ために、一人の老紳士がイギリスから来日し、 初めて日本の土を踏みました。 老紳士は、84歳という高齢に加え、 心臓病を患っていました。 彼の名は、サムエル・フォール。 彼はサーの称号を持つイギリスの外交官でした。 彼には、どうしても日本を訪れたい理由があったのです。 「自分が死ぬ前に、どうしても一言お礼を いいたかったのです。 この歳になっても、一度として彼のことを 忘れたことはありません」 1942年(昭和17年)2月28日、 ジャワ島北東部のスラバヤ沖で起こりました。 当時の戦況は日本が圧倒的に優位で、 イギリスをはじめとする連合艦隊は連日、 猛攻撃を浴び、当時少尉だったフォール卿の 乗るイギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」 も日本海軍の戦闘艦に包囲されていました。 そして、砲弾が船に命中しエンジンが停止、 そして炎上、海に沈みました。 しかし敵の潜水艦や戦闘艦がいる危険区域。 艦長は一旦遠方に退避。 そして翌日。 なんと味方の救助もなく未だ20時間も漂流している400名あまりのイギリス兵。 工藤艦長はある信念を貫きました。 それは、工藤艦長が海軍兵学校の頃から教育された 「武士道」でした。 「敵とて人間。 弱っている敵を助けずしてフェアな戦いはできない。 それが武士道である」 世紀の救助劇はこうして始まりました。 工藤艦長は第二の大きな 決断をしました。 「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」 それは、日本海軍史上、極めて異例な号令でした。 「最低限の人間だけ残し、後は全員救助に向かえ」 という命令だったのです。
のうのうと生きていて申し訳ない、と。 戦時中、沖縄でのこと。 叔父さん(当時12歳)は自然の洞穴を利用して作った壕の中にいた。 他の住民、部隊からはぐれた大怪我を負った兵隊たちも隠れていた。 息を潜めていたのだが、どうやら米軍に居場所をみつかったらしい。 「ハヤクデテキナサーイ」と、マイクをつかって投降を促す。 当時、米軍は住民・軍人区別なく攻撃するものと思われていた。 中の住人のほとんどがその時点で死を覚悟していたが、そのうちの一人が 「ずーっと壕のなかにいたから、せめて一目太陽を見てから死にたい」 といいだした。 そうしたら他の人も「そうだ」とか「どうせやられるならそうしたい」とか 言い出した。 米軍に投降するといった時点で、日本軍の軍人は「ふざけるな」といって怒ったり スパイ扱いして住民を攻撃したりするものだが(他の壕では実際かなり行われていた。) そこでは物資の少ない中、できるだけの手厚い看護をした住民と軍人の間で信頼関係ができあがっており 軍人達はあえてとめようとしなかった。 少年だった叔父に、横になりながら地面に文字を書いて漢詩の講義をしてくれた若い将校は、「俺たちもあとからいくからな、しっかり行ってこい!」といって笑顔で敬礼をした。 叔父も敬礼で返して、覚悟をきめた他の住民たちと外に出た。 外に出た住民達は一箇所に集められて、壕の入り口から離れるようにいわれた。 指示に従うと、すぐさま数人の米兵が火炎放射器で壕内を焼き払った。 もちろん、中に残った人間は誰も助からなかった。 叔父さんは戦後何年経ってもその将校のことが忘れられなかった。 沖縄県民を馬鹿にしたりする軍人の多かった中、その将校は違っていた。 乏しい食料なのに子供と妊婦に優先してわけるよう、他の兵隊に指示していた。 叔父はどうしても遺族の方に会って、お礼やその最後を伝えたくなった。 経済的に余裕のできた数十年後遺族探しをはじめて、やっと会うことが出来た。 遺族の方は叔父の話に「実に親父らしい。」といって泣きながら笑ったそうだ。
あのような青年たちがいる日本は必ず世界の盟主になるに違いない。 アメリカの青年達よ奮起しろ。」 硫黄島での戦いの時に第五艦隊司令長官として、アメリカ海軍を指揮した、レイモンド・A・スプルーアンス海軍大将の言葉です。 彼は戦後この言葉を伝えるべく、全米各地を講演して回りました。 彼がこのように日本の事を言うようになったのは、次のようなエピソードがあったからです。 一ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出してアメリカ軍が硫黄島を占領した、 ある日のこと。 岩山の穴の中から負傷した日本の陸軍少佐が、降伏のしるしのハンカチをもって出てきた。 彼は「司令官はいないか。穴の中には有能な30名の青年たちが残っている。 彼らを日本のため世界のために生かしてやりたい。 私を殺して彼らを助けてくれ。」といいました。 少佐を引見したスプルーアンスが、「壕から出てくればお前も部下たちも必ず助ける」というと、彼は「サンキュー」といって絶命しました。 その後アメリカ軍は青年たちが残っている穴の中に、煙草や缶詰を投げ入れたりして、残された青年達に穴から出るように勧告をしますが、彼等はそれに応じず抵抗を続けました。 数ヶ月間の抵抗の末やがて何名かが餓死し、最後に残された者たちは、手榴弾で自決して果てました。 その爆発がした時にスプルーアンス司令官が穴の所に飛んでゆくと、穴の入り口に英語と日本語で書かれた手紙がおかれていました。 「閣下の私たちに対する御親切な御厚意、誠に感謝に耐えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も、皆で有り難く頂戴いたしました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることが出来ません。最早水もなく食もなければ、十三日午前四時を期して、全員自決して天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を止めます。」 昭和二十年五月十三日 日本陸軍中尉 浅田真二 「米軍司令官スプルーアンス大将殿」
迫りくるソ連軍の前に動員されてベルリン攻防戦に参加させられることになりました。 そして命令された場所に友人数人と歩いて行きました。 防衛陣地を構築するため多くの兵士たちがあわただしく動き回っています。 なんとか部隊の指揮官がいる場所にたどりつきます。 そこに大佐さんがいました。 もちろん緊張しながら敬礼。 すると大佐さんも敬礼を返しながら言いました。 「補充兵か?」 さらに「子供が何をしている!戦争は大人の仕事だ!早く家に帰れ!」 しかしお祖父さんは命令を出した指揮官の名前を言ってここにおいてくれるように頼みました。 すると大佐さんは「早く家に帰れ!家族がまだ家にいるのなら出来るだけ西へ向かえ! 絶対我々のところには来るな!いいか?ひたすら西へ向かえ!」 当時の祖父は知らなかったらしいがソ連軍の報復と蛮行はすさまじくスターリンの自由許可もあってドイツ住民に対し暴虐の限りを尽くしていた。 さらに大佐さんはこう言ったそうです。 「君たちもうすうす気づいているだろう。この戦争は負けだ。 負けると分かっている戦争だ。 我々は君たちや子供、娘たちを西方へ逃がす時間稼ぎのため戦う。 とにかくひたすら西へ逃げてくれれば我々には戦う意義が生まれる。」 |

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