新鬼の城yahooブログ版です

ブログはじめました。宜しく。。。
季節の移ろいは早い。少し前まで「この暑さには参る」と言っていたのを忘れてしまい、今は寒さ対策である。ここ多摩ニュータウンでは都心より2・3度低いが、真冬は道路が凍結してしまい自転車には危なくて乗れないし、高低差が4・50メートルある丘陵地域故に歩くのも滑りやすいと言われている。

そんなところでの生活は想像よりも厳しいものがある。糖尿病や甲状腺関連の病気が被爆関連と都保健局から認定されたので、冬は病院で過ごすという手もあるが、脊柱管狭窄症・椎骨圧迫骨折はまだ認定されていないので、これは考えのもだ。

いずれにせよ介護サポートも受けており、何とかこの冬を凌ぎたい。なお、考古学関連の問題を煮詰めているので、焦げ付かないようにしてまとめていく予定である。

写真はアメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争に対して、反米救国民族解放戦争を闘い抜いたベトナム人民と10・8山崎プロジェクトの交流があり、その交流の一環でアメリカの枯れ葉剤作戦の被害者・その2世の方々が作られたガラス製のブローチである。
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11月になる…。

体調は極端な悪化はせず、毎日何とか凌いでいる。問題は10近くある個別症状と、それを被爆原因と認定する都保健局と私の主治医とのやり取りにかなり時間が掛る。現在認定されたのが、高血圧・糖尿病・脳梗塞であり、認定中なのが脊柱管狭窄症・椎骨圧迫骨折・甲状腺関連その他である。却下されたのは慢性胃炎と前立腺炎症である。却下の理由は「被爆者2世関連の病気の枠内にない」と言うことだ。

行政と(この場合都保健局)と私の間に入ってくれているのは東友会という被爆者団体である。東友会の担当者もよくサポートをしてくれているが、行政と主治医との間には入れない。これには時間が掛っても致し方がない。

今日は午前中介護ヘルパーさんが部屋の掃除をして頂いた。午後からは読みかけの「東條英機VS石原莞爾」の本を読んだ。
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石原莞爾は東條より陸士4期下であるから東條が先輩になる。しかし、東條に面と向かい「思想も意志もなく、上等兵クラスだ」と罵倒したり、暗殺計画まで実行しようとした。まあ、戦時体制における指導部の主導権争いであるが、どうしても東條がバカに見える。

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もう10月だ。。

季節の移ろいは早いと言うけど、実際にもう10月である。しかし、気温のアップダウンが激しく15度の日があれば30度の日もある。今週ぐらいから25度前後に落ち着くと予報ではいっている。

私は先月から始めた週2回のデイサービス参加、また週2回の介護ヘルパーさんによる部屋の掃除・片付けなどで忙しい。さらに、脊柱管狭窄症・椎骨圧迫骨折・前立腺炎症・糖尿病・胆石・高血圧・脳梗塞などに加えて甲状腺関係の問題が表面化してきた。これらの病とどのように対応するか、であるが被爆者2世の医療扶助を適用することになった。そして、それは私と、医療機関、被爆者団体、都保健局との関係の中でまずは書類上の手続きから行うことで現在進行中である。書類上の手続きがクリアーすると入院・加療となる。これも忙しいのだ。

本を読んでいる時間がない。ドタバタして一日が終わる。スケジュールども立てようがなく、出たとこ勝負という毎日である。

ところで小出さんが福島原発事故とオリンピック実施に反対する意見を出された。以下紹介する。
9月29日 =全文=
「フクシマ事故と東京オリンピック」
小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
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◇part 1

2011年3月11日、巨大な地震と津波に襲われ、東京電力・福島第一原子力発電所が全所停電となった。
全所停電は、原発が破局的事故を引き起こす一番可能性のある原因だと専門家は一致して考えていた。
その予測通り、福島第一原子力発電所の原子炉は熔け落ちて、大量の放射性物質を周辺環境にばらまいた。
日本国政府が国際原子力機関に提出した報告書によると、その事故では、1.5×10 の 16 乗ベクレル、広島原爆168発分のセシウム137を大気中に放出した。
広島原爆 1発分の放射能だって猛烈に恐ろしいものだが、なんとその168倍もの放射能を大気中にばらまいたと日本政府が言っている。
その事故で炉心が熔け落ちた原子炉は 1 号機、2 号機、3 号機で、合計で 7×10 の 17 乗 ベクレル、広島原爆に換算すれば約 8000 発分のセシウム 137 が炉心に存在していた。
そのうち大気中に放出されたものが 168 発分であり、海に放出されたものも合わせても、現在までに環境に放出されたものは広島原爆 約 1000 発分程度であろう。
つまり、炉心にあった放射性物質の多くの部分が、いまだに福島第一原子力発電所の壊れた原子炉建屋などに存在している。
これ以上、炉心を熔かせば、再度放射性物質が環境に放出されしまうことになる。
それを防ごうとして、事故から7年以上経った今も、どこかにあるであろう 熔け落ちた炉心に向けてひたすら水を注入してきた。そのため、毎日数百トンの放射能汚染水が貯まり続けてきた。
東京電力は敷地内に 1000 基を超えるタンクを作って汚染水を 貯めてきたが、その総量はすでに 100 万トンを超えた。
敷地には限りがあり、タンクの増設には限度がある。
近い将来、東京電力は放射能汚染水を海に流さざるを得なくなる。
もちろん一番大切なのは、熔け落ちてしまった炉心を少しでも安全な状態に持って行くことだが、7 年以上の歳月が流れた今でも、熔け落ちた炉心がどこに、どんな状態であるかすら分からない。
なぜなら現場に行かれないからである。事故を起こした発電所が火力発電所であれば、簡単である。
当初何日間か火災が続くかもしれないが、それが収まれば 現場に行くことができる。
事故の様子を調べ、復旧し、再稼働することだって出来る。
しかし、事故を起こしたものが原子力発電所の場合、事故現場に人間が行けば、死んでしまう。
国と東京電力は代わりにロボットを行かせようとしてきたが、ロボットは被曝に弱い。なぜなら命令が書き込まれているIC チップに放射線が当たれば、命令自体が書き変わってしまうからである。
そのため、これまでに送り込まれたロボットはほぼすべてが帰還できなかった。


◇part 2

2017年1月末に、東京電力は原子炉圧力容器が乗っているコンクリート製の台座 (ペデスタル)内部に、いわゆる胃カメラのような遠隔操作カメラを挿入した。
圧力容器直下にある鋼鉄製の作業用足場には大きな穴が開き、圧力容器の底を抜いて熔け落ちて来た炉心がさらに下に落ちていることが分かった。
しかし、その調査ではもっと重要なことが判明した。
人間は8シーベルト被曝すれば、確実に死ぬ。
圧力容器直下での放射線量は一時間当たり20 Sv であったが、そこに辿り着く前に530あるいは650シーベルトという放射線が計測された。
そして、この高線量が測定された場所は、円筒形のぺデスタルの内部ではなく、ペデスタルの壁と格納容器の壁の間だったのである。
東京電力や国は、熔け落ちた炉心はペデスタルの内部に饅頭のように堆積しているというシナリオを書き、30年から40年後には、熔け落ちた炉心を回収し容器に封入する、
それを事故の収束と呼ぶとしてきた。
しかし実際には、熔けた核燃料はペデスタルの外部に流れ出、飛び散ってしまっているのである。やむなく国と東京電力は「ロードマップ」を書き換え、格納容器の横腹に穴を開けて掴み出すと言い始めた。
しかし、そんな作業をすれば、労働者の被曝量が膨大になってしまい、出来るはずがない。
私は当初から旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故の時にやったように石棺で封じる しかないと言ってきた。
そのチェルノブイリ原発の石棺は30年たってボロボロになり、 2016年11月にさらに巨大な第2石棺で覆われた。
その第2石棺の寿命は100年という。その後、どのような手段が可能かは分からない。今日生きている人間の誰一人とし てチェルノブイリ事故の収束を見ることができない。
ましてやフクシマ事故の収束など今 生きている人間のすべてが死んでも終わりはしない。
その上、仮に熔け落ちた炉心を容器 に封入することができたとしても、それによって放射能が消える訳ではなく、その後数十 万年から100万年、その容器を安全に保管し続けなければならないのである。


◇part 3

発電所周辺の環境でも、極度の悲劇がいまだに進行中である。
事故当日、原子力緊急事態宣言が発令され、初め3 km、次に10 km、そして20 km と強制避難の指示が拡大していき、人々は手荷物だけを持って家を離れた。
家畜やペットは棄てられた。
それだけではない、福島第一原子力発電所から40~50 km も離れ、事故直後は何の警告も指示も受けなかった飯舘村は、事故後一カ月以上たってから極度に汚染されているとして、避難の指示が出、全村離村となった。
人々の幸せとはいったいどのようなことを言うのだろう。
多くの人にとって、家族、仲間、隣人、恋人たちとの穏やかな日が、明日も、明後日も、その次の日も何気なく続いていくことこそ、幸せというものであろう。
それがある日突然に断ち切られた。
避難した人々は初めは体育館などの避難所、次に、2人で四畳半の仮設住宅、さらに災害復興住宅や、みなし仮設住宅へ移った。
その間に、それまでは一緒に暮らしていた家族もバラバラになった。
生活を丸ごと破壊され、絶望の底で自ら命を絶つ人も、未だに後を絶たない。
それだけではない。極度の汚染のために強制避難させられた地域の外側にも、本来であれば「放射線管理区域」にしなければいけない汚染地帯が広大に生じた。
「放射線管理区域」とは放射線を取り扱って給料を得る大人、放射線業務従事者だけが立ち入りを許される場である。
そして放射線業務従事者であっても、放射線管理区域に入ったら、水を飲むことも食べ物を食べることも禁じられる。
もちろん寝ることも禁じられるし、放射線管理 区域にはトイレすらなく、排せつもできない。
国は、今は緊急事態だとして、従来の法令を反故にし、その汚染地帯に数百万人の人を棄てた。
棄てられた人々は、赤ん坊も含めそこで水を飲み、食べ物を食べ、寝ている。
当然、被曝による危険を背負わせられる。棄てられた人は皆不安であろう。
被曝を避けようとして、仕事を捨て、家族全員で避難した人もいる。
子どもだけは被曝から守りたいと、男親は汚染地に残って仕事をし、子どもと母親だけ避難した人もいる。
でも、そうしようとすれば、生活が崩壊したり、家庭が崩壊する。
汚染地に残れば身体が傷つき、避難すれば心が潰れる。
棄てられた人々は、事故から7年以上、毎日毎日苦悩を抱えて生きてきた。
その上、国は2017年3月になって国は、一度は避難させた、あるいは自主的に避難していた人たちに対して、1年間に20ミリシーベルトを越えないような汚染地であれば帰還するように指示し、それまでは曲がりなりにも支援してきた住宅補償を打ち切った。
そうなれば、汚染地に戻らざるを得ない人も出る。
今、福島では復興が何より大切だとされている。
そこで生きるしかない状態にされれば、もちろん皆、復興を願う。
そして人は毎日、恐怖を抱えながらは生きられない。
汚染があることを忘れてしまいたいし、幸か不幸か放射能は目に見えない。
国や自治体は積極的に忘れてしまえと仕向けてくる。
逆に、汚染や不安を口にすれば、復興の邪魔だと非難されてしまう。


◇part 4

1年間に20ミリシーベルトという被曝量は、かつての私がそうであった「放射線業務従事者」に対して初めて許した被曝の限度である。
それを被曝からは何の利益も受けない人々に許すこと自体許しがたい。
その上、赤ん坊や子どもは被曝に敏感であり、彼らには 日本の原子力の暴走、フクシマ事故になんの責任もない。
そんな彼らにまで、放射線業務 従事者の基準を当てはめるなど、決してしてはならないことである。
しかし、日本の国はいま、「原子力緊急事態宣言」下にあるから、仕方がないと言う。緊急事態が丸1日、丸 1週間、1月、いや場合によっては1年続いてしまったということであれば、まだ理解できないわけではない。
しかし実際には、事故後7年半たっても「原子力緊急事態宣言」は 解除されていない。
国は積極的にフクシマ事故を忘れさせてしまおうとし、マスコミも口をつぐんでいて、「原子力緊急事態宣言」が今なお解除できず、本来の法令が反故にされ たままであることを多くの国民は忘れさせられてしまっている。
環境を汚染している放射 性物質の主犯人はセシウム137であり、その半減期は30年。100年たってもようやく10分の1にしか減らない。
実は、この日本という国は、これから100年たっても、「原子力緊急事態宣言」下にあるのである。


◇part 5

オリンピックはいつの時代も国威発揚に利用されてきた。
近年は、箱モノを作っては壊す膨大な浪費社会と、それにより莫大な利益を受ける土建屋を中心とした企業群の食い物にされてきた。
今大切なのは、「原子力緊急事態宣言」を一刻も早く解除できるよう、国の総力を挙げて働くことである。
フクシマ事故の下で苦しみ続けている人たちの救済こそ、 最優先の課題であり、少なくとも罪のない子どもたちを被曝から守らなければならない。
それにも拘わらず、この国はオリンピックが大切だという。
内部に危機を抱えれば抱えるだけ、権力者は危機から目を逸らせようとする。
そして、フクシマを忘れさせるため、マスコミは今後ますますオリンピック熱を流し、オリンピックに反対する輩は非国民だと言われる時が来るだろう。
先の戦争の時もそうであった。
マスコミは大本営発表のみを流し、 ほとんどすべての国民が戦争に協力した。
自分が優秀な日本人だと思っていればいるだけ、 戦争に反対する隣人を非国民と断罪して抹殺していった。
しかし、罪のない人を棄民したままオリンピックが大切だという国なら、私は喜んで非国民になろうと思う。
フクシマ事故は巨大な悲劇を抱えたまま今後100 年の単位で続く。
膨大な被害者を横目で見ながらこの事故の加害者である東京電力、政府関係者、学者、マスコミ関係者など、誰一人として責任を取っていないし、処罰もされていない。
それを良いことに、彼らは今は止まっている原子力発電所を再稼働させ、海外にも輸出すると言っている。
原子力緊急事態宣言下の国で開かれる東京オリンピック。
それに参加する国や人々は、もちろん一方では被曝の危険を負うが、一方では、この国の犯罪に加担する役割を果たすことになる。

(「フクシマ事故と東京オリンピック(日本語版)」は以上です)

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映画『みえない雲』(原題;DIE WOLKE、2006年ドイツ、原発事故後の住民のパニックを高校生の男女・エルマーとハンナを主人公にして描いています。必見です)の原作者のグードルン・パウゼヴァングは、福島第一原子力発電所事故を受けて、ドイツの週刊誌『デア・シュピーゲル』に、日本人が『みえない雲』に描かれたような惨事から免れることを望む、という趣旨の文章を寄せています。
その文章においてパウゼヴァングは、生き残ったヤンナ-ベルタ(映画ではハンナ)がいずれ高度障害をもつ子供を産むであろう未来を示しています。
また、原子力エネルギーを推進することを原因とするか、その結果起きることによって子供達が苦しむことを憂い、推進する人々がその結果起こりうる事に責任を負うべきことを理解しているかを問い、自身が生きている間は警告を続ける旨を語っています。
(英訳「I Hope the Japanese Will Be Spared」。2011年3月18日付)−パウゼヴァングのコメント部分はウィキペディアよりの転載です−東京オリンピックの開催など無理です。

国は、福島第一原発の事故処理に真面目に取り組むべきです。
人々が毎日安心して楽しく暮らせる平和な社会が担保されない国は国とは言えません。

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■以下、小出裕章先生のコメントです。
「フクシマ事故と東京オリンピック」公開にあたって 
福島第一原発事故が収束できず、いまだに「原子力緊急事態宣言」も解除できないままです。
そんな中、東京オリンピックが開かれようとし、フクシマ事故に責任がある人たちは、東京オリンピックに人々の目を引き寄せることにより、フクシマ事故を忘れさせようとしています。
イタリア在住の知人(楠本淳子さん)から東京オリンピックに対する文章を書くように依頼され、書きました。
それを楠本さんが英語に翻訳もしてくれましたので、両者を公開します。
遠からず、楠本さんが世界各国のオリンピック委員会に、私のこの文章、そして楠本さんがお書きになる文章を送ってくださることになっています。

出典元





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秋の長雨に思う。。。

昨夜来から明後日まで雨が降る。最高気温が18度とされている。しかし、私はこの雨の中を郵便局・個人医院と回らねばならない。特に、個人医院は私の病の一つが「甲状腺ホルモン低下により、肥満・むくみ・倦怠感」が顕著になっている。私の異常肥満の原因もこれで解決できそうだ。足のむくみなど靴が入らないほどむくみがある。さらに、椎骨圧迫骨折・脊柱管狭窄症により歩行が困難であり(80メートルぐらいまでは歩けて、後は痛みをこらえて休み休み歩く)という状態と、前立腺炎症による排尿障害がある。それ以外にも脳梗塞・胃炎とかもあるが省略する。

甲状腺ホルモンの低下は「橋本病」と呼ばれ、難病指定病である。これは、現時点では「可能性」の範疇であるが、今後都保健局での審査で決定される。大体10月半ばには審査結果が出るという。

その「橋本病」をネットで検索すると次のような説明を見つけた。やっかいで難儀な病だ。しかし、甲状腺ガンの可能性を考えていたので、それが遠のいたのでホッとしている。

私は以前、職場の健康診断にて甲状腺種があると診断されました。
 
それまで特別意識もしなかったのですが、首の周りのしこり、
 
膨らみを意識するようになりました。
では「橋本病」という病気はどういった症状があるのでしょうか?
 
私の場合は以前の職場で配置転換があったのですが、
 
その際体重の増減が異常にありました。
ではこの橋本病がどういった事が原因で起こるのでしょうか?
 
私たちの身体に細菌やウィルスなどの外敵が侵入するとリンパ球などの
 
免疫を担当する細胞が外敵を攻撃して排除します。
橋本病、甲状腺の病気は女性がかかる事が多いと聞きます。
 
年齢も20代、30代の女性が多いとも。
 
女性の場合は人生には妊娠、出産という事も控えています。
病気になればもちろん治療の為に薬も飲まないといけませんし、
 
受診もしないといけません。
 
それと同時に上手く付き合っていかないといけないと私は思います。

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続き・・その2

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今朝の気温は17度で、寒さを感じている。こうして秋になっていく。私は、デイサービスに週2回通っているが、少し運動がきついようだ。その結果翌日には筋肉や筋が痛む。しかし、そうして運動などをしていると気分転換になる。さて、私の古くからの先輩同志である水谷さんが68年冬に闘われた佐世保エンプラ阻止闘争の総括的な文章を、「重信房子さんを支える会」が刊行している「オリーブの樹」に投稿されている。水谷さんの承諾を得てここに文字数の関係で2回に分けて転載する。
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった。だからこそ、そこをのりこえて共闘関係を形成するにはどうすればよかったのだろうか。別のところでも書いたが、われわれが抱いていた党概念のコペルニクス的転換が求められている。
 半世紀という長い歴史のスパンで総括することで、階級闘争の全体像とそこで世界革命・アジア革命・日本革命をめざしたわれわれの存在意義と大きな誤りもみえてくるのではないだろうか。
 最後になりましたが、この度、執筆の機会を与えてくれた重信房子さんと『オリーブの樹』編集部に心から感謝申し上げます。(2018年8月10日)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった

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9月になっても日中は30度を超す暑い天気が続いている。しかし、今の時間の八王子市は豪雨である。ところで、私はフェイスブックをやっているが、現在の台風・大雨・地震とうち続く連続的な災害で”自衛隊”が救助で頑張っている。その一方安倍政権の憲法改悪、とりわけ自衛隊の国軍化をがむしゃらに進めている。それについては大反対である。

この問題について室蘭工科大学の清末愛沙さんが、自分の意見をまとめている。私はこの意見に賛成だ。以下紹介する。

 胆振東部地震の現場でまさに懸命に、そして献身に被災者救援にあたる自衛官。この姿にわたしも頭が下がる。なんとか家族を救い出してほしいと強く願う人たち(その姿を目にすると、胸が張り裂けそうだ)の気持ちをかなえるために、必死に救援作業を続ける。肉体的だけでなく、こうした家族の思いを考え、それを背負って救援活動を続けるのだから、精神的にも厳しい(自衛官だけでなく、救援作業にあたる人々はそういう気持ちで救援にあたっているはずだ)。自衛隊への感謝という気持ちが自然に出てくるのはわかる。

 わたしたちは、この「感謝」という気持ちが分岐点だということを考えなければならないのではないか。自衛官に感謝をするのであれば、いや、感謝をするからこそ、同じ自衛官が殺す・殺される戦場に送られる状況、すなわち自衛官が死なない状況をつくろうと努力するのが筋なのではないか、ということ。自衛隊の憲法明記を判断する際の大きな判断点のひとつはここにあるとわたしは強く思う。「感謝するからこそ、自衛隊の憲法明記に賛成」という発想は、わたしたちが被災者救援で感謝する自衛官の生命を危険に追いやるということだ。それは感謝ではない。感謝という言葉を利用した、戦場でがんばって「死ね」ということを意味しかねない、ことを考えるべき。感謝という名をまとった残虐性だ。

 被災者支援に感謝するのであれば、災害救助隊として活躍してもらう方向にもっていくというのが筋だとわたしは強く思う。これだと「防衛」はどうするのだ、と言われるだろう。それに対して、わたしは戦場を知っている者の一人としていう。この「防衛」「自衛」という発想こそが、現実に激しい武力行使を肯定する危険な言葉なのだということを。

この記事に

暑い日が続くと思えば台風が連続してくる。暑い日は道路やビルの照り返しがあり、体感温度は40度以上となる。外に位rと耐え切れなくなり、コンビニなどに避難する。また、台風は「ゲリラ豪雨」と報道されて、関東地方でもその雨量は80mm以上を体験した。通常は道路であるが、この道路が激流の河になる。さらに、積乱雲が立ち上がり雷も凄まじく唸る。

さて、私は健康を崩して地元の医院に通うほか、精密検査を地域拠点病院で受けている。複数の病理が相乗効果を生んでおり、どこから何から手を付けるのか、それも明確ではない。今後、その方針を明確にする予定だ。

ところで、先日ヒロヒトが「戦争責任を問われて辛い」と述べたメモが公開された。これでは、何が辛いのかよく分からない。そこで、【ちきゅう座】のホームページで醍醐さんが分かり易く説明をしている。以下紹介する。

「戦争責任言われつらい」(昭和天皇)→「すごい言葉だ」(半藤一利)→ちっともすごくない、当たり前すぎる

この記事に

8月半ばを過ぎてもまだ暑い日が続いている。しかし、夕方の風には秋の気配がある。昔、武蔵野台地がそれほど開発されず、空き地や雑草が生えている所がおおかった。そこで、夏にはよく発掘調査をした。皆日焼けをして汗みどろで調査をした。そんな時、武蔵野台地のある方向から黒雲が立ち、そこだけがスコールのように土砂降りだった。そのスコールが近づくと皆喜んで水を体一杯受け止めた。それが、一瞬でありスコールが去ると残念がった。

そんなことを思いだす。ところで昨今の政治状況はますます悪化の一途を辿っている。そんな中で、綾瀬はるかの行為は右傾化に抗する行為だと思う。以下紹介したい。

綾瀬はるかが戦時下の性犯罪をレポート! 兵士たちによる性暴力、国が中絶手術を強制…現在も続く性被害女性への偏見

2018.08.16

 昨日は73回目の終戦の日を迎えたが、民放キー局では終戦の特番はひとつも放送されることはなかった。そんななか、TBSの『NEWS23』では、放送時間を拡大して、今年も特別企画「綾瀬はるか「戦争」を聞く」を放送。今年のテーマは、「戦争と性犯罪」だ。

 今回、綾瀬が話を聞いたのは、10歳のときに敗戦を満州で迎えたという鈴木政子さん(83歳)。敗戦後、満州に侵攻したソ連兵によって収容所に連行されたが、そこではソ連兵たちによる女性たちへの性暴力が待っていた。政子さんの母・ツ子(つね)さんは、手記にこう書き綴っているという。
〈夜ひるなしに女を連れに来る。若い者、年寄りに関係はない〉
〈「お母さんお母さん」と泣き叫ぶ。「助けて、助けて」と呼べど叫べど誰も手出しができない〉
〈まるで犬・猫どころか、石ころ同然である〉
 そして、10歳の政子さんも、そうした現場を目の当たりにしている。「『嫌だ』と言った、子ども2人いるお母さんが目の前でね、犯されたの。それをみんなが見てるんです」(政子さん)。ソ連兵は女性を何人か連れ出しては「5人くらいで輪姦」し、女性たちは「1回に5〜6人相手」にさせられた。病気や出血多量で多くの人がそこで亡くなったという。
 この証言に綾瀬も衝撃を受けたのか、「鈴木さんの目の前でですか?」「子どもたちの前で?」と繰り返すように尋ね、悲痛な表情を浮かべたが、こうして性暴力を受けた女性たちには、さらなる悲劇が待っていた。
 政子さんには満州で知り合った「ゆう子さん」という17歳の少女がいた。姉妹のように仲良くなったが、このゆう子さんもまたソ連兵の強姦被害に遭っていた。そして、政子さんの家族とともに命からがら収容所を抜け出し、引き揚げ船で帰国の途に着いたときに、ゆう子さんは妊娠7カ月となっていた。
 同じように妊娠していた女性のなかには、引き揚げ船から海へ身を投げる者もいた。だが、ゆう子さんは生きることを選び、船は博多港に着いた。しかし、ゆう子さんは福岡県筑紫郡二日市町にあった「二日市保養所」に連れて行かれる。この「二日市保養所」では、当時の日本では違法だった中絶手術が強制的におこなわれていたのだ。
 現在の母体保護法でも、中絶手術ができるのは妊娠22週未満まで。妊娠7カ月での中絶手術は母体のリスクがあまりにも高すぎる上、麻酔薬がなく、女性たちは麻酔なしで痛みに耐えなければならなかった。さらに、当時の手術にかかわった医師や看護師の証言によると、妊娠後期の場合、中絶ではなく出産をして、出てきた赤子の首を絞めたり、頭にメスを刺すなどして絶命させていたのだという。
 なぜ、このような中絶手術がおこなわれたのか。じつはここに国による方針があった。
 当時、堕胎にかかわった岩崎正・九州大学産婦人科教室元医局長は、「日経メディカル」1987年8月10日号に「国が命じた妊娠中絶」と題した手記を寄稿。そこには、敗戦直後に産婦人科の助教授が厚生省に緊急召集され、こう指示を受けたと書かれている。
〈異民族の血に汚された児の出産のみならず家庭の崩壊を考えると、これら女性たちの入国に際しては、これを厳しくチェックして、水際でくい止める必要がある〉
〈極秘裏に中絶すべし〉
『NEWS23』では、二日市保養所で500人とも言われる女性たちが中絶手術を受けたと伝えたが、この岩崎氏の手記によると、国立福岡療養所と国立佐賀療養所でおこなわれた中絶手術も〈1000件を下らない〉という。
 このように「外地」で性暴力を受けて妊娠した女性たちは、当時「不正妊娠」と呼ばれ、記録されている。強姦に遭った被害者であるにもかかわらず、女性たちは“正しくない妊娠をした者”として扱われ、意思とは関係なく国の指示によって中絶をさせられたのである。

女性たちをソ連兵に差し出し性接待をさせた日本人男性

 さらに番組では、政子さんの証言のほかに、岐阜県旧黒川村から満州に渡った「黒川開拓団」で起こった問題も紹介された。それは、敗戦後にソ連兵や現地の人びとから襲撃を受けるようになった際、「開拓団の男たち」はソ連兵に治安を守ってもらうことと引き換えに、女性を差し出して「性接待」をおこなわせていた、というものだ。このとき、男たちは女にこう言っては性暴力を正当化した。「減るもんやないし」「ロシアの人と付き合えて良かったやないか」。
 満州での性暴力、そして“身内”のはずの男たちに人身御供として差し出され、強姦の被害に遭わされた女性たち。戦時下において、女性たちはこうして性の暴力に晒されてきたのだ。
 無論、それは日本人女性だけの話ではない。『NEWS23』では、星浩キャスターが「今回、非常につらい経験を語ってくれた女性の方々を、私はその勇気に敬意を表したい」とした上で、「一方で日本はアジア・太平洋で多大な被害を与えたという加害者でもある」「我々の責任は加害者ということの歴史に目を向けること」と言及したが、日本は戦時性暴力の加害者でもあるからだ。
 言わずもがな、戦時中、日本軍兵士は戦地で強姦を繰り返し、さらには朝鮮人、台湾人、中国人、フィリピン人、インドネシア人など、多くの国の女性たちを人身売買や脅迫、甘言を囁いて騙すなどして「慰安所」に入れた。しかも、こうした「性奴隷制度」と呼ぶべき慰安所の設置には軍が関与しているのである。
 だが、こうした問題に対し、日本はいまだに「戦争中だから仕方がなかった」だの「あれは戦時中の売春婦だ」だの「強制連行ではない」だのと混ぜ返しつづけている。これは、治安のために強姦させられた黒川開拓団の女性に男性が吐き捨てた「減るもんやないし」という女性の尊厳を踏みにじる言葉と地続きのものであると同時に、いまなお日本に蔓延している女性の権利に対する意識のなさを浮き彫りにしている。実際、性被害を訴える女性に対し、この国では副総理までもが「はめられた」と言い出したり、「酒を一緒に飲んだら合意も同然」「服装が悪い」「本当は悪い気はしなかったのではないか」などと性犯罪を正当化する意見がごく当然の見方であるかのように次々と飛び出すという状況がつづいている。
 日本が戦時性暴力の加害者であることを真摯に受け止めることもなく、被害を訴える女性たちに「金目的だ」などと暴言を浴びせ、一方で性暴力を受けた女性たちに「自己責任」と言い放つ。これは、女性に対する性暴力が「女性の人権」の問題であるという認識がないことの証左だ。
 戦地で日本兵が追い込まれた過酷な状況や本土空襲の苛烈さといったテーマと比べると、日本の女性たちが受けた性被害にかんする報道は少ない。そして、多くの被害女性たちに沈黙を強いてきたのは、この国の性暴力に対する偏見や、被害者に「恥」の意識を擦り込ませる社会からの視線だ。これを現在にもつづく問題として捉えると同時に、日本軍「慰安婦」問題を筆頭に、あらゆる性暴力を「女性の人権」の問題として考える。日本に求められているのは、そうした姿勢であるはずだ。



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今月初の投稿です。。

ウルトラ酷暑が続いているかと思えば、二度にわたり台風が来た。台風が来ると気温が下がる。10月かと思わせる寒さを感じる。今朝からは通常の夏日だ。だが、この気温・湿度の変動ですっかり体調も悪化している。昨日も、今日も病院通いだ。

それにしてもこの国の政治の劣化は最低になっている。その根拠を逐一挙げればきりがないのだが、自公政権がもたらすモラルハザードが政権の政策にトコトン反映されているのだ。それに対して、多くの有権者は責任があるにも傍観している。歴代の自民党政権はろくな政治をしていなかったが、安倍政管はその中でも突出している。これを倒さずして、何の有権者の責任が全うされるのか。

ところで、NHKの大河ドラマ「西郷どん」を今週の日曜日初めて観た。結論は詰まらん。西郷とうまく関係が出来なかった島津久光の演技はまるで漫画ではないか。漫画の久光を描けば西郷がより光る、と言う分かり易い構図なのだが久光はそのような単純な「バカ殿」ではないぞ。そして、西郷は思慮深い、人間性溢れる人物像だ。実際の西郷は「ニセ組頭」に過ぎないと言う意見もあるが、私もそう思う。もう、このくだらない大河ドラマを観ることはない。

翁長知事がガンで亡くなったが、これを踏まえて沖縄の自決権の権利を改めて確認すべきだ。それこそ、今後の沖縄闘争の肝になると思う。さらに、8・6ヒロシマでの原爆慰霊祭に参加した安倍の言動は酷い。これについて東京新聞の意見がある。何となく【ぬるま湯的な意見】だが、賛同する部分もあるので紹介する。

<つなぐ 戦後73年>祈りと怒りの原爆忌 首相、核禁止条約なお「不参加」

 安倍晋三首相は六日、広島市で行われた平和記念式典に出席した後、被爆者団体の代表者らと面会した。代表者らは核兵器開発や使用を全面的に禁じた核兵器禁止条約について「私たち被爆者をはじめ、市民の努力が実った」として、日本政府も参加するよう求めた。首相は参加しないと明言した。これまでも首相との面会で、集団的自衛権の行使容認撤回などを求めてきた被爆者たち。この日も平和を求める思いは首相に届かず、怒りと失望が広がった。 (山口哲人、川田篤志)
 首相に条約への参加を求めたのは、広島被爆者団体連絡会議の吉岡幸雄事務局長。「日本政府は禁止条約に反対し、署名も批准も拒否している。国民多数の意思に背き続けることはできない。条約に署名し、批准への努力を強く求める」と迫った。さらに「私はこれまでもこの席で、安倍内閣の集団的自衛権の容認や憲法改悪の主張に対し、抗議して撤回を求めた」と強調した。
 首相との面会後、吉岡氏は記者団に「われわれの要望に全然聞く耳を持たない態度は腹立たしいことこの上ない。もう(広島に)来てほしくない」と怒りをあらわにした。
 広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長は記者団に、日本政府が昨年立ち上げた核保有国、非保有国の専門家が核軍縮について議論する賢人会議について「核兵器禁止条約(に賛成)の立場に政府が立たない限り、賢人会議そのものに意味がない」と指摘した。
 被爆者が首相を批判するのは、要望を政策に反映しようという姿勢が感じられないからだ。核廃絶に関しては、日本政府が米国など核保有国に対して、真剣に核放棄を迫っているようにもみえない。
 首相は被爆者との面会で、核軍縮を巡る各国の立場の違いが顕在化していると指摘。日本に求められるのは橋渡し役だとした上で、条約は「アプローチが異なる」として参加は難しいとの考えを示した。賢人会議に言及し「核兵器国と非核兵器国への働きかけを行い、国際社会を主導していく」と理解を求めた。
 面会後の記者会見では条約について「核兵器国は一カ国も参加していない。参加しないとの立場に変わりはない」と言い切った。
 核兵器禁止条約は、「ヒバクシャの受け入れ難い苦しみに留意する」と明記し、核兵器開発や使用を全面的に禁じた。昨年七月に国連で採択されたが、日本政府は条約交渉に参加せず、採択後も署名していない。
(東京新聞)

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