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インターネットで正月らしい話題を探していたところ、雑煮が角餅か丸餅かというアンケートをとった結果が載せられていた。東京圏を中心にして東は角餅、西は丸餅が主流のようだが、他の解説では中部地域より東、つまり北アルプスで隔てられた地理的特性により、東は角餅になってしまったという。
民俗学をいくらかかじった私の見方からは、古代稲作文化の影響が残っている西日本は丸餅なのではあるまいかというのが結論である。江戸時代は歴史の目で見るとわずか300年でしかない。然しその江戸時代に関東を中心にした地域は江戸文化に染まってしまった。忙しい江戸の商家では、餅をもろ蓋に流し込んでやや硬くなったところで切り分ければ餅を丸める手間が省ける。その文化が東北に広まったのではなかろうか。東北でも山形などやや奥まった地域では、丸餅を作っているところがあるらしいことが、アンケートの結果からわかる。
柳田民俗学が全盛期であった60年ぐらい前の史料をみると、東北でも丸餅を作っているところがもっと多くみられる。丸餅はもともと米作りの神様に供えるためのもので、円満な丸形であることが望ましい。しかしアンケートによると先祖が山口出身者の家庭では、角餅にするところが増えてきているらしい。民俗学では山口は丸餅圏であり、山口人は明治維新以後東京に出る人が多かったので、何代か経つうちに代わって来たのであろう。
父方も母方も先祖代々の毛利家家中である我が家では、丸餅であり、これは搗くときに近所の農家に頼んでいっしょに搗いていたので、地域全体が丸もちであったといってよかろう。私も東京に出るまでは、餅は丸いものと思っていた。ついでに言っておくと、いなりずし用の油揚げは三角形であり、それを半分に切った中にご飯を詰めて作る。10年ほど前に駅の立ち喰いでいなりずしを頼んだところ、四角い関東風のものが出てきたので驚いたことがあるが、文化の潮流はこのようなところにも流れが影響を与えている。関東でもてはやされるオデンや蕎麦は、私の若い頃までは西に行きわたっていなかった。これは江戸下町の文化であり、江戸時代に参勤交代で生涯に江戸で何年かを過ごした私の先祖には、あまりなじみのないものであったらしい事からの推察である。明治年間に高輪の毛利公爵家に勤めていた曾祖父の関係で東京生活を何年かした祖母も、このような江戸文化に首まで浸るということはなかったようである。わずかに歌舞伎を何度か見て感動したことを話してくれるだけであった。
当時の風俗の関係で説明しておくと、この祖母は大内氏時代は侍であった家の出だが、戦国期に毛利氏に支配されるようになってからは庄屋や大名の定宿の本陣を営む町役人身分に落ちていた。しかし県会議長を務めた関係で当時県庁の主要役人であった曾祖父の息子、つまり私の祖父に娘を嫁入りさせることになった。しかしまだ昔の身分制度が生きていたので、その祖母をいったん士族の養女という形にしてから、結婚させたのである。おかげで祖母は、本陣クラスの家の風俗習慣も身に付けており、祖母からそのような家の風俗習慣を聞かされることも多かった。
雑煮ではじめた書き出しの趣旨から言うと、角餅、丸餅だけでなく、雑煮の具や餅の焼き方にも触れておくべきだろう。私の母方の家では、正月一日の雑煮は丸餅を焼かずに入れて昆布やかまぼこなど比較的あっさりした具で澄まし汁にする。2日目は焼きもちを味噌汁風の具で調理していた。父方の雑煮は二日目も澄まし汁であったと思う。数の子や重詰めをおかずにして食べる。しかし間もなく食糧難の時代になったので、風俗習慣とは無縁の食卓になった。
思えば食糧難とその後のアメリカ化が食事の風俗習慣を変えたのであり、それ以前の私の記憶に残っているようなことが、人の往来があまり激しくなかった古代から戦国にかけての食卓の風俗習慣を伝えていると言えるのではあるまいか。防衛大に入ってからは政策的に刑務所と自衛隊だけで食べさせたという人造米(アメリカの余剰小麦を輸入させられて米の形に成形したものだが、うどんを粒にしたようなまずいもの)が主食になり、ネズミが走り回る厨房で衛生観念に乏しいおじさん、おばさんたちが調理するので、サルモネラ中毒事件が起こることも珍しくなかった。あらゆる意味でいろいろな食卓経験をしたのが私たちであったと言える。
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新年明けまして おめでとう御座います。
今年も宜しくお願い致します。
餅の東西文化論に感銘受けました
転載許可よろしくです
日向路晴れ
8℃[-8]ー 2℃[0]
佳い一日をっ!
2015/1/1(木) 午後 7:11 [ sekiya ]
喜んで転載に同意します。日本はせまいですが面白いところです。> sekiyaさん
2015/1/22(木) 午前 11:54 [ kuh*c*i3*4 ]