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広島原爆乙女

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                   アメリカへ出発する25人の原爆乙女

顔と心の傷で自殺した多くの乙女たち。

当時隠れるようにひっそりと暮らしていた若い女性が広島には多数いました。

彼女たちは人目にさらされるのを拒み、学校を辞め仕事を辞め、家に閉じこもります。

彼女たちは「原爆乙女」と呼ばれました。

広島流川教会の谷本牧師の度重なる熱心な呼びかけで次々と乙女たちが集まってきました。

彼女たちは谷本牧師の指導のもと毎日教会へ来て聖書を読み賛美歌を歌います。

一方で広島の有名外科医、原田東眠氏が早くから診察と治療に専念していましたが、全く手に負えず、

医師会を結成、国に救助の要請をしますが相手にされません。

そこで、外科医原田氏は流川教会の谷本牧師と共にアメリカのジャーナリスト、ノーマンカズンズ氏の協

力を得て彼女たちに救いの手を差し伸べる行動を起こします。

来日したカズンズ氏は原爆乙女に強い衝撃を受けアメリカのテレビ番組で、エノラゲイの操縦士ロバート

ルイス氏と谷本牧師を対面させます。

番組でルイス氏は「おお神よ、私たちはなんという事をしたのか。この言葉を飛行日誌に書きました。」

と言って震えながら涙を流しました。

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番組は大反響で多くの義援金が集まり原爆乙女は米国民に深い印象を残したのです。

限られた資金からアメリカに行くのは25人。選ぶ側も選ばれる側もつらいものだったそうです。

やがて、ノーマンカズンズ氏に選抜された25人の乙女たちがケロイド治療のため渡米し、

キリスト教徒の家で1年半のホームステイをします。

暖かい出迎えを受け、アメリカの善意に触れ、抱いていた不安は少しずつ消えていきました。

乙女たちは「ヒロシマガールズ」として、テレビや新聞で紹介され、話題になります。

行き先はユダヤ系のマウントサイナイ病院でニューヨーク最大の病院です。

この時、原田医師も一緒に同行しており回想録で「どのホームステイも実の子以上に接してくれて

彼女たちの暗い表情が消えていった事にとても私自信が驚いた。」

と述べています。

ホームステイ先の回想録では「当初、米国市民は彼女たちを見ると嫌な顔をし、避けていましたが

”ヒロシマガールズ”としてその経緯を知られてから、たくさんの贈り物が届けられるようになった」

と述懐しています。

順調に治療が進められる中、ガールズの一人が麻酔による心臓発作で亡くなります。

医師団や運動を進めてきた人達に動揺が広がっていきます。

アメリカの各新聞はこの乙女の死を一斉に大きく取り上げます。

原田東眠氏は回想録で「病院スタッフは非常に落ち込んでいた。そこへ乙女たちが病院に飛んでいき、

泣きながら、やめてはいけません、こんなにたくさんの人達が私たちを治そうと必死になってやってくれ

ています。

来週私は手術を受ける予定になってるはずですから是非やってください、とカズンズ氏やドクターに要請

し、彼ら病院スタッフはその事にとても勇気づけられた」と、振り返っています。

日差しに肌をさらし笑い、語る。

長い間彼女たちが忘れていた事です。

元の顔が完全に戻ったわけではありません。

多くの善意に包まれたアメリカでの暮らしは彼女たちの傷を確実に癒していったのです。

微笑みが帰ってきました。

女性が人生で一番輝きを増す時、ヒロシマガールズは暗闇の中で息を殺していました。

彼女たちを日差しの中へ連れ出したのは日本とアメリカの善意の人達です。

驚き、同情、そして物珍しさで見つめられたヒロシマガールズ。

帰国した彼女たちはまたも原爆乙女と呼ばれました。

再び微笑みが消えていきました。

アメリカの原爆投下は正しかった、という考えは今も変わりません。

1995年原爆の違法性を裁く国際法廷がオランダで開かれました。

核保有国は審議そのものに反対、参加せず裁判所もはっきりとした答えが出せませんでした。

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        13才で被爆。原爆乙女としてアメリカに渡った笹森さん。
        去年62年ぶりにB29搭乗員セオドアカーク氏と対談、いつものことながら平行線。


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広島平和公園に建つノーマンカズンズ氏の石碑


明日への記憶

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ボケ老人、宮下じいさん絶好調 !!

認知症のことを痴呆症と呼んでた時代に付添婦制度というのがありました。
今のケアワーカーの前身です。
当時も今も家族、本人共々その淋しさ、つらさは想像をはるかに超えるものです。
そんな中、末期患者の暗く嘆かわしい物語としてでわなく、広い心をもって明るくユーモラスに捉え、一主婦だった奥村さんが病院勤務時代のエピソードとして綴った痛快な実話物語です。

著者の奥村美香さんは、5日間だけの予定という条件でしぶしぶ付添婦の依頼を引き受けましたが、宮下じいさんは奥村さんを最後まで自分の娘だと思い込んでおり、奥村さんも最後まで実の娘として接し5年間にもわたり身の回りの世話をしていきます。
奥村さんは、結局最後の瞬間まで精一杯の愛情を注ぎ、危篤になってからは後から来た家族よりも誰よりも先に大きく泣き崩れてしまいます。
この物語はその5年間を記録したドキュメントです。

長年、ある会社の工場長として務めていた宮下じいさんは自分を警察署長だと思い込んでいて、他の患者は自分の部下、病院長を戦時中の直属上官と思い込み、病院内のまとめ役的存在として、病院長をはじめ誰からも愛され慕われたという伝説的な人物です。

奥村さんは著書の最後でこう述べています。
「じいさんが残してくれたたくさんの思い出を一生の宝として生きていきます。
わたしは今、じいさんと出会ったことを心から感謝しています。
じいさんありがとう。そして、さようなら・・・」

★戦時下を生き抜き高度成長期の日本を支えてきた人生の大先輩に対し、我々もまたこの著者のように感謝の気持ちを忘れず、より一層の人間性を身につけねばなりません。

おどる老人病棟

著者は当時22歳のナースで一生忘れられない出来事を記録として8年後に本にまとめたものです。
老人病棟にはボケばっかりでツッコミがない、という名言で始まるこの実話は半分コミック形式で、読みやすくユーモアにあふれた作品です。

婦長さん自体が60歳代で、院内のトラブル続出に対応出来なくなり、困り果てた末、病院内での踊りを発案し患者さんを集め踊りを実践していきます。
これは大成功で婦長自らが踊りにはまってしまいます。
この時間帯だけはナースも患者も一体となり笑顔で過ごすことができたようです。
おなじ痴呆症でもボケ方は千差万別で、毎日が空襲警報発令で逃げ惑う人、バケツをランドセルのように背負う人、20歳になったお婆ちゃん、座るイスを背負う人、一時的に混浴になる浴場などなど・・・

著者は最後にこう書いています。
「ツッコミ不在の漫才病院が私は大好きでした。
病気と闘わない病院。
ボケはボケのままどこまでもいく。
私はどんなお婆ちゃんになるんだろう。
おもしろく老けること。
これって最高にカッコイイかもしれない。」


その他の推薦書

★母におむつをあてるとき「舛添要一 中央公論社」
    
★痴呆の母を看取って「舛添要一 中央公論社」

★妻がアルツハイマーになった「佐藤幸四郎 朝日新聞社」

★アルツハイマーのお袋との800日「野田明宏 時事通信社」

★忘れてもしあわせ「小菅もと子 日本評論社」

★おむつをはいたママ「安藤和津 グラフ社」

★お義母さんがんばって「森万津里 講談社」

★ボケボケパラダイス「相川俊英 筒井書房」

★妻が3歳児になった時「村松富美男 本の森」

★おぼけさま「西村美智代 東京新聞出版局」

★グループホームケア「塚本茂 講談社」

★老いたる母と闘い済んで日が暮れて「小室 加代子 亜紀書房」

★ヘレンのもういや「西川ヘレン 小学館」

★ある日妻が痴呆症になった「内藤聡 大和出版」

★レーガン元大統領に捧げる手記「パティディビス 竹書房」

★長い長いさようなら アルツハイマーと闘った父「パティディビス 竹書房」

★母に歌う子守唄「落合恵子 朝日新聞社」

★ボケ連鎖「築山節 講談社」

★花を 若年性アルツハイマー「真鍋弘樹 朝日新聞社」

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