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今日で年末年始休みは最後だ。
長い休みだった。
世間では「教師の仕事はブラックだ!」
という噂が流れているが、
あれは教師という職業の一面しか見ていないと思う。
さて、
このところすっかり朝寝坊の習慣がついてしまったが、
今朝はしっかり5時に起きて、
デニーズモーニングに出かけ、
紅茶を何杯もお代わりしながら
読書をしてきた。
読んだのは、
日経おとなのOFF
良寛さん
法華経のこころ
の3冊だ。
法華経のこころは
第6章 衣珠(えじゅ)の喩(たとえ) まで進んだ。
ある男が親友の家を訪ねた。
友人の心からの歓待を受けて、
この男は酔いしれて眠ってしまった。
親友は勤務に出かけなければならないが、
この男を起こすのに忍びず、
値段がつけられないほど高価な宝玉を、
この男の衣服の端に縫いこんでおいた。
さて、目が覚めた男は親友がいないので、
その家を去り他国に赴くが、
落ちぶれて衣食にも事欠くようになる。
しかし彼は、
別に自分の貧しさを苦にする様子もない。
その後たまたま、
男の着物の端に宝玉を縫いこんだ親友に出会う。
親友は彼の零落した姿を見て言う。
「おい、君はどうして貧乏になったのだ。
僕は君が十二分に安楽に暮らせるようにと、
高価な宝玉を君の服の端に縫い込んでおいたが、
その宝玉はどうしたのかね。」
男はまったくそのことに気づいていなかったのだ。
親友は彼の服の端を示して
「ほら、今もここにあるではないか。」と言う。
これを読んだ私は、
何を言いたいのだろう?
と、あれこれ考えた。
「宝物がなくたって平気だよ!」
ということを言いたいのか?
価値の分からぬ者に宝を与えても
「猫に小判だ」ということを言いたいのだろうか?
しかし解説はまるで違っていた。
全ての人の心の中には仏性と言う宝が
釈尊によってすでに与えられていて、
それをもとに自分が幸せになるのが小乗仏教であり、
人に「宝はここにある」と教えて
他人を幸せに導くのが大乗仏教だということだった。
なるほどー!
と思うのだった。
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松原泰道を読む
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詳細
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一週間の過ぎるのが早いこと・・
今週が始まったぞー!
と思っていると、
もう明日は金曜日だ。
さて、今日の朝読の成果を、
ここに示しておこう。
法華経・薬草喩品(やくそうゆほん)より
第4章 執着心を超える智慧
「平等」にも「差別」にもとらわれない心
P109
同じ雨を受けた草木でも、生長の仕方はみな違う
山や谷や野には、
見るからに、
さまざまな草木や薬草が生えている。
草木の種類は多いから、
名も違うし、
色も形も大きさもみな異なっている。
あるとき、
同時に同量の雨が等しく地上に降り注いだとしよう。
みないっせいに雨の恵みを受けて生長し、
花を咲かせたり、
実を実らせたりするだろう。
しかし、
草木の成長の度合いは、
植物の品種や環境によって異なるであろう。
同じ地上に生えて、
同量の雨を、
同時に等しく受けても、
このようにさまざまに異なる生長をしていくのである。
薬草を研究している人の話によると、
薬にならない草はほとんどないそうです。
みなそれぞれ、
何かの役に立つ機能を持っているようです。
しかし、この事実を知る人間が、
私も含めてすくないのです。
思いますのに、
「薬草」とは、
人間の心の底にある
「仏性」のようなものではないでしょうか。
全ての人には、
その人なりの価値があり、
それはみな違っていていいのです。
また、人の価値だけではないと思います。
物の価値も同様で、
2級酒には2級酒だけの味わいがあります。
2級酒が1級酒より劣っているわけではなく、
そう思い込んでしまっている
人間の智慧が劣っているのです。
全ての物の中にある
それぞれの価値を
その人なりに見出すことが大切で、
それぞれの価値を比較して
優劣をつけても、
人は深い欲望の底に落ちるだけなのです。
大切なのは、
その物の価値の優劣ではなく、
人がそのものの価値を
きちんと引き出せているかです。
うーん。
痛いところをつかれた思いがする。
どんなオートバイにしようかとか、
どんな自転車にしようか、
どんな〇〇にしようか、
・・と、いつも悩んで、
それを楽しんでいるが、
大切なのは
自分の持っているものに
その性能に応じた価値を
しっかり与えることだってことか。
27日からの九州ぶらり旅では、
自分の持っている自転車に
しっかり価値を与えることにしよう。
そして自分自身にも、
自分の体力に応じた走りで
価値を与えて来よう!
そう思うのだった。
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金曜日の読書キャンプのお知らせがまだでした。
松原泰道先生の「法華経のこころ」より
第3章 虚無からの解放「長者窮子の喩(たとえ)」です。
p85
家出した若者を父親が探し回る放浪の旅の途中、
父親は旅先で商売に成功して金持ちとなり、
立派な邸宅を構えて住むようになりますが、
心の寂しさは少しも変わることはなかった。
そんなある日、
息子が父の豪邸の前を通り過ぎようとする。
父はたまたま門前で商談中だったため、
瞬間的に二人の視線が出合ったが、
息子は身震いをしながら
「恐ろしい人だ。奴隷にされてしまうかもしれない。」
と、急いで父の前を通りすぎてしまう。
父親はすぐに息子だということに気づき、
使用人に後を追わせて連れもどさせる。
しかし、息子は
「私は何も悪いことはしていない。」
と泣き叫ぶ。
父はやむなくこの貧児を解放する。
彼は喜んで貧民街へ一目散に突っ走ってしまう。
父はなんとかしてわが子を連れ戻そうとして、
部下に命じて使用人として雇うことにする。
貧児は汚物処理の仕事に就いて、
何年もまじめに働きつづけた。
そんな息子の姿を不憫に思った父は、
彼が恐れないように汚れた服に着替えて近づき、
一緒に働きながら話しかける。
「お前には悪意も、不誠実も、傲慢もみられない。
わしはお前がすっかり気に入った。
わしにとってお前は実の息子と同じだ。」
と言って次第に重要な仕事をまかせるようになる。
しかし若者は、
卑屈な思いを容易に捨て去ることはできなかった。
やがて父は年老いて最期の時を迎え、
土地の有力者や使用人や貧児を集め
「この子は私の実の子だ。全財産をこの子に与える」
と言って息をひきとった。
これが何の喩えなのか、
しばらく考えてみました。
はたして貧児は幸せだったのだろうか?
結局分かりませんでした。
しかし解説を読んでみると、
「どんな仕事に就こうと、
けっして卑屈になることはない。
自分の信じた道を着実に歩んでいれば、
いつか必ず報われるはずだ。」
という喩え話なのだそうです。
金持ちになることって、
そんなに大切なことなのかなあ?
と思うと同時に、
この話はもっと大切な何かを
示唆しているのではないかと考えるようになり、
さらに読み進めていこうと思うのでした。
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明日は大雪の予報が出ています。
寒い日は寒さを、
雪の日は雪を楽しむことにしましょう。
法華経入門 第2章 方便品(ほうべんぼん)
校内暴力児を救った用務員のおばさん
校内暴力に喘ぐ中学校から講演に招かれ、
暴れる生徒たちに
まったく歯が立たなかった私に
その学校の校長から連絡があった。
用務員のおばちゃんが、
手の付けられない乱暴な生徒を救ったというのだ。
おばちゃんのやったことは
特別なことではなかった。
暴れた時に破れた服を縫ってあげただけだった。
その生徒は、母親から母親らしいことを
してもらったことがなかったのだった。
暴れた自分が悪いのに、
おばちゃんは何も言わずに、
すぐにやぶれたところを縫ってくれたのだった。
松原先生は自分を増上慢人間だと批判しています。
人を教え諭してやろうという
おごり高ぶった心のことです。
法華経の言う通り「仏性」は、
初めからこの生徒の中にあったのです。
だからこそ少年は
用務員のおばちゃんの当たり前の行為によって
心の目を見開くことができたのです。
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映画を観たあと家で夕食を食べてから
今日もまた女神湖へ読書キャンプに向かいました。
昨夜から今朝にかけて読んだのは、
松原泰道全集から「法華経のこころ」です。
P32
私は若いとき、
仏教にまったく無関心でした。
寺に生まれ寺に育ちましたから、
仕方なしに読経したものです。
そして、学問的に漢訳の経典の意味は理解しても、
それ以上、
一歩も経典の中に踏み込んだことはありません。
仏教とはまったく無関係な早稲田大学文学部で学び、
暇があれば文学書を愛読していました。
私の夢は、新聞記者か作家になることでした。
ところが考古学講座の西村真次教授が、
新聞記者から学者になったことを知ると、
今度は学者志望に転じました、
マルキシズムに熱をいれたのもその頃で、
左翼の作品に興味を感じはじめました。
そんなわたしが僧侶になったのは、
私の父である祖来和尚が急死したからでした。
仏教系の学校で少しも学んだことのない私には
独学しか道はありませんでした。
P271
山本のぶさんは、女性のあんまさんです。
それは戦後間もないころの話です。
彼女は私の肩をたたきながらこう言いました。
「私の家に電灯を一つふやしました。」
私はあきれました。
彼女は小さな1室を借りて住んでいます。
電灯は一つあれば十分です。
物資不足のころでしたから、
工事費もかさみます。
そんな必要がどこにあるのかと、
私は聞きました。
「はい、私は目が不自由ですから一灯で十分です。
しかし、外が真っ暗なのです。
私の家の前の路地は利用者が多いのに真っ暗で
ご迷惑をかけてはすまないと思いまして・・。」
そこで倹約をし、貯金をして、
外灯を一つつけたというのです。
私は思わず「参った」と心の中で叫びました。
彼女には微塵の暗さもない。
自分の不幸せを踏まえて
他人の幸福を願っていく生き方は、
ひとしお冴え冴えとした美しさを覚えます。
うーん!
そうでしたかあ!
わたしも参りました!
自分の身を削って他人のために尽くす。
悪人が罪滅ぼしのために他人に尽くすのは見ますが、
こういう善人がやるというのは見ません。
ちょっと反省してみたいと思います。
夕方、埼玉から来たという男性が女神湖を写真に収めていました。
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