%D0%B4%D0%B8%D0%BD-%D0%BF%D0%B0%D1%88%D0%B0&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Хайреддин-паша (&amp;#1582;&amp;#1610;&amp;#1585; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1583;&amp;#1610;&amp;#1606; &amp;#1576;&amp;#1575;&amp;#1588;&amp;#1575;) илиТунуслу Хайреддин-паша ― османский государственный деятель, великий визирьосманского Туниса (1856), автор тунисской конституции (1861), великий визирьОсманской империи (1879). черкесского происхождения[1].&lt;br /&gt;
Отец Хайреддина Хасан Тлаш[2] погиб в русско-черкесской войне [3], когдаХайреддин был ещё ребёнком. &lt;br /&gt;
В Стамбуле его встретил военный судья Ташин-бей, который перевёз мальчика взагородное имение в Канлыджа. &lt;br /&gt;
Там Хайреддин стал партнёром по играм сына Ташин-бея, и благодаря этойблизости к сыну бея получил хорошее образование, изучив турецкий язык (и,возможно, французский). Однако мальчик скончался, так и не став взрослым, иТашин-бей продал 17-летнего черкеса послу правителя Туниса Ахмед-бея.&lt;br /&gt;
Около 1840 года Хайреддин появился при дворе Ахмед-бея во дворце Бардо, и сталобучаться в недавно созданной беем военной академии, где хорошо научилсяговорить по-арабски и по-французски. Вскоре способный юноша был замечен придворе, и стал доверенным лицом Ахмед-бея. &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下上記記事の日本語------------------------------&lt;br /&gt;
ハイレッディン-パシャ (&amp;#1582;&amp;#1610;&amp;#1585; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1583;&amp;#1610;&amp;#1606; &amp;#1576;&amp;#1575;&amp;#1588;&amp;#1575;) 、またはトゥヌスルハイレッディン-パシャは、オスマン帝国の政治家、オスマン帝国統治下チュニジアの大ヴィジール（1856年）、チュニジア憲法の著者（1879年）、オスマン帝国大ヴィジール（1879年）。チェルケス出身（チェルケスはカフカスの一地方 訳者）。&lt;br /&gt;
（ヴィジールвизирьとはイスラム諸国の大臣を指す言葉 訳者）&lt;br /&gt;
ハイレッディンの父、ハッサン・トラシュはロシア・チェルケス戦争で死亡したがその時ハイレッディンはまだ幼い子供であった。イスタンブールで彼は戦時裁判官（военныйсудьяを訳した。戦地や占領地の軍政を担当した役職ということか？ 訳者 ）のタシン・ベイに会う。彼はこの幼子を郊外の土地に移した。&lt;br /&gt;
（郊外の所領に連れて行ったということだろう。また、カンルジャとはイスタンブールの以下の地名。当時の郊外だったのだろう。&lt;br /&gt;
Kanl?ca is a neighborhood on the Asian sideof the Bosphorus strait, in the Beykoz district of Istanbul Province,Turkey. &lt;br /&gt;
カンルジャはボスポラス海峡アジア側の隣、トルコ、イスタンブール州ベイコズ地区にある。 訳者）&lt;br /&gt;
そこでハイレッディンはタシン・ベイの子供の遊び仲間となり、このベイの子供との親密さのおかげで恵まれた境遇となり、トルコ語を覚えた（また、フランス語もできた）。&lt;br /&gt;
だが子供は大きくならないうちに死亡し、タシン・ベイは17歳のこのチェルケス人を売り飛ばし、チュニジアの支配者であるアフメド・ベイのところに送った。&lt;br /&gt;
1840年ごろハイレッディンはバルドーの宮殿にあるアフメド・ベイの宮中におり、ベイによって作られたばかりの軍学校で学び始めた。そこで彼はアラビア語とフランス語を習った。やがてこの有能な青年は宮中で認められ、アフメド・ベイの腹心となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上ロシア語版引用--------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、ハイレッディンは確かに奴隷としてチュニジアに売られてはいるし、当人の苦労も察せられるが、イスタンブールで官僚の屋敷で育ち、チュニジアの宮中で暮らしながら学校に通うなどおよそ我々が奴隷という言葉から連想する境遇とは程遠い。むしろ、今川義元の元で人質暮らしをした幼少期の徳川家康のような境遇だったのではないだろうか。 訳者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１８．理想的なまでの西欧近代思想、ぐらいの意味か &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９．または「矛盾なく結合させることを夢見た」では意訳が過ぎるだろうか &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２０．この&amp;quot;would bocome vastly influentialwith the fall of Caliphate&amp;quot;は「カリフ制度崩壊に大きな影響を与えることになる」とも訳せるだろうか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２１．個々の原文、voidは空白地帯と訳しても良いだろう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２２．ここは「アブドゥの弟子達の中で」と訳しても良いのか？&lt;br /&gt;
原文：among students of Abudu&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２３．ここは、〔アラブの近代化で直面した試練」とか訳した方が良いかも &lt;br /&gt;
原文： the challenges faced by the Arab worldin the modern era.</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65135636.html</link>
			<pubDate>Sun, 11 Nov 2018 21:13:22 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>アル・マアッリー　　アッバース朝シリアの詩人・哲学者　【拙訳】</title>
			<description>マアッリー&lt;br /&gt;
翻訳しているのは以下のページ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Ma&amp;#703;arri&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Ma&amp;#703;arri&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
------------------------------以下翻訳-------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・マアッリー &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブー・アル・アラー・アル・マアッリー ( (Arabic &amp;#1571;&amp;#1576;&amp;#1608; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1593;&amp;#1604;&amp;#1575;&amp;#1569; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1605;&amp;#1593;&amp;#1585;&amp;#1610; Ab?? al-&amp;#703;Al??&amp;#702; al-Ma&amp;#703;arr??, full name &amp;#1571;&amp;#1576;&amp;#1608; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1593;&amp;#1604;&amp;#1575;&amp;#1569; &amp;#1571;&amp;#1581;&amp;#1605;&amp;#1583; &amp;#1576;&amp;#1606; &amp;#1593;&amp;#1576;&amp;#1583; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1604;&amp;#1607; &amp;#1576;&amp;#1606; &amp;#1587;&amp;#1604;&amp;#1610;&amp;#1605;&amp;#1575;&amp;#1606; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1578;&amp;#1606;&amp;#1608;&amp;#1582;&amp;#1610; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1605;&amp;#1593;&amp;#1585;&amp;#1610; Ab?? al-&amp;#703;Al??&amp;#702; A&amp;#7717;mad ibn &amp;#703;Abd All??h ibn Sulaim??n al-Tan??&amp;#7830;?? al-Ma&amp;#703;arr??; December 973 &amp;#8211; May 1057）は盲目のアラブ人哲学者、詩人、作家である。アル・マアッリーは反宗教的な世界観を保持し、また強調し、それは論争にさらされた。しかしそれにもかかわらず、彼は最も偉大なるアラブの詩人と評される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アッバース朝時代、マアッラの街で生まれ、アレッポ近郊でそれからトリポリ、そのあとはアンチオキアで学んだ。&lt;br /&gt;
バグダードで人気のある詩を作ったが、にも関わらず彼はそれを出版して売ろうとはしなかった。&lt;br /&gt;
1010年に母親が体調を崩したためシリアに戻り、そして著作を続けることで地元の人たちから尊敬を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悲観的な自由思想家と評されるが、アル・マアッリーは当時物議をかもす合理主義者であり、道理が真実の元だと述べていた。彼は人生に悲観的であり、自身を視覚障害と孤立に苛まれた「二重の囚人」と述べていた。彼は宗教の教理を攻撃し、イスラムを拒絶していた。&lt;br /&gt;
彼は同様にユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教に対しても辛辣であった。彼は社会正義を唱え、世俗を離れ、禁欲的な生活態度であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は「屠殺された動物の肉を、または子供に飲ませようとしている母親のミルクを食物として望むな」と訴え、ヴィーガンになった。&lt;br /&gt;
アル・マアッリーは自身の全体的な悲観主義の関係から厭世的世界観であり、また子供が苦労させないように生まれるべきではないと主張している（注釈１）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・マアッリーは当時人気だった三つの作品を書いた。それは、「燃え盛る火花」、「重要ではない重要事」「許しの手紙（resalat al-ghufran）」であり、「許しの手紙」はダンテの神々しいコメディの先駆者であろうと考えられている。&lt;br /&gt;
アル・マアッリーは結婚をせず、83歳で自身が生まれたマアッラート・アル・ヌーマン（マアッラートンヌーマン）で死亡した。2013年、シリアの彼の故郷にあったアル・マアッリーの像はヌスラ前線のジハード主義者により斬首された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生涯&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アブー・アル・アラーは西暦973年１２月にアレッポに近いシリアのマアッラ（注釈２）で生まれた。彼の時代、この街はイスラム黄金時代に三番目のイスラム帝国であったアッバース朝に属していた。 &lt;br /&gt;
彼はマアッラの名家であり、大タヌーク族に属するバヌー・スレイマンの一族であった。彼の先祖の一人は恐らくマアッラ最初のカーディー（法官  訳者）だった。&lt;br /&gt;
タヌーク族は数百年の間シリアにおいて貴族階級であり、バヌー・スレイマンに属する何人かは優れた詩人であったと記録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は4歳の時に天然痘で視力を失った。彼の後年の悲観主義は彼の視覚障害により説明できるであろう。のちに彼は自身を「二重の囚人」と言ったが、これは彼の視覚障害と生涯にわたって彼が感じていた全般的な孤立状態を指すものである。 &lt;br /&gt;
彼は11歳か12歳という幼いうちから詩作を始めた、最初マアッラとアレッポで、それからアンティオキア、そして他のシリアの都市で教育を受けた。アレッポにおける先生の中にはイブン・カラワイのサークルメンバーたちがいた。（注釈３）&lt;br /&gt;
この文法学者であったイスラム法学者は、980年に死亡したが、その時アル・マアッリーはまだ子供であった。アル・マアッリーは、にも関わらず、彼の「許しの手紙（risalat al ghufran）」の詩において強い口調でイブン・カラワイを失ったことを嘆く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・キフティの記述（report）によればトリポリに行く途中、アル・マアッリーはラタキア近くのキリスト教修道院を訪れたという。そこで彼はギリシャ哲学の議論を聞いた。これが彼の心に、後年の懐疑性と反宗教的な考え方のきっかけを与えた。だがイブン・アル・アディムのような別の歴史学者はアル・マアッリーがイスラム教の教義以外に神学に触れたということには否定的だ。&lt;br /&gt;
（注釈４）&lt;br /&gt;
1004年から1005年にかけての時期に、アル・マアッリーは父が亡くなったことを知り、それに対して哀歌を書いて父を称賛した。数年後、彼はバグダッドに旅することとなり、そこで当時の文学サロンにおいて問題人物ではあったが、高く評価された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バグダッドで18ヶ月目のとき、アル・マアッリーは故郷に戻ったが、理由は明らかではない。彼が故郷に戻ったのは恐らく母親が病気のため、または自身の作品を販売することを良しとせず、バグダッドで金を使い果たしためであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼はマアッラで残りの生涯を送り、そこで自身の詩を販売することを拒み、世俗を離れて暮らし、厳格な草食生活を守るという禁欲的な生活を選択したのであった。 &lt;br /&gt;
彼の自宅への個人的監禁（注釈５）が壊されたのは一度だけ、暴力が彼の街を襲ったときのみだった。彼は監禁されていたが（隠遁生活のことを監禁と言っているのであろう 訳者）、作品の執筆を続け他の者と共同作業しながら残りの人生を全うした。&lt;br /&gt;
彼は大きな尊敬を受け、地元で多くの学生を惹きつけ、外国の学者と往復書簡を交わすほどに行動的であった。彼の隠遁生活の意図にもは関わらず、70代で彼は裕福になり、彼の住む地域で最も尊敬される人となった。アル・マアッリーは一度も妻帯せず1057年５月に地元の町で亡くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思想&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・マアッリーは自身の信仰に懐疑的であった。信仰における迷信とドクマチズムを批判した。これらは、彼の全体的に悲観的な人生観と共に、彼をして悲観的な自由思考家と称させた。&lt;br /&gt;
彼の哲学で繰り返し出てくるのが、習慣、伝統、そして権威の主張することに対しての理由の権利である（注釈６）。アル・マアッリーは宗教を「古代に作られたおとぎ話」であり、無知でなんでも信じやすい大衆を食い物にする者にとっては価値があるが、そうでないものには価値はない、と説いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「預言者の言葉が真実だなんて思うな。あんなのはみんな作り話だ。奴らがやってきて生をダメにするまで人類は楽しく暮らしていたのだ。コーランはいつの時代でもあったような根も葉もない作り話だし、それは今もなお作られているのだ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・マアッリーは多くのイスラム教義を批判している、例えばハッジを彼は「不信心者の旅行」と呼んでいる。彼は神による啓示を拒絶している。彼の信条は哲学者や修行者のものであって、そうしたものたちにとっては論理的解釈（注釈７）が倫理の指針となり、美徳が自身への褒賞となる。&lt;br /&gt;
彼の宗教への懐疑ときっぱりとした反宗教的見方はイスラム教を超えて伸張され、同様にユダヤ教とキリスト教を含むこととなった（注釈８）。アル・マアッリーが述べるには、僧院の僧侶たちやモスクの信心深いものたちは盲目的に自身の地域への信仰を支持している、もし彼らがゾロアスター教徒やマンダ教徒の中で生まれればゾロアスター教徒やマンダ教徒になるだろう（注釈９）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
組織化された宗教への見解を要約しながら彼は述べる。「地球の住人は二種類いる。脳があって宗教がないものと、宗教があって脳がないもの達だ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
禁欲生活とヴィーガニズム&lt;br /&gt;
アル・マアッリーは禁欲的であり、世間的な願望を放棄し、作品を書いている間も他人から離れて暮らしていた。彼はあらゆる種類の暴力に反対していた。バグダッドにおいて、彼は高く評価されたが、自分の作品を販売しないと決めており、そのために生活が苦しくなった。&lt;br /&gt;
この禁欲生活は彼の生きた当時、インドの同様の思想と比較された。アル・マアッリーの晩年において、彼はは肉やあらゆる動物製品を消費しないヴィーガンとなった。彼は書いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「不当に水が手放した魚を食うな、そして屠殺された動物の肉を食べ物として望むな、または自身の純粋な一口を高貴な淑女ではなく自身の子供に与えようとする母牛の純白のミルクを食物として望んではならない。&lt;br /&gt;
疑うことを知らぬ鳥を卵を取ることで悲しませてはならない。正義に反する行為は最大の罪なのだ。蜂がせっせと断片のような植物（fragment plant 訳者）の花から取ってきた蜂蜜を惜しめ。なぜなら鳥達は人のものを蓄えているのではなく、またそれを寄付や贈り物にするために集めているのではないからである。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私はこうしたこと全てを辞めた。そして私が望むことは、自分の髪が灰色になる前にこの道を理解することだ！」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・マアッリーの根源的な悲観主義は彼の子供を持たない方が良いという主張において述べられており、曰く、いかなる子供も苦労しないように生まれるべきではない（注釈１０）&lt;br /&gt;
親族を無くした時彼により作られた哀歌において、彼は自身の悲しみを人生の無常に関する自分の考えと結びつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「足を緩めろ。思うに地球の表面は死体の様なものだ。&lt;br /&gt;
空中をゆっくり歩くんだ。そうすれば神の召使いどもの残骸を踏まないですむ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アル・マアッリーの墓碑すらも、彼は自分の人生がダメだったのは父親のためであり自身のせいではない、と書かれることを望んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代的視点&lt;br /&gt;
アル・マアッリーはアラブ世界の主流宗教であるイスラムに懐疑的だったため、今日においても批判の的になっている。2013年すでに彼の死から千年後であるが、アルカイダの分派であるヌスラ前線がシリア内戦の間にアル・マアッリーの像を斬首した。&lt;br /&gt;
この像は彫刻家ファティ・ムハンマドによって作られた。斬首の動機は議論されており、&lt;br /&gt;
その説は、彼が異端者であるという事実から&lt;br /&gt;
彼がアサド家と関係のある幾人かに信じられているという事実までを範囲とした（注釈１１）。&lt;br /&gt;
それでも、アル・マアッリーは最も偉大なる古典アラブ詩人として言及されることがある。ある者たちは彼とローマの詩人ルクレティウスとの関係で描写し、彼らを時代の最先端と称した。&lt;br /&gt;
（注釈１２）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の最初の詩集は燃え盛る火花（Saq&amp;#7789; al-zand; &amp;#1587;&amp;#1602;&amp;#1591; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1586;&amp;#1606;&amp;#1583;)であった。詩集にはアレッポの高名な人たちを称えたものや、ハムダーン朝の指導者サアド・アッダウラをたたえたものがある。&lt;br /&gt;
この詩集は彼の知名度を上げ、詩人としての評判を打ち立てた。&lt;br /&gt;
この詩集はわずかではあるが武具に関するものもあった（注釈１３）。&lt;br /&gt;
二作目として、さらに独創的な詩集が「重要ではない重要事(Luz??m m?? lam yalzam &amp;#1604;&amp;#1586;&amp;#1608;&amp;#1605; &amp;#1605;&amp;#1575; &amp;#1604;&amp;#1575; &amp;#1610;&amp;#1604;&amp;#1586;&amp;#1605; &amp;#1571;&amp;#1608; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1604;&amp;#1586;&amp;#1608;&amp;#1605;&amp;#1610;&amp;#1575;&amp;#1578;)」という、タイトルで出された。これは単に「ルズーミーヤート」または「重要事」とも称される。&lt;br /&gt;
このタイトルはアル・マアッリーが生きることをどう見ていたかに言及し、また用いられている押韻の重要でない複雑さに言及している。（注釈１４）&lt;br /&gt;
彼の三番目の作品は散文であり「許しの手紙（Resalat Al-Ghufran &amp;#1585;&amp;#1587;&amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1577; &amp;#1575;&amp;#1604;&amp;#1594;&amp;#1601;&amp;#1585;&amp;#1575;&amp;#1606; )」として知られている作品である。この作品はアラブ詩人、イブン・アル・カーリーフに対する返信として書かれたものであり、アル・マアッリーは彼の宗教観を嘲笑している。&lt;br /&gt;
この作品で詩人は天国を訪れ、イスラムの教えは神を信じるものだけが救われるということを保持しているが、その教えとは反対に、無明時代（注釈１５）のアラブ詩人に会うのである。&lt;br /&gt;
この世を去った人たちと会話を交わすという点から見て、「許しの手紙」は数百年後に出されたダンテの神曲と比較される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この作品はまた、イブン・シュハイドの「Risala al-tawabi&amp;#039; wa al-zawabi」と似ているとも言われるが、アル・マアッリーがイイブン・シュハイドに影響を受けた確証はなく、ダンテがアル・マアッリーに影響を受けた確証もない。&lt;br /&gt;
アルジェリアは報道によれば2007年に同国で行われた国際ブックフェアから「許しの手紙」を出すことを禁止した。「段落と時代」（Al-Fu&amp;#7779;??l wa al-gh??y??t) は説教集である。この作品はまたコーランのパロディとも言われてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言及&lt;br /&gt;
Risalat ul Ghufran, a Divine Comedy. Translated by G. Brackenbury 1943.&lt;br /&gt;
The Epistle of Forgiveness: Volume One: A Vision of Heaven and Hell. Translated by Geert Jan Van Gelder and Gregor Schoeler. Library of Arabic Literature, New York University Press 2013.&lt;br /&gt;
The Epistle of Forgiveness: Volume Two: Hypocrites, Heretics, and Other Sinners. Translated by Geert Jan Van Gelder and Gregor Schoeler. Library of Arabic Literature, New York University Press 20&lt;br /&gt;
略&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;https://en.m.wikipedia.org/wiki/Al-Ma&amp;#703;arri&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://en.m.wikipedia.org/wiki/Al-Ma&amp;#703;arri&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----------------------------------------ここまで----------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１&lt;br /&gt;
どんな子供も生まれてしまえば苦労は避けられない、ということか？ 訳者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈２&lt;br /&gt;
現代のマアッラ・アル・ヌーマン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈３&lt;br /&gt;
イブン・カラワイの記事 &lt;a HREF=&quot;https://en.m.wikipedia.org/wiki/Ibn_Khalawayh&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://en.m.wikipedia.org/wiki/Ibn_Khalawayh&lt;/a&gt; 訳者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈４&lt;br /&gt;
アル・キフティの記事 &lt;a HREF=&quot;https://en.m.wikipedia.org/wiki/Al-Qifti&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://en.m.wikipedia.org/wiki/Al-Qifti&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈５&lt;br /&gt;
彼の隠遁生活のことであろう &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈６&lt;br /&gt;
原文の「reason」には「論理的に論じる」「論証する」の意味もあるので、『因習や権力などに対し何故そうなのかの論理的な説明を求める権利」ということであろう &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈７&lt;br /&gt;
reasonを敢えてこのように訳した 訳者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈８&lt;br /&gt;
つまり、イスラム教への否定的な見解がさらに拡大され、イスラム教を超えてユダヤ教やキリスト教にまで及んだということ 訳者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈９&lt;br /&gt;
要は、何も考えずに身内贔屓な人たちが多い、ということだろう &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１０&lt;br /&gt;
うまく訳せないが、「人生の苦痛を和らげるために子供を作るな」、または逆に「彼らを苦労させないように」という意味だろうか 訳者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１１&lt;br /&gt;
つまり「斬首の背景は、彼が異端者だということから、アサド家の関係者に信仰されていたからということまで諸説論じられている」くらいのニュアンスだろう 訳者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１２&lt;br /&gt;
ルクレティウスのウィキペディア記事 &lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１３&lt;br /&gt;
英和辞典でarmourと引くとこのように出るがいまいち要領を得ない。合戦や武芸に関することとしても違和感がある。フランス語辞典でarmourを引いてもamourはあれどarmourはない &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１４&lt;br /&gt;
要領を得ないが、タイトルは彼の人生観とややこしい押韻（（西尾維新ばりの言葉遊び！！））が現れている、のような意味であろうか &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注釈１５&lt;br /&gt;
イスラムが興るより前の時代</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65089964.html</link>
			<pubDate>Thu, 20 Sep 2018 22:12:00 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>梅棹忠夫『文明の生態史観』とGoogle マップ</title>
			<description>『文明の生態史観』は梅棹忠夫が50年代に中東やインドを旅して得たインスピレーションを基にして書かれた理論である。曰く、それまでの「西洋対東洋」ではなく「第一地域（近代化に50年代当時成功している地域）」「第二地域（四大文明発生地やその近隣で執筆当時近代化出来てない地域）」でユーラシアを二分した構図だ。&lt;br&gt;
書かれた時代が古いため、例えば現在世界経済を牽引する韓国や中国、アセアンが近代化していないし、近代化に成功してるか否かというのもなんか今にして思えば短絡的にも思え、また第一地域の特徴である前近代における封建社会の発達を上げているがそれにしても例えば第二地域のインド・ムガル帝国も藩王がいたりして封建制的要素があるため必ずしも厳密に見ると正しいとは言えない様な点が多い。とは言え梅棹忠夫曰く、あくまでこの理論は「理想的なモデルケース」であり、細部を見ればそんなに単純化は出来ないとのこと。&lt;br&gt;
この文明の生態史観はＩＴもパソコンもない50年代にかかれたものだが、この理論をGoogle マップを用いて考察してみたいと思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「人間の歴史の中で、まずひらけはじめたのは、この乾燥地帯か、あるいはその周縁部の準乾燥地帯である」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「まんなかに、砂漠・ステップをふくむ乾燥地帯があるものとすれば、その外側には、サバンナ風の準乾燥地帯があらわれ、さらにその外側には森林に覆われた湿潤地帯があるはずである。実際、世界の生態学的構造は、ほぼそうなっている」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
要は、ユーラシアには真ん中を貫く砂漠地域があり、その周辺に四大文明発生地の第二地域がある。第二地域は四つ、１.中国世界、2.インド世界、3.ロシア世界（ソ連圏のことか？）、4.地中海世界の四つに分けられる。。そのまた外側に古代中世には文明地域の周縁だった第一地域がある、とのこと。&lt;br&gt;
で、Google マップで示すと以下の通りとなる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_0_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_749_1074&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
赤枠はユーラシアを貫く砂漠、その外に黒枠で囲んだのは1から４の中国世界、インド世界などを表す。&lt;br&gt;
赤枠と，1～4が第二地域、その外が第一地域だ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ちなみに梅棹忠夫のオリジナルの第一地域、第二地域の図は以下&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_1_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_750_1038&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
これを見ると、なんか砂漠が東西を遮って、その周りのサバンナや地中海の準乾燥地帯で文明が出来たってのが、確かになんとなく感じられはする。取り敢えず、砂漠がユーラシアの真ん中を遮っているのはお分かりかと思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
つっても、砂漠の外側に、デコボコした形で四つの地域が生えている感じである。もし砂漠の外側に準乾燥地帯たる文明発生地地域があるとするなら、赤枠の外を覆うように，1～4の文明世界がなきゃおかしいんだが、実際には東南アジアや東ヨーロッパの部分で1～4の文明世界が歯抜けになっている。これは、おそらく地理的な隔絶によって文明地域になれなかった周縁部とは言えないだろうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
例えば東南アジアはヒマラヤなどの山々で中国世界ともインド世界とも隔絶されていないだろうか？例のごとく赤枠はユーラシアを貫く砂漠を表す。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_2_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_740_1334&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかも東南アジア自体も山々やメコン川、イラワジ川などの大河に分断されている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_4_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_750_1277&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
つまりヒマラヤや雲南省の山々、メコン川やイラワジ川などの大河が中国世界やインド世界から東南アジアを隔絶しているのではないか。それを言うなら地中海世界のアルプスやドナウ川、カルパチアなんかも似た役割かも知れんですね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_3_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_750_1334&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「歴史というものは、生態学的なみかたをすれば、人間と土地との相互作用の進行の跡である。別な言葉で言えば主体環境系の自己運動の跡である。その進行の型を決定する諸要因のうちで、第一に重要なのは自然的要因である。」「そしてその自然的要因の分布はでたらめではない。それが幾何学的分布を示しているのである。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そもそも生態学的って言葉の意味がよくわからんのですが、歴史を地理的要素で理解する、人文地理学的考え方は人強く共感できます。中緯度の平原に大河が流れれば農耕が始まり文明が開けるし、険しい山や砂漠があればそこから向こうとは隔絶される。自然的要因で国や地域、文明圏が分かれるのは直感的によくわかる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
幾何学的分布ってのもイマイチよくわからないけど、要は法則性のある分布、地球の緯度経度に基づく気候やユーラシア世界の地形に応じた法則性ある分布ということだろう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ちなみに、以下は蛇足だが、自分も個人的にGoogle マップから人文地理学的着想を得ていた。それはつまり四大文明発生地（ここで言う第二地域）は中緯度地域の大河が流れる巨大平原という点。その文明圏の範囲は、農耕と文明の中心である大河から、自然の障壁である巨大山脈や海、砂漠まで。実際以下の図を見ると、メソポタミアとエジプトはシリアやイスラエルの砂漠に、メソポタミアとインドはイランやパキスタンの山や砂漠で遮られているのが分かる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
メソポタミアとエジプトを遮る砂漠&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_5_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 6&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_750_1288&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
インドとメソポタミアを遮る砂漠と山々&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ea-2d/ksboon78/folder/1599662/90/65073190/img_6_m?1537449976&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 7&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_749_1329&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
まさに人間の歴史は地理的要因に対する人間の対処の結果だということが出来るでしょうね。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65073190.html</link>
			<pubDate>Fri, 31 Aug 2018 23:47:26 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>軍事政権時代の韓国 続きの続き</title>
			<description>開発独裁には本で読む限りはわりと好意的に思ってたんだが、現場で暮らしていた人たちの話を聞くと、とても同意できるもんじゃないことがわかる。&lt;br /&gt;
開発独裁とは、要はブラック企業ならぬブラック国家であって、国、企業、役所、司法、学校がグルになって低賃金で平民を搾取して国を富ませる政体ということなんだろう。でも国に分配する金がないとやっぱ庶民に還元もできねえ。貧乏な状態で民主化しても不安定な変な国ができるだけなんじゃないかな。&lt;br /&gt;
なんとも読んでいて軍政側も民主勢力もシロクロつけれないのであった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/ksboon78/65021119.html</link>
			<pubDate>Mon, 02 Jul 2018 19:38:40 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		</channel>
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