軍事評論家熊谷直の社会評論

アジアを中心にした社会・軍事の情勢やニュースの分析

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流人の島八丈の旅

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 連休明けに、八丈島に行ってきた。東京都でありながら都心から300キロも離れているだけでなく、風波のため交通機関が影響を受けやすいので問題があることを改めて認識した。昔、航空関係の仕事をしていたので、八丈行きの海空定期便が霧や強風のために欠航することは知っていた。そのため訪問計画の時期については慎重に検討したつもりであった。ところが天気快晴で安心していたところ、強風のため場合によっては羽田に引き返すという予告つきの出発になった。それでもどうにか着陸できたときには、小型機には乗りなれているつもりであったが、「やれやれ」とほっとしたのである。地元の人に聞いてみると、都心に出て買い物をし、大きな荷物を抱えてようやく空港待合室に入ると欠航になり、やむをえず荷物を引き取って宿に帰るということを何日も繰り返したことがあるという。現在でも「鳥も通わぬ八丈島」なのである。海岸は波しぶきで覆われ、釣り人の姿はなかった。
 やはり若いころ仕事で、離島2箇所8年間、沖縄本島まで入れると10年間の島暮らしを経験しているので、島の不便なところはよく分かっているつもりであるが、この旅がそのことを再認識させてくれた。不便な土地での生活で、通信や貯金送金に便利なのは郵便局であった。沖縄本島でさえ都市銀行を利用することは難しいのだから、人口千人足らずの離島で頼りになるのは郵便局だけである。この秋に郵政完全民営化が実現してからは、このような離島はどうなるのであろうか。
 それはともかくとして八丈島が、江戸時代に幕府の流人の島としての役割を果たしてきたことは歴史上の事実である。そのことを現地で口にすることはどんなものかという意識があったが、現地ではそのことを観光資源として利用していることを知り安心した。流人の始まりは関ヶ原合戦で敗れた大名の浮田秀家と10数名の家臣たちであり、その後も幕臣近藤重蔵の長男富蔵のような知識人の流人も多かったために、島の文化がかれらの手で築かれてきたという事実が人々の意識に影響しているのであろう。流人は総計1862人に達したというから、現在の八丈町民1万人弱のなかで、流人と無関係の人は多くはないのではないか。浮田秀家の子孫も多数にのぼる。そのことも人々の意識に影響しているであろう。
 資料館に昭和天皇の八丈行幸の記録が展示してあったが、すでに昭和20年台に行幸があったことを知った。当時は沖縄も小笠原もアメリカの統治下にあり、この地ではるか南の地で戦没した人々の慰霊をされたのであろう。土地の人々は戦没者に対して丁重な扱いをしており、墓石は本土の田舎のものよりも立派である。日露戦争でも数名の戦没者を出しており、福島安正大将揮毫の記念碑が建てられていた。前大戦中、この地はマリアナ方面から東京空襲に向かう米爆撃機B29のレーダーによる警戒最前線になっていた。海軍の飛行場もつくられていて陸軍と共用しており、硫黄島を占領した米軍に、航空特攻を仕掛けたときの中継飛行場にもなっている。島の人々に戦争中の記憶はほとんどなく、陸海軍が残したいくつかの防空壕だけが草に埋もれていた。写真はほとんど成功の見込みがない流人の海上脱出地と秀家の墓所。
 
 

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