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1942冬。スターリングラード最前線の廃墟に立てこもる兵士たちを奇妙な死が襲った。
突然倒れてしまう歩哨兵。たこつぼに座ったまま息絶える若き兵士。
地下野戦病院の医師たちは、それを「第6軍の心臓病」と呼んだ。
厳寒の中人間の限界をはるかに超えた緊張と消耗と飢餓を強いられた若い兵士の肉体が、急激な老化を起こし安らかな死を望んだのである。
スターリングラードで包囲された独軍23万、捕虜9万、生きて祖国へ帰還できたものわずか5000人。
その年はロシアでも100年に一度という−40度の猛寒波の中で生存のため戦い抜いた勇者の記録。
独軍は1942の夏季攻勢にてソ連軍を得意の包囲戦で破りスターリングラードを占領。
以降軍事物資の補給もなく多くの者は支給された夏用戦闘服のみで6ヶ月間戦い抜き翌年2月に降伏。

一進一退
8月にパウルス将軍の第6軍とホート将軍の第4装甲軍が同市を攻撃。
ソ連軍では政治委員フルシチョフがスターリンの名がついたこの町を死守する決心を固めていた。
同市を失うことはスターリンの威信を失うだけでなくソ連軍全体の士気に影響する。
ソ連軍はスターリングラード市民10万人を軍に編入し増強を図った。
数でまさるソ連軍をおびただしい犠牲を払って独軍は制圧。
だがこれは地獄の始まりの序曲に過ぎなかった。
包囲殲滅戦を得意とし一時同市を占領したものの、さらに大きな鉄の輪が完成されつつあった。
独軍を包囲したソ連軍は100万ともいわれる。

ソ連軍の反撃
ソ連軍の包囲網が完成されつつあった時ハルダー陸軍参謀長は第6軍の退却をヒトラーに強く迫るが激怒したヒトラーに解任されてしまった。
この時期には空輸による物資補給が出来なくなり食糧弾薬も底を尽きかけていた。
それに比べソ連軍は無尽蔵とも思えるほどの兵力をシベリア方面からもかき集めさらに強大になっていく。
第6軍司令官パウルス将軍は軍集団司令部に対し脱出の許可を求めた。
さらに直接ヒトラーあてに電報も打っている。
しかし退却は許されず空輸による補給を約束されるが制空権をも失いつつある状況では不可能だった。

最後の一兵まで
包囲され補給が絶たれたこの時点で脱出の見込みはほぼ無くなっていた。
成功の可能性は低く3人に1人は戦死するだろうという予測だった。
それでも第6軍の最終会議で幕僚や軍団長全員がヒトラーの命令を無視して脱出すべきだ、とパウルスに迫った。
「軍人の本分は服従である。我々は服従せねばならない」最後にパウルスはヒトラーの命令に服従することを告げた。
この時点で生き残っていた20万の兵士はスターリングラードに閉じ込められることになる。
年が明けるとー40度の酷寒の中、戦う以前に凍傷、栄養失調などで次々と倒れていった。
第6軍の救出に向かった第4装甲軍もソ連軍の強力な反撃の前に前進出来ず包囲される危険が出てきたため撤退した。ここに第6軍の運命が決まった。
それでも若き精鋭第6軍は補給、補充もなしにー40度の中で命をつなぎ頑強に闘った。
すでに人間の耐えうる限界を超えており彼らは瓦礫に立てこもり、たこつぼの中から生存するためだけに発砲し続けた。
パウルスはヒトラーに降伏の許可を求めた。
しかし、日本の武士道を称賛しているヒトラーは「最後の一兵まで。最後の一弾まで陣地を死守すべし」と命令する。
ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた。
パウルスはその後一週間戦い続けたがついに独断で降伏した。1943年2月。

おしまいに
これはまさに独ソ戦の天王山で機甲師団を多く含む精鋭の一個軍まるごと消失した結果、北部、中央部、南部の3方面にまたがっていた東部戦線の全独軍のバランスが崩れ全戦域で序じょに後退を余議なくされる。
この戦いはその規模、兵器、兵員の総数において文字どおり史上最大の激戦となり悲惨な戦いとなった。
スターリングラード決戦の映画が多く製作されているが数年前に公開されたアメリカ映画では当時実在したスナイパー個人に焦点を当てたもので自分としては内容にかなり不満でした。
20年ほど前に独ソ合作の「スターリングラード」が公開され史実に基づいた内容は迫力のあるものです。

http://www.youtube.com/v/Rq5edjlhcaQ&hl=ja
             

墜落の夏

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映画「クライマーズハイ」が上映されたようです。以前読んだ本をもとに1985年にタイムスリップし

てみたいと思います。

20年以上経ちますが去年もその前年も8月12日にはテレビでその後の特集がありましたがこの夏もま

たあるのでしょうか?

本のほうは講談社のノンフィクション賞を受賞したものです。

衝撃のすさまじさは人の想像をはるかに超えるものでとても書けませんが印象に残った事を書きます。

墜落直後の実態について生還した4人の内のひとり落合さんは当時アシスタントパーサーでした。

落合さんは機体の残骸の下に埋もれ身動きが出来ずその回りでは「ハア ハア」と何人もの荒い息づかい

が長時聞聞こえていたと言ってます。

「おかあさ〜ん」という小学生の男の子の声と少し離れた場所で「早く来て〜」という若い女性の声が聞

こえたそうです。

そのあと「よ〜し僕は頑張るぞ」という男の子の声もはっきり聞いたそうです。それがさっきの男の子の

声かどうかは分からないとも言ってます。

意識が消えたり戻ったりして朝ヘリコプターの音で目が覚めた時は何人もの荒い息使いはもう消えていた

そうです。

そして直後の救出される様子は当時ほとんどの人が見たと思います。

墜落後にかなりの生存者がいたという事実は衝撃的でした。


もうひとつ衝撃的な事がありました。

操縦不能でグライダー状態となりフゴイドやダッチロールする中での32分間の機内の様子。

すでに全員酸素マスクをつけ衝撃にそなえる為、全員が前傾姿勢で座った状態です。

おおよそ映画やドラマでは叫び声やパニックを連想するが墜落直前まで機内は静寂だったそうです。

この状況下で遺書を書かれた複数のサラリーマンはじめ全員がパニックを通り越しほとんど失神状態だっ

たのではないかと思う。

このときの様子を落合さんはこう証言しています。

「恐いです。怖かったです。思い出させないでください。お客様はもう声も出なかった。私はもう死ぬと

思った。最後はまっすぐ落ちていきました。窓なんか見る余裕はありません。」

この事実を知りドラマや映画とは全く違う現実に戦慄を覚えました。


当時からひとつ疑問に思っていた事があります。

日航対策本部は日航ジャンボ機が消息をたって墜落現場が長野なのか群馬なのかも分からずにいた事。

この本部よりも先に群馬県警、自衛隊、マスコミの現場到着が早かったという事実もはっきり記載されて

います。

すなわち発見も救出も遅れ前日の夕方墜落したにもかかわらず翌日の朝になって機体を発見したのです。

墜落地点の確定が早く行われ、出動がもっと迅速に行われていれば生存者は4人ではなくもっと増えてい

た可能性も否定できません。
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吉永さんが20年以上続けてきた独自の平和へのメッセージは今や世界に広がっています。
吉永さんは「原爆詩の朗読会」で一般の詩以外にも広島の世界的な詩人栗原貞子さんの詩を必ず毎年読まれます。
広島市民なら誰でも知っている実話「生ましめんかな」と「折り鶴」の二編です。
「生ましめんかな」は原爆投下直後、広島逓信局地下で起こった実話です。
吉永さんが「原爆詩の朗読会」で必ず冒頭で読まれるのがもう一人の広島の詩人、峠三吉氏の「序」です。



生ましめんかな  栗原貞子


壊れたビルディングの地下室の夜だった

生臭い血の匂い 死臭

汗臭い人いきれ うめき声

その中から不思議な声が聞こえてきた

「赤ん坊が生まれる」というのだ

この地獄の底のような地下室で

若い女が産気づいているのだ

マッチ一本ない暗がりでどうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」といったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ

かくて暗がりの地獄の底で新しい生命は生まれた

かくてあかつきを待たずに産婆は血まみれのまま死んだ

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも


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米寿を迎えた栗原貞子さん(左)と「アオギリの語り部」沼田鈴子さん(右)が「生ましめんかな」の当時生まれた赤ちゃんのモデルを囲んで。
栗原貞子さんは2005年「反戦」を貫いた生涯を閉じられました。



折り鶴  栗原貞子


色とりどりの折り鶴よ

原爆の子の像の下にひっそり静まり

かの夏の日を追う折り鶴よ

はばたいて告げよ

原爆で焼かれた日本の願いを

世界の人達に


イメージ 3

佐々木貞子さんの像で知られる「原爆の子の像」
折り鶴を千羽折ったら病気が治る事を信じて折り続けましたが、千羽を完成することなく亡くなりました。
享年12歳



序  峠三吉


父をかえせ

母をかえせ

年寄りをかえせ

子供をかえせ

私をかえせ

私につながる人間をかえせ

人間の

人間の世のある限り

くずれぬ平和を

平和をかえせ

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広島平和公園に建つ峠三吉氏の書かれた詩の石碑


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        広島電車通りに建つ「生ましめんかな」の詩の舞台となった場所
          石碑の説明版が見える



イメージ 6

「生ましめんかな」の現場となった旧広島逓信局があった場所



イメージ 7

ほぼ壊滅した旧広島逓信局の慰霊碑
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吉永さんが20年以上続けている「原爆詩の朗読会」は今世界に広がっています。
原爆投下後、残された多くの詩の中から吉永さんが毎年必ず読まれる詩の一部を掲載します。




げんしばくだん  小学3ねん  坂元はつみ


げんしばくだんがおちると

ひるがよるになり

人はおばけになる


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無題  小学5年  佐藤智子


よしこちゃんがヤケドで寝ていて

トマトが食べたいと言うので

おかあちゃんが買い出しに行ってるあいだに

よしこちゃんは死んだ

いもばっかし食べさせて殺しちゃったね、と

お母ちゃんは泣いた

わたしも泣いた

みんなも泣いた


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ひろしまの空  不明  林幸子


よる野宿してやっとひなん場所にたどりついたら

お父ちゃんだけしかいなかった

お母ちゃんとゆうちゃんが死んだよう

8月の太陽は前を流れるやはた川を反射して

父と私の泣く声をさえぎった

父と私は広島の焼け跡をとぼとぼと歩いていった

お父ちゃんはガレキのうえにしゃがむと

手でそれをのけはじめた

ぐったりとしたおとうちゃんはかぼそい声で指さした

わたしはクワを投げ捨ててそこを掘る

陽にさらされて熱くなったガレキ

だまって一心に掘り返す父と私

ああ お母ちゃんの骨だ

ぎゅっと握りしめると白い粉が風にまう

耐えがたい悲しみが残された父と私におそいかかって

大きな声をあげながら

ふたりは骨を拾う

弟はおかあちゃんのすぐそばで半分骨になり

内臓が燃えきらないでコロリところがっていた

死んでしまいたい、とお父ちゃんは叫びながら泣く

お父ちゃんは生き埋めにされたふたりの声を聞きながらどうしようもなかったのだ

それからしばらくして無傷だったお父ちゃんの体に斑点が広がってきた

生きる希望もないお父ちゃん

それでも残される私が可愛そうだと

欲しくもない食べ物をのどに通す

ぶどうがたべたいなあ

きゅうりでガマンしてね

それは9月1日の朝

私はきゅうりをしぼりお砂糖を入れてジュウスをつくった

お父ちゃんは生き返ったようだ、と私を見て笑ったけど

泣いているような弱々しい声

ふーっと大きく息をついた

そのまま動かなくなった

ひと月もたたない間に私はひとりぼっちになってしまった

涙を流しきったあとの広島の青い空


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おとうちゃん  小学3ねん  柿田佳子


にぎやかなひろしまの街

そこで死んだおとうちゃん

げんばくの雲にのっていったおとうちゃん

おしろのところで死んだおとうちゃん

わたしの小さいとき、別れたおとうちゃん

かおも知らないおとうちゃん

いちどでもいい

ゆめにでも会ってみたいおとうちゃん

おとうちゃんとよんでみたい

さわってみたい

せんそうがなかったらおとうちゃんは死ななかっただろう

もとのおうちにいるだろう

にいちゃんのほしがる自転車もかってあるだろう


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呉湾の激戦その後

          仲間の死を問うヒロシマ再訪の旅がはじまる。
          自国の落下した原爆の犠牲になった米兵捕虜。
          奇跡的に免れた元B24機長が長い沈黙を破って静かに刻む感動の回想録。

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B24爆撃機ロンサムレディー号は呉湾攻撃中、戦艦榛名の反撃により被弾、山口県柳井市に墜落
搭乗員はパラシュート降下でバラバラになり機長は重傷を負い、憲兵隊が到着するまでの間、
地元住民に手厚い看護を受けた。
その後他の搭乗員と共に広島へ移送され数日後の原爆投下で搭乗員は被爆死、機長カートライトは前日、東京に召還され被爆を免れた。
その後すぐ終戦となり機長カートライトは国へ帰ることとなった。

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45年後の1992年、ロンサムレディー号の遺族の娘が父親の消息を尋ねて来広。
しかし情報が不足、失意のうちに帰国する。
その後、ロンサムレディー号の機長が生存しており、米テキサス大学の名誉教授になっていることが
わかった。
元機長カートライトは自分の部下がどのように亡くなったのか知る為来広。
しかし彼は一人生き残った事に、いたたまれなくなり、すぐ広島を立ち去り帰国。
意を決し再来日して墜落現場やパラシュート降下地点を訪れ、墜落現場に立派な石碑が建ててある
ことに感激した。
直後に予想もしなかった町内の歓迎会を受け、当時重傷の自分を手当てしてくれた家族とも再会し、さらには江田島の戦艦榛名慰霊碑公園で内緒で待ちわびていた榛名乗組員3名と劇的な対面をする。

イメージ 3

このトーマスカートライト氏との交流が大きな力となり、彼らがどのようにして捕虜となり
被爆した彼らがどうなったのか多くのことがわかってきた。
広島にいたのはロンサムレディー号7名、他の戦闘機や艦載爆撃機の6名、計13名だったことも
分かった。
その後の調査で他に10名の米兵が捕虜として広島に送られていた事もわかり、少なくとも23名の
米兵が被爆死したことが分かってきた。
NHKが広島市民に一般募集した原爆の絵には、即死の米兵もいたが、被爆翌日住民に取り囲まれ暴行を受ける米兵の姿や住民と共に逃げ惑う瀕死の米兵など多数の市民に目撃され描かれている。
1996年には原爆死亡者名簿に被爆米兵の名前が登録された。
イメージ 4

広島繁華街一角にある被爆米兵の慰霊版


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被爆後の捕虜収容所跡

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