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もう10月だ。。

季節の移ろいは早いと言うけど、実際にもう10月である。しかし、気温のアップダウンが激しく15度の日があれば30度の日もある。今週ぐらいから25度前後に落ち着くと予報ではいっている。

私は先月から始めた週2回のデイサービス参加、また週2回の介護ヘルパーさんによる部屋の掃除・片付けなどで忙しい。さらに、脊柱管狭窄症・椎骨圧迫骨折・前立腺炎症・糖尿病・胆石・高血圧・脳梗塞などに加えて甲状腺関係の問題が表面化してきた。これらの病とどのように対応するか、であるが被爆者2世の医療扶助を適用することになった。そして、それは私と、医療機関、被爆者団体、都保健局との関係の中でまずは書類上の手続きから行うことで現在進行中である。書類上の手続きがクリアーすると入院・加療となる。これも忙しいのだ。

本を読んでいる時間がない。ドタバタして一日が終わる。スケジュールども立てようがなく、出たとこ勝負という毎日である。

ところで小出さんが福島原発事故とオリンピック実施に反対する意見を出された。以下紹介する。
9月29日 =全文=
「フクシマ事故と東京オリンピック」
小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
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◇part 1

2011年3月11日、巨大な地震と津波に襲われ、東京電力・福島第一原子力発電所が全所停電となった。
全所停電は、原発が破局的事故を引き起こす一番可能性のある原因だと専門家は一致して考えていた。
その予測通り、福島第一原子力発電所の原子炉は熔け落ちて、大量の放射性物質を周辺環境にばらまいた。
日本国政府が国際原子力機関に提出した報告書によると、その事故では、1.5×10 の 16 乗ベクレル、広島原爆168発分のセシウム137を大気中に放出した。
広島原爆 1発分の放射能だって猛烈に恐ろしいものだが、なんとその168倍もの放射能を大気中にばらまいたと日本政府が言っている。
その事故で炉心が熔け落ちた原子炉は 1 号機、2 号機、3 号機で、合計で 7×10 の 17 乗 ベクレル、広島原爆に換算すれば約 8000 発分のセシウム 137 が炉心に存在していた。
そのうち大気中に放出されたものが 168 発分であり、海に放出されたものも合わせても、現在までに環境に放出されたものは広島原爆 約 1000 発分程度であろう。
つまり、炉心にあった放射性物質の多くの部分が、いまだに福島第一原子力発電所の壊れた原子炉建屋などに存在している。
これ以上、炉心を熔かせば、再度放射性物質が環境に放出されしまうことになる。
それを防ごうとして、事故から7年以上経った今も、どこかにあるであろう 熔け落ちた炉心に向けてひたすら水を注入してきた。そのため、毎日数百トンの放射能汚染水が貯まり続けてきた。
東京電力は敷地内に 1000 基を超えるタンクを作って汚染水を 貯めてきたが、その総量はすでに 100 万トンを超えた。
敷地には限りがあり、タンクの増設には限度がある。
近い将来、東京電力は放射能汚染水を海に流さざるを得なくなる。
もちろん一番大切なのは、熔け落ちてしまった炉心を少しでも安全な状態に持って行くことだが、7 年以上の歳月が流れた今でも、熔け落ちた炉心がどこに、どんな状態であるかすら分からない。
なぜなら現場に行かれないからである。事故を起こした発電所が火力発電所であれば、簡単である。
当初何日間か火災が続くかもしれないが、それが収まれば 現場に行くことができる。
事故の様子を調べ、復旧し、再稼働することだって出来る。
しかし、事故を起こしたものが原子力発電所の場合、事故現場に人間が行けば、死んでしまう。
国と東京電力は代わりにロボットを行かせようとしてきたが、ロボットは被曝に弱い。なぜなら命令が書き込まれているIC チップに放射線が当たれば、命令自体が書き変わってしまうからである。
そのため、これまでに送り込まれたロボットはほぼすべてが帰還できなかった。


◇part 2

2017年1月末に、東京電力は原子炉圧力容器が乗っているコンクリート製の台座 (ペデスタル)内部に、いわゆる胃カメラのような遠隔操作カメラを挿入した。
圧力容器直下にある鋼鉄製の作業用足場には大きな穴が開き、圧力容器の底を抜いて熔け落ちて来た炉心がさらに下に落ちていることが分かった。
しかし、その調査ではもっと重要なことが判明した。
人間は8シーベルト被曝すれば、確実に死ぬ。
圧力容器直下での放射線量は一時間当たり20 Sv であったが、そこに辿り着く前に530あるいは650シーベルトという放射線が計測された。
そして、この高線量が測定された場所は、円筒形のぺデスタルの内部ではなく、ペデスタルの壁と格納容器の壁の間だったのである。
東京電力や国は、熔け落ちた炉心はペデスタルの内部に饅頭のように堆積しているというシナリオを書き、30年から40年後には、熔け落ちた炉心を回収し容器に封入する、
それを事故の収束と呼ぶとしてきた。
しかし実際には、熔けた核燃料はペデスタルの外部に流れ出、飛び散ってしまっているのである。やむなく国と東京電力は「ロードマップ」を書き換え、格納容器の横腹に穴を開けて掴み出すと言い始めた。
しかし、そんな作業をすれば、労働者の被曝量が膨大になってしまい、出来るはずがない。
私は当初から旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故の時にやったように石棺で封じる しかないと言ってきた。
そのチェルノブイリ原発の石棺は30年たってボロボロになり、 2016年11月にさらに巨大な第2石棺で覆われた。
その第2石棺の寿命は100年という。その後、どのような手段が可能かは分からない。今日生きている人間の誰一人とし てチェルノブイリ事故の収束を見ることができない。
ましてやフクシマ事故の収束など今 生きている人間のすべてが死んでも終わりはしない。
その上、仮に熔け落ちた炉心を容器 に封入することができたとしても、それによって放射能が消える訳ではなく、その後数十 万年から100万年、その容器を安全に保管し続けなければならないのである。


◇part 3

発電所周辺の環境でも、極度の悲劇がいまだに進行中である。
事故当日、原子力緊急事態宣言が発令され、初め3 km、次に10 km、そして20 km と強制避難の指示が拡大していき、人々は手荷物だけを持って家を離れた。
家畜やペットは棄てられた。
それだけではない、福島第一原子力発電所から40~50 km も離れ、事故直後は何の警告も指示も受けなかった飯舘村は、事故後一カ月以上たってから極度に汚染されているとして、避難の指示が出、全村離村となった。
人々の幸せとはいったいどのようなことを言うのだろう。
多くの人にとって、家族、仲間、隣人、恋人たちとの穏やかな日が、明日も、明後日も、その次の日も何気なく続いていくことこそ、幸せというものであろう。
それがある日突然に断ち切られた。
避難した人々は初めは体育館などの避難所、次に、2人で四畳半の仮設住宅、さらに災害復興住宅や、みなし仮設住宅へ移った。
その間に、それまでは一緒に暮らしていた家族もバラバラになった。
生活を丸ごと破壊され、絶望の底で自ら命を絶つ人も、未だに後を絶たない。
それだけではない。極度の汚染のために強制避難させられた地域の外側にも、本来であれば「放射線管理区域」にしなければいけない汚染地帯が広大に生じた。
「放射線管理区域」とは放射線を取り扱って給料を得る大人、放射線業務従事者だけが立ち入りを許される場である。
そして放射線業務従事者であっても、放射線管理区域に入ったら、水を飲むことも食べ物を食べることも禁じられる。
もちろん寝ることも禁じられるし、放射線管理 区域にはトイレすらなく、排せつもできない。
国は、今は緊急事態だとして、従来の法令を反故にし、その汚染地帯に数百万人の人を棄てた。
棄てられた人々は、赤ん坊も含めそこで水を飲み、食べ物を食べ、寝ている。
当然、被曝による危険を背負わせられる。棄てられた人は皆不安であろう。
被曝を避けようとして、仕事を捨て、家族全員で避難した人もいる。
子どもだけは被曝から守りたいと、男親は汚染地に残って仕事をし、子どもと母親だけ避難した人もいる。
でも、そうしようとすれば、生活が崩壊したり、家庭が崩壊する。
汚染地に残れば身体が傷つき、避難すれば心が潰れる。
棄てられた人々は、事故から7年以上、毎日毎日苦悩を抱えて生きてきた。
その上、国は2017年3月になって国は、一度は避難させた、あるいは自主的に避難していた人たちに対して、1年間に20ミリシーベルトを越えないような汚染地であれば帰還するように指示し、それまでは曲がりなりにも支援してきた住宅補償を打ち切った。
そうなれば、汚染地に戻らざるを得ない人も出る。
今、福島では復興が何より大切だとされている。
そこで生きるしかない状態にされれば、もちろん皆、復興を願う。
そして人は毎日、恐怖を抱えながらは生きられない。
汚染があることを忘れてしまいたいし、幸か不幸か放射能は目に見えない。
国や自治体は積極的に忘れてしまえと仕向けてくる。
逆に、汚染や不安を口にすれば、復興の邪魔だと非難されてしまう。


◇part 4

1年間に20ミリシーベルトという被曝量は、かつての私がそうであった「放射線業務従事者」に対して初めて許した被曝の限度である。
それを被曝からは何の利益も受けない人々に許すこと自体許しがたい。
その上、赤ん坊や子どもは被曝に敏感であり、彼らには 日本の原子力の暴走、フクシマ事故になんの責任もない。
そんな彼らにまで、放射線業務 従事者の基準を当てはめるなど、決してしてはならないことである。
しかし、日本の国はいま、「原子力緊急事態宣言」下にあるから、仕方がないと言う。緊急事態が丸1日、丸 1週間、1月、いや場合によっては1年続いてしまったということであれば、まだ理解できないわけではない。
しかし実際には、事故後7年半たっても「原子力緊急事態宣言」は 解除されていない。
国は積極的にフクシマ事故を忘れさせてしまおうとし、マスコミも口をつぐんでいて、「原子力緊急事態宣言」が今なお解除できず、本来の法令が反故にされ たままであることを多くの国民は忘れさせられてしまっている。
環境を汚染している放射 性物質の主犯人はセシウム137であり、その半減期は30年。100年たってもようやく10分の1にしか減らない。
実は、この日本という国は、これから100年たっても、「原子力緊急事態宣言」下にあるのである。


◇part 5

オリンピックはいつの時代も国威発揚に利用されてきた。
近年は、箱モノを作っては壊す膨大な浪費社会と、それにより莫大な利益を受ける土建屋を中心とした企業群の食い物にされてきた。
今大切なのは、「原子力緊急事態宣言」を一刻も早く解除できるよう、国の総力を挙げて働くことである。
フクシマ事故の下で苦しみ続けている人たちの救済こそ、 最優先の課題であり、少なくとも罪のない子どもたちを被曝から守らなければならない。
それにも拘わらず、この国はオリンピックが大切だという。
内部に危機を抱えれば抱えるだけ、権力者は危機から目を逸らせようとする。
そして、フクシマを忘れさせるため、マスコミは今後ますますオリンピック熱を流し、オリンピックに反対する輩は非国民だと言われる時が来るだろう。
先の戦争の時もそうであった。
マスコミは大本営発表のみを流し、 ほとんどすべての国民が戦争に協力した。
自分が優秀な日本人だと思っていればいるだけ、 戦争に反対する隣人を非国民と断罪して抹殺していった。
しかし、罪のない人を棄民したままオリンピックが大切だという国なら、私は喜んで非国民になろうと思う。
フクシマ事故は巨大な悲劇を抱えたまま今後100 年の単位で続く。
膨大な被害者を横目で見ながらこの事故の加害者である東京電力、政府関係者、学者、マスコミ関係者など、誰一人として責任を取っていないし、処罰もされていない。
それを良いことに、彼らは今は止まっている原子力発電所を再稼働させ、海外にも輸出すると言っている。
原子力緊急事態宣言下の国で開かれる東京オリンピック。
それに参加する国や人々は、もちろん一方では被曝の危険を負うが、一方では、この国の犯罪に加担する役割を果たすことになる。

(「フクシマ事故と東京オリンピック(日本語版)」は以上です)

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映画『みえない雲』(原題;DIE WOLKE、2006年ドイツ、原発事故後の住民のパニックを高校生の男女・エルマーとハンナを主人公にして描いています。必見です)の原作者のグードルン・パウゼヴァングは、福島第一原子力発電所事故を受けて、ドイツの週刊誌『デア・シュピーゲル』に、日本人が『みえない雲』に描かれたような惨事から免れることを望む、という趣旨の文章を寄せています。
その文章においてパウゼヴァングは、生き残ったヤンナ-ベルタ(映画ではハンナ)がいずれ高度障害をもつ子供を産むであろう未来を示しています。
また、原子力エネルギーを推進することを原因とするか、その結果起きることによって子供達が苦しむことを憂い、推進する人々がその結果起こりうる事に責任を負うべきことを理解しているかを問い、自身が生きている間は警告を続ける旨を語っています。
(英訳「I Hope the Japanese Will Be Spared」。2011年3月18日付)−パウゼヴァングのコメント部分はウィキペディアよりの転載です−東京オリンピックの開催など無理です。

国は、福島第一原発の事故処理に真面目に取り組むべきです。
人々が毎日安心して楽しく暮らせる平和な社会が担保されない国は国とは言えません。

**********************************************
■以下、小出裕章先生のコメントです。
「フクシマ事故と東京オリンピック」公開にあたって 
福島第一原発事故が収束できず、いまだに「原子力緊急事態宣言」も解除できないままです。
そんな中、東京オリンピックが開かれようとし、フクシマ事故に責任がある人たちは、東京オリンピックに人々の目を引き寄せることにより、フクシマ事故を忘れさせようとしています。
イタリア在住の知人(楠本淳子さん)から東京オリンピックに対する文章を書くように依頼され、書きました。
それを楠本さんが英語に翻訳もしてくれましたので、両者を公開します。
遠からず、楠本さんが世界各国のオリンピック委員会に、私のこの文章、そして楠本さんがお書きになる文章を送ってくださることになっています。

出典元





この記事に

秋の長雨に思う。。。

昨夜来から明後日まで雨が降る。最高気温が18度とされている。しかし、私はこの雨の中を郵便局・個人医院と回らねばならない。特に、個人医院は私の病の一つが「甲状腺ホルモン低下により、肥満・むくみ・倦怠感」が顕著になっている。私の異常肥満の原因もこれで解決できそうだ。足のむくみなど靴が入らないほどむくみがある。さらに、椎骨圧迫骨折・脊柱管狭窄症により歩行が困難であり(80メートルぐらいまでは歩けて、後は痛みをこらえて休み休み歩く)という状態と、前立腺炎症による排尿障害がある。それ以外にも脳梗塞・胃炎とかもあるが省略する。

甲状腺ホルモンの低下は「橋本病」と呼ばれ、難病指定病である。これは、現時点では「可能性」の範疇であるが、今後都保健局での審査で決定される。大体10月半ばには審査結果が出るという。

その「橋本病」をネットで検索すると次のような説明を見つけた。やっかいで難儀な病だ。しかし、甲状腺ガンの可能性を考えていたので、それが遠のいたのでホッとしている。

私は以前、職場の健康診断にて甲状腺種があると診断されました。
 
それまで特別意識もしなかったのですが、首の周りのしこり、
 
膨らみを意識するようになりました。
では「橋本病」という病気はどういった症状があるのでしょうか?
 
私の場合は以前の職場で配置転換があったのですが、
 
その際体重の増減が異常にありました。
ではこの橋本病がどういった事が原因で起こるのでしょうか?
 
私たちの身体に細菌やウィルスなどの外敵が侵入するとリンパ球などの
 
免疫を担当する細胞が外敵を攻撃して排除します。
橋本病、甲状腺の病気は女性がかかる事が多いと聞きます。
 
年齢も20代、30代の女性が多いとも。
 
女性の場合は人生には妊娠、出産という事も控えています。
病気になればもちろん治療の為に薬も飲まないといけませんし、
 
受診もしないといけません。
 
それと同時に上手く付き合っていかないといけないと私は思います。

この記事に

続き・・その2

この記事に

今朝の気温は17度で、寒さを感じている。こうして秋になっていく。私は、デイサービスに週2回通っているが、少し運動がきついようだ。その結果翌日には筋肉や筋が痛む。しかし、そうして運動などをしていると気分転換になる。さて、私の古くからの先輩同志である水谷さんが68年冬に闘われた佐世保エンプラ阻止闘争の総括的な文章を、「重信房子さんを支える会」が刊行している「オリーブの樹」に投稿されている。水谷さんの承諾を得てここに文字数の関係で2回に分けて転載する。
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった。だからこそ、そこをのりこえて共闘関係を形成するにはどうすればよかったのだろうか。別のところでも書いたが、われわれが抱いていた党概念のコペルニクス的転換が求められている。
 半世紀という長い歴史のスパンで総括することで、階級闘争の全体像とそこで世界革命・アジア革命・日本革命をめざしたわれわれの存在意義と大きな誤りもみえてくるのではないだろうか。
 最後になりましたが、この度、執筆の機会を与えてくれた重信房子さんと『オリーブの樹』編集部に心から感謝申し上げます。(2018年8月10日)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった

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9月になっても日中は30度を超す暑い天気が続いている。しかし、今の時間の八王子市は豪雨である。ところで、私はフェイスブックをやっているが、現在の台風・大雨・地震とうち続く連続的な災害で”自衛隊”が救助で頑張っている。その一方安倍政権の憲法改悪、とりわけ自衛隊の国軍化をがむしゃらに進めている。それについては大反対である。

この問題について室蘭工科大学の清末愛沙さんが、自分の意見をまとめている。私はこの意見に賛成だ。以下紹介する。

 胆振東部地震の現場でまさに懸命に、そして献身に被災者救援にあたる自衛官。この姿にわたしも頭が下がる。なんとか家族を救い出してほしいと強く願う人たち(その姿を目にすると、胸が張り裂けそうだ)の気持ちをかなえるために、必死に救援作業を続ける。肉体的だけでなく、こうした家族の思いを考え、それを背負って救援活動を続けるのだから、精神的にも厳しい(自衛官だけでなく、救援作業にあたる人々はそういう気持ちで救援にあたっているはずだ)。自衛隊への感謝という気持ちが自然に出てくるのはわかる。

 わたしたちは、この「感謝」という気持ちが分岐点だということを考えなければならないのではないか。自衛官に感謝をするのであれば、いや、感謝をするからこそ、同じ自衛官が殺す・殺される戦場に送られる状況、すなわち自衛官が死なない状況をつくろうと努力するのが筋なのではないか、ということ。自衛隊の憲法明記を判断する際の大きな判断点のひとつはここにあるとわたしは強く思う。「感謝するからこそ、自衛隊の憲法明記に賛成」という発想は、わたしたちが被災者救援で感謝する自衛官の生命を危険に追いやるということだ。それは感謝ではない。感謝という言葉を利用した、戦場でがんばって「死ね」ということを意味しかねない、ことを考えるべき。感謝という名をまとった残虐性だ。

 被災者支援に感謝するのであれば、災害救助隊として活躍してもらう方向にもっていくというのが筋だとわたしは強く思う。これだと「防衛」はどうするのだ、と言われるだろう。それに対して、わたしは戦場を知っている者の一人としていう。この「防衛」「自衛」という発想こそが、現実に激しい武力行使を肯定する危険な言葉なのだということを。

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