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障害者教育科学研究所
Research Institute of Educational Science for Persons with Disab
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   資料 3
    機関紙「発達の権利」(仮称)第1号 1965年9月
田中昌人先生による数度にわたる手稿 第3次(一部紹介)

 重症心身障害児から大学生にいたるまで、直接社会それも経済界に役立つところから対策がすすんでいることがわかる。
 
 教育や福祉をはじめ、すべての対等が社会効用論的の立場から一元化していこうとしているのである。
 
 そこではさきの人的能力政策についての答申にのべられている次の考えが基本になっている。
 
「機会均等原則は、同じ能力のある者の教育機会が平等であるということである。こういう意味で、能力主義を徹底する必要がある。能力による区別は差別ではない。また差別にならないような条件を与える必要がある。」
 
 これが現在の搾取関係を固定化し、社会に役にたつところから手を打っていくことを合理化する論理である。
 
 搾取関係を固定化し、社会効用論を肯定した立場からの教育や福祉制度の一元化は、制度をととのえるだけではなく、限界状況において、あの人は死んだ方が幸せだという考えを生む。
 
 重症心身障害児や極貧の人たちをぎりぎりのところで本人のせいにして見放す。
 
 これだけしているのに好転しないのは本人が悪いのだと、対する側の変革を棚にあげてしまう。
 
 死ぬこととはこれ以上不幸をかさねないですむのだ。
 
 生き続けたらそれは不幸をますだけだ。
 
 こういう考え方は、自分が役にたたない人間だといわれないために、搾取者につながり、そのつながりの中に自分を売りわたすことによって自分の幸せを獲得する生き方をしらずしらずの中につくっていくのである。
 
 このように人間の全面的な自己実現の過程が、一面的、社会効用論的な能力結果主義によって、一面的・画一的に差別され、搾取されている現状に対して抵抗し、闘わなければならない。
 
 そこに、人間が人間になっていくことについての大事な活動が生まれる。
 
 
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  資料 2 
 
    機関紙「発達の権利」(仮称)第1号 1965年9月
田中昌人先生による数度にわたる手稿 第3次(一部紹介) 
 例を精神薄弱児にとると、学校教育法では精神薄弱児のための特殊学級や養護学校を設けることを義務づけている。
 
 現状はどうか。
 文部省が施行細則をつくらないために、学校教育法ができて18年たつのに、いまもって校門をくぐった精神薄弱児に適切な教室を用意することが義務づけられていないのである。
 
 文部省は学校教育法の精神を具体化する努力を自らせずして、法を守れと誰にいうのであろうか。
 
 しかも現実は、特殊学級を設置するとついてくる補助金を他に流用することが跡をたたない。
 その上、知能指数□以下は父兄の同意のもとに就学猶予・就学免除をうけることができるとなっている。
 
 ところが、特殊学級は知能指数50以上、養護学校は知能指数40以上という一応の線をだすことによって、事実上その条件にあわない人たちには就学猶予と就学免除の道しかのこされていないのである。
 
 憲法第26条の
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
 
ということが、
 
能力にたいする教育を用意するように国が努力すべきであるととられず、
 
国は教育を用意した、
能力によって教育をうけよ、そこまで能力のないものは教育をうけるな、
 
ということになって、
この人たちに迫り、結果として教育をうける権利をうばっているのである。
 
 能力に応じた教育ということが、
 
能力にたいする教育というふうにこどもを権利の主体とせず、
 
能力による教育を解して、こども以外のものが権利の主体になっていること、
このこどもたちは権利がいわれているのだということを、はっきりしらなければならない。
 
 国は、社会に役立つというかたちで、国民に還元されないことに国民の税金を使うのは、国民にたいしてもうしわけないのだ、という姿勢をしめすことがある。
 
 だから、1962年現在で全国に精神薄弱児の養護学校28校のうち、県立は5校しかないということにもなる。
 
 教育委員会のお金を高校増設につかうか養護学校建設につかうかとなれば、とうぜんのこととして高校がえらばれるのである。
 高校増設は必要である。
 
 しかしこの充実のスケジュールの中で、いつのまにか社会効用論的人間理解のしかたが育っているとすれば、国民は税金を払って、排他性のつよい社会をつくって、自らの墓穴をほっていることになる。
 
 労働省の身体障害者雇用促進法も、頭の障害は身体の障害ではないとみたのか、精神薄弱者をふくめていない。
 
 もっとも手厚い対等がさしのべられなければならないこの人たちには、社会にでようとするとき、敗残者への道しか用意されていないのである。
 経済審議会が1963年に人的能力政等について答申したが、そこでは精神薄弱者につぎのようにふれている。
 
「また身体障害者対等とあわせて、精神障害者、なかんずく精神薄弱者の訓練施設の整備充実をはかり、その社会的適応性を高めることによって、社会経済活動への参加を促進することが必要であろう。なお心身障害者の訓練とあわせて、その心身障害を活用する職場への配置を十分適切に行うため、事業主に対する指導援助についても考慮すべきであろう。」
 
 前後の文章はすべて終止形になっているのに、この二文だけはちがう。
 
 完全に役に立つことからの視点である。
 
 競争社会の中でねぎられるしか道がのこされていないとすれば、われわれが障害児を育てているということはどういうことなのであろうか。
 
 障害児の味方であるとおもわれている人間が、
 
かれらを裏切ることにしかならないとすれば、
 
われわれは、そうさせている社会に挑戦することのみによって
しか、
 
かれらの味方にたてなくなるのである。
 
 教え子を再び戦場におくるな。
 
 じつにいまの社会に障害児をだすことは、戦場におくることになりかねないのである。
 
 社会効用論的人間理理解のしかたは障害児をみたとき、そこに集約的にしわよせがきているのがわかる。
 
 しかし、それは障害児だけの問題にとどまらない。
 
 すべての人間の能力を一面的にみ、
しかも能力を発揮する過程においてでなく、
能力を発揮した結果だけが役に立つかどうか
 
という観点からみ、みる側がその人間を一方的に選別し、搾取への奉仕を強いることになっているのである。
 
 小学校から、中学、高校と一貫して、問いに対してまちがいのない答えをだすだけの教育がおこなわれている。
 
 答えをまちがいなく、早く、たくさん出すという視点が中心になって進学組が編成されているとすれば、そこではてっとりばやい能力結果主義による不当な差別をしていることになる。
 
 こどもの側に権利の主体があるということは、
問いにこたえをだすだけでなく、問い自体をかえていく、“問う”という中でしめされていくのである。
 
 搾取に抵抗する人間はそこにできる。
 
 答えるだけの人間をつくることは、結果として搾取に奉仕していることになる。
 
 答えだけに関心のある選別方式は社会効用論的人間理解のしかたをこえているとはいえない。
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    機関紙「発達の権利」(仮称)第1号 1965年9月
田中昌人先生による数度にわたる手稿 第3次(一部紹介) 
 
〈 声明 〉

 
 われわれは、ここに、新しい権利獲得への闘いを開始する。
 
 まず、われわれは、人間の全面的な自己実現の過程が、一面的・社会効用論的な能力結果主義によって、一方的・画一的に差別され、搾取されている現状を拒否する。
 
 われわれは、障害をもっている老若男女をふくめて、あらゆる人たちの生涯にわたる全面的な自己実現の過程は、平等な価値をもつことを認め、その実現過程を徹底的に尊重する立場にたつ。
 
 そして、社会的不平等と闘ってきた人類が、その闘いを強めていく中で、自然的不平等を容認するようならば、自らもふくめて新しい社会的不平等の中におちこんでしまうことを警告しつつ、搾取と闘う戦列に参加する。
 
「すべての人間の全面発達の権利を積極的に保障せよ」
 
 これがわれわれの旗じるしである。
 
1、ここに重症心身障害児といわれる人たちがいる。
 
 体のつくりがおかしい。
 自分で食事や排泄のコントロールができない。
 あるくこともできず、ことばもいえない。
 きついちえおくれや精神障害がある。
 
 世論調査の結果、60%あまりの人たちは「死んだ方が幸せだろうに」とみている。
 この世論にあぐらをかいて、国の施策はないにひとしい。
 
 国勢調査をしても、こういう人たちの実数すら把握できていない。
 推定で3万人といわれるこの人たちにたいする専門の療育施設は、1965年度現在で3施設収容総数約230人である。
 
 大学の入試問題以上の、この絶対数の不足が社会に緊迫感をもってうけとめられないのはなぜか。
 しかも、この3施設は全部、民間の力が赤字をかさねてつくってきたものであって、国は補助以上の姿勢にはでていない。
 
 それどころか、たとえば東京都が重症心身障害児療育施設を助成しようとすると、憲法第89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」にふれるのではないかという問題すらでてくるような無策ぶりだったのである。
 
 このことは重症心身障害児だけの問題であろうか。
 
 総じて、国の対策は、今の社会に直接役立たないと見込んだ人びとに対しては、きわめてつめたい。
 
 小中学校全児童生徒を例にとろう。
 
 就学率は99.8%と世界一である。
 これは、しかし、校門をくぐった率にすぎない。
 適切な教育がなされているかどうかはまた別である。
 
 精神薄弱児をみよ。
 校門はくぐっても適切な教室へはいっていない。
 
 特殊学級と養護学校へいっている人たちを、かりに適切な教育をうけているとしても、その率は1964年度で小中学校年令精神薄弱児推定数80万人の中の9%にすぎない。
 盲児46%、ろう児66%、肢体不自由児12%、病弱・虚弱児3%をみ、さらに難聴、弱視、各種小児精神病、心臓病などを問題にしていくと、つぎのことがはっきりする。
 
 すなわち、数が少なく、金がかかり、外にあらわれにくく、役に立たないとみられる人たちの対策があとまわしになっているのである。
 
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  教育の機会均等等推進に関する意見書
 教育の機会均等は、憲法26条に明記されている。しかるに、学校教育法第23条に規定された病弱児童の就学猶予または免除の規定により、教育を受ける意欲に燃えた数多くの重度心身障害児が、その機会をそう失し、また保護者においても、教育を受けさせる義務が著しく阻害されていることは、まことに遺憾である。
 よって政府においては、すべての重度心身障害児についても、その教育を受ける機会が均等に保障されるよう、行政的措置は言うまでもなく、財政的措置においても万全を期して強く推進されることを強く要望する。
 以上、地方自治法第99条第2項の規定により意見を提出する。
 昭和46年10月8日
内閣総理大 臣 佐 藤 栄 作 殿
大 蔵 大 臣 水 田 三喜男 殿
文 部 大 臣 高 見 三 郎 殿
         京都府議会議長 橘 堅 太 郎
 
 (注)1971(昭和46年10月8日  京都府議会は、すべての子どもにひとしく教育を、のねがいが1950年代後半からの陳情・請願が出され続けたことを受け政府に対して意見書を提出する。この意見書は、政府に大きな影響を及ぼし学校教育法等の改正が行われる。
 なお、このことに関わる意見書も数多く提出されている。
 
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