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ようやく沖縄の日が終わり、テレビの映像から感傷が消えたのにホッとしています。沖縄は、軍事評論家としても歴史家としても、私にとって思い入れがある土地であるのは確かです。しかしむやみに気の毒、かわいそうというような感情的な評価を入れたくはない。感情を利用する政治的な判断に惑わされると歴史を見る鏡が曇ってくるからです。人間が過去の歴史の上に現在を生きていることは否定できません。しかし大切なのは現在とその先にある将来であって、過去だけにとらわれていると発展はないでしょう。
現在の翁長沖縄県知事が慰霊の日の式典で読み上げた平和宣言は政治的な主張であり、過去の大和んちゅとアメリカの責任を追求して、そこから政治的な利益を得ようとしているもので、日本人的な慰霊の心とはかけ離れたものと思われました。会場の出席者から宣言同感の声があがってはいたものの、特定の人たちの声のようで、ほとんどの一般参列者は戸惑った表情をしているのが見てとれました。
知事も政府の一行も暴力団のような黒シャツ姿であったのが異様で、政治的な集会であることが示されていました。慰霊という意味で毎年参列していた現地の自衛隊幹部たちの制服姿が見えないのも異様でした。ホッとしたのは、平和の礎石の前で沖縄式の供物と弁当を広げていた人々の姿が、沖縄式の亀の甲墓の前で先祖を追悼している本来の沖縄の人々の姿に重なっていたことです。その人たちにとっては、知事や政府関係者がどのような演説をしようと自分たちにはかかわりがないのであり、自分たちなりの行動をしていたと見てとれました。
韓国の現政権が過去の一時期(日露戦争前から終戦後の約50年の間)の日韓関係だけにとらわれ、女性大統領の女性としての個人的な感情から慰安婦問題を拡張して取り上げているのと、沖縄の平和宣言が重なって見えたのは、私の思いすごしでしょうか。沖縄も本土復帰後40年以上になったので、過去よりも未来を重視すべきでしょう。政治的に現在の米軍基地問題を取り上げるにしても、未来のために当面どうすべきか、現実的な選択は何かの視点が必要だと思われます。
現在の沖縄の若い人たちの言葉はすっかり本土化しています。アクセントだけではウチナンチュか大和んちゅか判別が難しく、ウチナー語を芸人が話しているのを聞いても、沖縄を知っているとは言っても東京生活が長い私が、これはウチナーグチとは違うなと感じるような状態になっています。
変化は避けられないのであり、変化するこれからの沖縄の若い人のための、未来を考えた沖縄県の政治を翁長知事に望みたいと思います。
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