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Though we gotta say goodbye for the summer, Darling, I promise you this. I'll send you all my love every day in a letter, Sealed with a kiss. Guess it's gonna be a cold lonely summer, But I'll fill the emptiness. I'll send you all my love every day in a letter, Sealed with a kiss. I'll see you in the sunlight. I'll hear your voice everywhere. I'll run to tenderly hold you, But darling, you won't be there. I don't wanna say goodbye for the summer, Knowing the love we'll miss. Oh, let us make a pledge to meet in September, And seal it with a kiss. I'll see you in the sunlight. I'll hear your voice everywhere. I'll run to tenderly hold you. But darling, you won't be there. I don't wanna say goodbye for the summer,
Knowing the love we'll miss. Oh, let us make a pledge to meet in September, And seal it with a kiss. And seal it with a kiss. |
愛のテーマ
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詳細
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1964 テレビドラマ 「愛と死をみつめて」 主演 山本 学と大空真弓 1964 映画 「愛と死をみつめて」 主演 浜田光男と吉永小百合 1969 テレビドラマ 「若きいのちの日記」 主演 高橋長英と島かおり 1978 テレビドラマ 「若きいのちの日記」 主演 大竹しのぶ「日曜劇場」 2006 テレビドラマ 「愛と死をみつめて」 主演 草薙 剛と広末涼子 二夜連続4時間ドラマ あらすじ 二人は病院で知り合い河野氏は2週間で退院。
退院間際に文通を約束。当時携帯どころか家庭にもまだ電話が普及しておらず手紙は唯一の伝達手段。 大島みち子さんは闘病しながらも京都の名門同志社大学に合格。 だが高校時代よりもさらに深刻で容赦なく病魔は襲ってきていた。 顔を半分取り除かなければ余命半年。 しかも成功の可能性もかなり低い。 やがてみち子さん自身から河野さんへの別れの手紙。 全ての現実を知った河野さんに命の炎が燃え上がっていく。 その後二人は自殺未遂などを経たあと手術に臨む決断をする。 手術で顔半分を失ったみち子さんと河野さんの絆はさらに強く深まるのです。 だが残された半分の顔にも病魔は容赦なく転移。 顔すべてを失う以外生きられないと医師から家族にだけ知らされる。 河野さんは家族に呼ばれその事実を知ることとなる。 出版本の経緯とエピソード 大島みち子さんの野辺送りが終わったあと河野さんはこれまでの二人の往復書簡400通をカバンに詰め大手出版社に赴くが断られ唯一大和書房が出版を引き受け世に出ることになる。
恋人を失った河野さんは病院に対する逆恨みから世間に全てをぶちまけてやろうという思いが強くあったようです。 20歳そこそこで書いたものがこれだけ多くの人に読まれるのは世界的にみても当時はまれなことだろう。 3年間の文通だけでなく二人は何度も再会し病院での寝泊まりも特別に許可されるようになる。 みち子さんは毎日のように日記もつけていた。 その日記は「若きいのちの日記」(大和書房)としてまとめられ出版されています。 同じ西脇高校出身の世界的な画家横尾忠則氏も日記の名手として知られているがみち子さんもまた文才豊かな日記の名手である事は本を読めば一目瞭然。 有名進学校の高校時代の成績は常にトップクラスでした。 この「若きいのちの日記」もまた「愛と死をみつめて」同様に何度も連続ドラマとして放送されています。 テレビドラマの経緯とエピソード 映画「愛と死をみつめて」よりも先立って数か月早くテレビドラマ化が始まろうとしていました。
ガンのため顔半分を手術でえぐり取られ残った顔にも転移。 ついに死亡するという実話があまりにも衝撃なためスポンサー側は反対したが話し合いの末に前例のない前後篇2時間の放送をすることになったのです。 これが大反響となりTBSには開局以来の2万通もの手紙が殺到したそうです。 この年だけでまたも過去前例のない3度の再放送となっていくのです。 映画の経緯とエピソード 吉永小百合さん自身が原作本を読んで感動し自ら役柄志願して映画化を熱望。
しかし日活側は日本のトップ女優が顔の半分を包帯で覆ったままの撮影に反対するも吉永さんはこれを押し切り実現させたのです。 映画のロケ中に時間を裂いて吉永小百合さんは大島みち子さんの実家へと赴きます。 吉永さん自身の出版本にはこう書かれています。「お父さん、お母さん、妹さんが家から飛び出してきて私を迎えてくださいました。 お母さんは、今日一日みち子になってください!とみち子さんの着ていた赤い着物を出してこられました。 私は一日だけみち子さんになって家族と過ごしました。 そして翌朝は秋のひんやりとした道を妹さんと手をつないで歌いながら歩いたのです」。 1964年当初この西脇市が全国から注目を集めていたのはこの大島みち子さん一人のためだったのです。 緊急追加!! 吉永小百合さんの映画の中でも屈指の名作とされてるにもかかわらず意外と知らない 人が多いのは当然でしょう。 主人公の河野氏は本、映画の大ヒット後、金儲けのためにみち子さんを利用したなどと心無い当時の マスコミにひどくバッシングされ続けていたのです。 河野氏は精神的に参って人間不信に陥り出版社に増刊を停止するよう要求し原作本は長い間絶版とな っていたのです。 その後また同じ内容で文庫本と文芸本が何種類も出版され始めたのです。 それはここ数年のことです。 |

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コメント(54)
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河野義行さんの奥さんが他界した記事を新聞で見ました。 一か月程前でした。 松本サリン事件の第一通報者で警察やマスコミによって犯人に仕立て上げられ 一人で闘い続けて時の人となった河野さん。 「愛と死をみつめて」の河野実さんと同じ名前で同じ長野県。 単なる偶然ではあるが不思議なのは二人共それまで普通の一般市民であったにもかかわらず 突然襲い掛かった災難により純愛の悲劇の主人公として全国にその名を知らしめるようになったの は奇妙な偶然である。 経緯は多少違うけれど、二人共それぞれ奥さん、恋人を何年も病院通いしたのち亡くしてしまった。 河野義行さんの場合はあの日から14年間である。 第一通報者の河野さんは化学に詳しく毒物劇物取扱主任の資格を持っていたこともあり 自宅で調合を間違えたのが原因などという情報が独り歩きしてしまった。 その結果第一通報者が犯人だと各新聞社が一斉に発表してしまった。 この日から暗く長い河野さんの孤独の闘いが始まり以来昼夜問わず嫌がらせの電話が鳴りっぱなし だったという。 警察の思い込みで河野さん一人をターゲットにし、ずさんな捜査を展開、自らサリン中毒で苦しんで いた河野さんを連日連夜厳しく取り調べている間にあの忌まわしい地下鉄サリン事件が発生、また 弁護士一家殺人事件も起こってしまった。 麻原に今がチャンスとばかりに大胆なテロを実行させてしまったのである。 これら一連の不可解だった事件は河野氏以外に目を向け捜査していれば起こり得なかったはずで 多くの命が助かっていたのは明白です。 サリンは心肺機能を衰弱させ脳を委縮させるため植物人間となり奥さんもその犠牲となった。 「妻よ!」という本は河野さんの14年間に渡る病院通いのさまざまな記録を書いたものです。 その深い愛情と彼の人間性は感動を極めるものでした。 ある日、河野さんは昔一緒によく来た河原へ物言わぬ動けぬ奥さんを車イスに乗せてそこで 一日過ごすことにしました。 その日初めて奥さんが声を出したのです。 興奮して大声になった河野さんの何度もの問いかけに反応しその都度返事が返ってきたそうです。 いつもここへ来ただろう? 「ええ・・」、病院よりここがいいだろう? 「うう・・・」。 河野さんはこのときの興奮を詳しく書いています。 「私は自然のエネルギーの大きさに感動した。 OO子はここに来て山や森の空気を吸うことでそのエネルギーをもらったに違いない。 私は自分が考えていたことが正しかったと確信した。」 14年間の入院の中で日課となっていた河野さんの問いかけに一度だけ涙を流し河原で初めて声を 出すことが出来たのは一体何だったんだろうか。 *ネコマンガは今日はお休みで〜しゅ。 |

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ある日ジェンキンス氏の家に突然、軍の一方的な紹介でひとみさんが連れてこられた。 脱走兵と拉致被害者という特殊な関係で、同じ家にいれば安全が保障されある程度の快適な生活が得られ たようです。 20歳も年下のひとみさんに一目ぼれ。その時の美しさやその時の衝撃を詳しく書いています。 不安に怯えるひとみさんの身の回りの世話や食事などすべて彼が引き受けていきます。 意外だったのはひとみさんに全く触れる様子もなく完全な紳士だったようです。 生命の危機にさらされていたひとみさんを守る意味でもジェンキンス氏は最初の頃は毎日のように正式結 婚を申し込み毎日のように断られていたそうです。 2002年に一度だけ小泉首相と金正日総書記が会談をしました。 とりあえずひとみさんだけを一時帰国させるという約束でひとみさんは日本に帰ってきました。 ジェンキンス氏はいつまでたっても北朝鮮に戻って来ないひとみさんにいらだちショックを受けアル中に なっていました。 二度目の小泉首相の訪朝で話し合った結果、夫婦はインドネシアのジャカルタで再会することになり今後 の話し合いが行われました。 この段階では謎めいた人物として日本で紹介された彼が、この数ヶ月後一家そろって佐渡で平和に暮らす なんて当時だれも想像してなかったのではないでしょうか。 そのやりとりで「なぜ北朝鮮に戻ってこないのか?」と詰め寄るジェンキンス氏にひとみさんは「それは あなたの為。私が北朝鮮に戻ったらあなたはもう二度とアメリカへ行くことが出来なくなり高齢のお母さ んにも会えなくなるのよ。」 安易に妥協せず日本に踏みとどまったひとみさんの懸命な努力が報われ、結果として家族を日本に呼び寄 せる事に成功。 さらにその後アメリカに渡り彼の母親にも再会させることが出来た。 もし、曽我さんが家族のいる北朝鮮に帰っていたら今もこの家族は北で暮らしていたに違いない。 北朝鮮政府の策略は想定外だったひとみさんの大きな愛にあっけなく覆され見事に失敗した。 北朝鮮政府の最大の失敗はこのひと組の夫婦の本当の愛を度外視し計算に入れてなかったことによるもの である。・・・「金日正は世界に恥をさらした」という風に独断と偏見で今回まとめたかったのです。
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終戦直後、17歳の桜元信子は呉の進駐軍キャンプの食堂で働いていた。 いつも彼女を見つめていたのが衛生兵ゴードンパーカー18歳である。 二人の苦難の道はここから始まる。 呉の長浜公園 自分が生まれる以前、自宅すぐ近くでこんな史実があろうとは・・・ 子供の頃よく遊んでいた長浜海水浴場となりの岩場のようです。 日本に進駐していた連合軍の中で最も厳しい反日政策を打ち出したのがオーストラリアである。 兵士に対し日本人との結婚はもとより交際もかたく禁じていた。 進駐軍の一兵士であったゴードンパーカーは軍籍を離れ、日本人女性と結婚、政府に向かって 正面から日本人妻の入国を申請した。 オーストラリアは1901年連邦制度を樹立して以来、この国を白人のユートピアにすることを 掲げ有色人種の入国を厳しく制限してきた国でもあった。 オーストラリアへ単独で帰国後、両親の猛反対を振り切り日本人妻の入国を求めて、政府を相手に 一人で闘い始める。 闘いは困難を極め、離れて暮らす二人は頻繁に手紙で状況を知らせ合う。 ゴードンパーカー氏の日本人妻の入国運動はその後4年に及ぶ歳月を要した後、ついに実を結ぶ日を迎える。 しかも彼の起こした行動は結果として、日豪交流の歴史をも動かす事になる。 彼女への許可が降りるとそれまで密かに入籍を済ませオーストラリア入国を待ち望んでいた600人 近い日本女性が次々と申請を出し始め、彼女たちにも渡航の許可が下され、半世紀に及んだ オーストラリアの白豪主義を崩すきっかけともなった。 一人の兵士の起こした「人間愛」に根ざした勇気と忍耐の行動は結局一国の法律を動かしたばかりか 日豪関係を改善する貴重な役割を果たした。 呉信愛教会にて 4年間オーストリア政府と闘い続け見事勝ち取った。 4年後日本人妻を迎えに帰ってきたゴードンパーカー。 正式に結婚、この直後二人はオーストラリアへ向かう。 |

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