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いつの時代も自然の猛威に人間は無力。 私のルーツである益城町の地震がずっと気になっていてしょうがなかった。 しかし、現実はクソ忙しくて振り返ることすら許されなかった。 しばらくして突然の会社命令で仲間の3名が現地へ行った。 私の方は連日の日勤夜勤などが続いておりそれどころではない。 最も被害の多かった熊本県上益城郡(かみましきぐん)まさにこの地こそが私のルーツ。 父母共にこの町の出身で結婚してすぐ広島に出てきて発生したのが私。 幼稚園のころから小学6年生までは毎年夏休みに両親に連れられこの上益城に帰っていた。 父母の出身は正確には上益城郡益城町のとなりの上益城郡矢部町(今は山都町に町名が変わる) 山都町は益城町よりさらに山奥で九州のほぼ真ん中に位置する。 多くの思い出が詰まった懐かしい第二の故郷である熊本。 今回の地震で私の心の故郷である上益城郡の名が全国ニュースで流れたことは大変な驚きであった。 連日報道される被害。 しかしここでは論点を変えこの地の私の想いを綴る。 特に母方の里は町から離れた山の中でまさに日本の原風景そのものだった。 近くの有名な通潤橋や阿蘇山には両親に連れられ何度も行った。 家の近くには大きな川がありそこで魚釣りしたり泳いだり、その川のつり橋を渡って駄菓子屋に行くのだけど橋の上で単独の子牛とすれ違ったこともあった。 一人の少年が橋の上で一頭の牛とすれ違うなんて今では考えられない。 この母方の里はまさに九州が誇る日本の原風景そのものだった。 田舎の紫蘇ご飯や焼き米はとても美味しくて楽しみのひとつとなっていた。 家の敷地にある牛舎で乳搾りをして絞りたての牛乳を飲んでいた。 あまり美味いとは思わなかったが・・・ 家の裏山に行くと山道でウサギの家族がピョンピョン跳ねている。 初めて見るタヌキと目の前で遭遇し、互いにびっくりして見つめあいしばらく固まってしまった。 図鑑でしか見たことのない珍しいトンボがそこらじゅうにいる。 まだ一度も広島では獲ったことのないカブトムシやオオクワ方ガタが一本の木に何匹もいる。 小学生だった私は有頂天になり箱に2〜30匹ほど入れ持ち帰るが帰省中の列車の中で全滅していた。 母と同じ上益城郡にある父の実家は父の実兄夫婦が住んでいて、これがまたすごい。 実兄は熊本管区憲兵隊長の肩書きをもち、多くの勲章や表彰状がずらりと部屋に飾ってある。 戦時下とはいえ相当厳しい人だったらしく兄弟ですらみんな怖がっていたらしい。 敗戦を知った実兄は拳銃自殺を図ったが失敗。 弾は後頭部付近で留まり生死をさ迷った挙句、以後は手術で取るのは危険なため生涯ずっと弾が頭に入ったままだった。 私は子供ながらこの筋金入りの軍人だった爺だけが苦手でなぜか怖かった。 10年前亡くなった父を追うように兄はその一ヶ月後に亡くなった。 多くの思い出と共にある熊本県上益城郡。 私のルーツであると共に今も心の故郷である。 懐かしき母方の故郷。 60年以上も前、広島に旅立つ直前の父母。 この時まだ私は生まれておらず生後は毎年夏ここで過ごし写真の親戚の子たちに可愛がられよく遊んでもらった。 美男美女の結婚ということで当時父母は有名だったとか、よく周りの人たちに聞かされた。 生まれ育ちが広島でも私は生粋の九州人の血統だと思っている。 しかし自分が九州男児などと思ったことは悲しいかな一度もない。 今思えば父は九州男児そのものだった。 温和で物静かな父だったが真面目で根性があった。 父の少年兵時代の写真が多く残っておりそれを物語っている。 父はよく話してくれた。ゼロ戦パイロットになりたかったが17歳で陸軍予備隊に召集された。 すでに戦況がよくないのは知っていたが戦艦大和がある間は日本が負けることなど絶対ないと本気で思っていたそうだ。 その大和があっけなく沈み沖縄が陥落してからは九州上陸に備え毎日毎日三八歩兵銃を持っての訓練と農作業にあけくれる日々だったようだ。 憲兵隊長の兄に影響され意気込みはすごく本土決戦で死ぬ覚悟だったらしい。 戦後米軍情報部が公表した機密文書にはどの戦区においても九州師団が最も勇猛果敢で最も手ごわかったことを認めている。 青春時代を戦時下で生き抜いてきた父とは違い平和ボケの私は今になって九州男児の父から学ばなければならない事の多さを知った。 熊本県人だった父母が戦中戦後を苦労しながら生き抜いてきたからこそ今の自分があるわけで、九州男児として名高い熊本県人は今回の災害も必ず近い将来復興を果たすに違いないと思っている。 なかなかセレブだワン。面白い光景だったので撮ってみました。
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