|
|
全体表示
-
詳細
2017年1月トルコでの出来事。 79歳で亡くなった彼は「セザー」という犬を飼っていました。 彼を看取った息子さんの話によると彼が危篤状態に陥った時、セザーは食事を一切摂らなくなり遺体が自宅に到着したときは棺をひとときも離れることなく寄り添っていたといいます。 「セザー」が周囲に示した飼い主への愛はそれだけにとどまりませんでした。 「セザー」は葬儀でモスクに運ばれる棺の行列の先頭に立ち参列者たちを導いたのです。 「セザー」は無事に埋葬されるまでたとえ親族といえども彼に触れさせることを絶対に許さなかったそうです。
「マーシャ」は2年にわたりシベリアの病院で飼い主を待ち続けている。 しかし、その飼い主はすでに病院で亡くなっているのです。 現在も進行中のこの話があまりにも日本の「忠犬ハチ公」そっくりなのでロシアのメディアで紹介されました。 「忠犬ハチ公」の実話は異国のロシアでも有名です。 貧しい農家の独り暮らしの男性が入院したとき、そこに付き添っているのは「マーシャ」だけだった。 その後も彼を見舞うのはマーシャただ一匹。 夜になると家に戻り翌朝には病院に行って彼を見守っていた。 飼い主が亡くなってからも毎朝病院に姿を現し飼い主を待ち続けた。 「マーシャの目を見てください。なんて悲しい目をしているんでしょう。」 と言うのは医師のウラジミール・べスパロフさん。 「犬も私たち人間と同じなんです。」
高齢で亡くなった女性の孫のレオンさんは棺を車で墓地まで運ぶ最中に路上で犬が 車を追いかけていることに気がつきました。 犬は祖母の可愛がっていたボビーでした。 ボビーは人間たちが何を行っているのか知っているかのようでした。 埋葬地に到着すると棺が置かれる穴の横に座りそこから全く動こうとしないボビー。 その場に居た全員が感動と尊敬の眼差しで見ていました。
【学術誌『サイエンス』】犬は飼い主の言葉を理解している、脳研究で判明。 「イヌの脳も、人間と似た方法で情報を処理している」という研究結果が掲載され話題となりました。 そしてこの研究結果から、"犬は人の言葉を理解している"ことが判明したのです。 【AFP】犬との愛の秘密は、瞳の中に──。 犬と人間が互いの目を見つめ合うことで、双方に「愛情ホルモン」である オキシトシンの分泌が促進されるとの研究論文を16日、麻布大学(Azabu University)動物応用科学科の菊水健史(Takefumi Kikusui)氏率いるチームが 米科学誌「サイエンス(Science)」に発表した。 これまでの研究では、母親が赤ちゃんの目を見つめることで、オキシトシン生成が促進され、愛情、保護、親近感などの感情がわき上がることが分かっていた。 論文は、犬と人間がアイコンタクトを通じ、信頼と感情面の結びつきを育むオキシトシンの分泌を高め、 数百年にわたり共に進化して親密になった可能性を示唆している。 【オーストリア研究】犬は人間の表情がわかる。 人間の表情から感情を読み取っていることが判明。 これまでの様々な研究からも、犬と人間の脳のメカニズムは似ていて、人間の感情を理解し、悲しんでいる人を慰める傾向があるということがわかっていたが、 今回、オーストリアで行われた新たなる研究で、犬は人間の表情から感情を読み取っていることがわかった。 |
|
戦艦大和の乗組員だった小島清文海軍中尉は大和出撃の一か月前転戦を命じられ フィリピンルソン島へ送られる。 そこでは地獄の戦闘も終盤に差し掛かりすでにマニラは陥落していた。 山奥のジャングルに配備されていた小島中尉の45名の部隊も総攻撃を受けわずか5名になっていた。 ここでは本書のあらすじを省略、リアルな投降部分の様子を抜粋してみた。 弾も尽き食糧もなく私は投降を決意。4名の部下を連れ山を下ることにした。 歩き続けて3日目、私には見えなかったが池山兵曾が「隊長!あそこにトーチカが見えます。」 言うなや、全員身を伏せた。我々は捕虜志願で山を下っているのに身を伏せるのもおかしな話だ。 山田一水を先頭にパラシュートで作った大きな白旗を掲げトーチカまで歩いていった。 あと50mだというのに敵は気付かない。しかし道路が出来ており、戦車やトラックのタイヤの跡がある。 どうやら敵はここを移動したらしい。 なぜかホッとしてまた歩いて行った。 しかし、米兵との遭遇は予期せぬ状況で起こった。 道路の曲がり角に差し掛かった時、 わずか数十メートル先に2人の米兵が左手にコーヒーを右手にパン を持って朝食の最中だった。 アァ・・・ジャップ!と悲鳴をあげコーヒーとパンを投げ捨てトーチカ裏の小屋に逃げて行った。 せっかく捕虜志願で来たというのに逃げられたのではどうしようもない。 しかしすぐさま30人ほどの米兵が小屋から躍り出てきた。 あっという間に我々は周囲を囲まれ銃口を向けられた。 隊長らしき兵隊が銃を向け警戒しながら近づいてきた。 私はやっと冷静さを取り戻した。 「そうだ!みんな武器を地面に置け!」 「銃と手りゅう弾を地面に置け!」 「みんな両手を上げるんだ!」 これでやっと我々は国際的な投降スタイルになった。 本来私は投降の仕方など知らなかった。 白旗だけで銃を持ち武装してたのだから撃たれなかったのは運がよかった。 池山兵曾が「隊長、何か食わせてもらえないか頼んでもらえませんかねぇ。」 私は言った。 「みんな腹が減っている。何か食べるものが欲しい」 捕虜第一声が腹が減ったとは情けない。 米兵たちが互いに顔を見合わせた。「あいつ英語を話すぜ。」 隊長らしき男が言った。「おまえはどこで英語を習った?階級は何か?」 私は言った。「英語は大学で習った・・・下手だけど。私は海軍中尉だ。」 海軍? 日本海軍は今何処にいるのだ? 私はジョークのつもりはなかったのだがこう言った。 「ジャパニーズネイビーイズクライミングザマウンテン、日本海軍は山に登っている」 隊長らしき男はプッと吹き出し、「この男は上手い冗談をいう。」 途端に緊張して銃を構えていた米兵たちがいっせいに大口を開け大笑いをはじめた。 私の部下たちは意味が分からず米兵と私の顔を見てキョトンとしていた。 岩国へ月に4〜5日行きます。いたるところにこんな旗が立っています。 去年行った岩国市のとある駐車場に今年も元気な同じ猫たちがいました。 ふと隣を見るとおばさんが乗っている車の中で猫たちがご飯を食べていました。 よく慣れている理由が分かります。 まだ雪の残る広島県北部の庄原市 広島県南部の安芸津町からの眺め コンビニの喫煙灰皿にこんな標語が。 私も何度かやった記憶が・・・;(x_x) ☆\( ̄ ̄*)バシッ |

>
- 芸術と人文
>
- 文学
>
- ノンフィクション、エッセイ
ために、一人の老紳士がイギリスから来日し、 初めて日本の土を踏みました。 老紳士は、84歳という高齢に加え、 心臓病を患っていました。 彼の名は、サムエル・フォール。 彼はサーの称号を持つイギリスの外交官でした。 彼には、どうしても日本を訪れたい理由があったのです。 「自分が死ぬ前に、どうしても一言お礼を いいたかったのです。 この歳になっても、一度として彼のことを 忘れたことはありません」 1942年(昭和17年)2月28日、 ジャワ島北東部のスラバヤ沖で起こりました。 当時の戦況は日本が圧倒的に優位で、 イギリスをはじめとする連合艦隊は連日、 猛攻撃を浴び、当時少尉だったフォール卿の 乗るイギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」 も日本海軍の戦闘艦に包囲されていました。 そして、砲弾が船に命中しエンジンが停止、 そして炎上、海に沈みました。 しかし敵の潜水艦や戦闘艦がいる危険区域。 艦長は一旦遠方に退避。 そして翌日。 なんと味方の救助もなく未だ20時間も漂流している400名あまりのイギリス兵。 工藤艦長はある信念を貫きました。 それは、工藤艦長が海軍兵学校の頃から教育された 「武士道」でした。 「敵とて人間。 弱っている敵を助けずしてフェアな戦いはできない。 それが武士道である」 世紀の救助劇はこうして始まりました。 工藤艦長は第二の大きな 決断をしました。 「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」 それは、日本海軍史上、極めて異例な号令でした。 「最低限の人間だけ残し、後は全員救助に向かえ」 という命令だったのです。
のうのうと生きていて申し訳ない、と。 戦時中、沖縄でのこと。 叔父さん(当時12歳)は自然の洞穴を利用して作った壕の中にいた。 他の住民、部隊からはぐれた大怪我を負った兵隊たちも隠れていた。 息を潜めていたのだが、どうやら米軍に居場所をみつかったらしい。 「ハヤクデテキナサーイ」と、マイクをつかって投降を促す。 当時、米軍は住民・軍人区別なく攻撃するものと思われていた。 中の住人のほとんどがその時点で死を覚悟していたが、そのうちの一人が 「ずーっと壕のなかにいたから、せめて一目太陽を見てから死にたい」 といいだした。 そうしたら他の人も「そうだ」とか「どうせやられるならそうしたい」とか 言い出した。 米軍に投降するといった時点で、日本軍の軍人は「ふざけるな」といって怒ったり スパイ扱いして住民を攻撃したりするものだが(他の壕では実際かなり行われていた。) そこでは物資の少ない中、できるだけの手厚い看護をした住民と軍人の間で信頼関係ができあがっており 軍人達はあえてとめようとしなかった。 少年だった叔父に、横になりながら地面に文字を書いて漢詩の講義をしてくれた若い将校は、「俺たちもあとからいくからな、しっかり行ってこい!」といって笑顔で敬礼をした。 叔父も敬礼で返して、覚悟をきめた他の住民たちと外に出た。 外に出た住民達は一箇所に集められて、壕の入り口から離れるようにいわれた。 指示に従うと、すぐさま数人の米兵が火炎放射器で壕内を焼き払った。 もちろん、中に残った人間は誰も助からなかった。 叔父さんは戦後何年経ってもその将校のことが忘れられなかった。 沖縄県民を馬鹿にしたりする軍人の多かった中、その将校は違っていた。 乏しい食料なのに子供と妊婦に優先してわけるよう、他の兵隊に指示していた。 叔父はどうしても遺族の方に会って、お礼やその最後を伝えたくなった。 経済的に余裕のできた数十年後遺族探しをはじめて、やっと会うことが出来た。 遺族の方は叔父の話に「実に親父らしい。」といって泣きながら笑ったそうだ。
あのような青年たちがいる日本は必ず世界の盟主になるに違いない。 アメリカの青年達よ奮起しろ。」 硫黄島での戦いの時に第五艦隊司令長官として、アメリカ海軍を指揮した、レイモンド・A・スプルーアンス海軍大将の言葉です。 彼は戦後この言葉を伝えるべく、全米各地を講演して回りました。 彼がこのように日本の事を言うようになったのは、次のようなエピソードがあったからです。 一ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出してアメリカ軍が硫黄島を占領した、 ある日のこと。 岩山の穴の中から負傷した日本の陸軍少佐が、降伏のしるしのハンカチをもって出てきた。 彼は「司令官はいないか。穴の中には有能な30名の青年たちが残っている。 彼らを日本のため世界のために生かしてやりたい。 私を殺して彼らを助けてくれ。」といいました。 少佐を引見したスプルーアンスが、「壕から出てくればお前も部下たちも必ず助ける」というと、彼は「サンキュー」といって絶命しました。 その後アメリカ軍は青年たちが残っている穴の中に、煙草や缶詰を投げ入れたりして、残された青年達に穴から出るように勧告をしますが、彼等はそれに応じず抵抗を続けました。 数ヶ月間の抵抗の末やがて何名かが餓死し、最後に残された者たちは、手榴弾で自決して果てました。 その爆発がした時にスプルーアンス司令官が穴の所に飛んでゆくと、穴の入り口に英語と日本語で書かれた手紙がおかれていました。 「閣下の私たちに対する御親切な御厚意、誠に感謝に耐えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も、皆で有り難く頂戴いたしました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることが出来ません。最早水もなく食もなければ、十三日午前四時を期して、全員自決して天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を止めます。」 昭和二十年五月十三日 日本陸軍中尉 浅田真二 「米軍司令官スプルーアンス大将殿」
迫りくるソ連軍の前に動員されてベルリン攻防戦に参加させられることになりました。 そして命令された場所に友人数人と歩いて行きました。 防衛陣地を構築するため多くの兵士たちがあわただしく動き回っています。 なんとか部隊の指揮官がいる場所にたどりつきます。 そこに大佐さんがいました。 もちろん緊張しながら敬礼。 すると大佐さんも敬礼を返しながら言いました。 「補充兵か?」 さらに「子供が何をしている!戦争は大人の仕事だ!早く家に帰れ!」 しかしお祖父さんは命令を出した指揮官の名前を言ってここにおいてくれるように頼みました。 すると大佐さんは「早く家に帰れ!家族がまだ家にいるのなら出来るだけ西へ向かえ! 絶対我々のところには来るな!いいか?ひたすら西へ向かえ!」 当時の祖父は知らなかったらしいがソ連軍の報復と蛮行はすさまじくスターリンの自由許可もあってドイツ住民に対し暴虐の限りを尽くしていた。 さらに大佐さんはこう言ったそうです。 「君たちもうすうす気づいているだろう。この戦争は負けだ。 負けると分かっている戦争だ。 我々は君たちや子供、娘たちを西方へ逃がす時間稼ぎのため戦う。 とにかくひたすら西へ逃げてくれれば我々には戦う意義が生まれる。」 |

>
- 芸術と人文
>
- 文学
>
- ノンフィクション、エッセイ



