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組み体操をするかしないかが問題になっているが、安全意識がどうなっているのかが問題だ。この体操はもともとは組み立て体操と呼ばれていたものであり、バランスが取れた心身の発達を促すものであって、見かけを大切にするマスゲームとは違う。
防大出身の私は在学中のアジア大会などで、マスゲームとしてのこの種の展示用の体操を、代々木の競技場で1000名ぐらいの集団でしたことがある。明治の初年にフランス陸軍の兵士の体操を導入した日本陸軍は、日本の体操の源になった各種の体操を、士官学校や歩兵学校などで教えていた。昔から小学校などに、鉄棒や雲梯、跳び箱のような器具が取り付けられていたのは、軍隊式が導入されたからである。球技は高等師範系で導入されたが、大正末期には陸軍士官学校でも野球やバレーが行われていた。パン喰いのような遊戯的な種目を運動会で最初に行ったのは、海軍兵学校である。
体操競技のあん馬はフランスの騎兵が馬上でした運動であり、平均台は、兵士のバランス感覚を磨く運動として陸軍で始められている。組み立て体操もその一種である。明治時代の陸軍下士官は、予備役になってから中学校の体操教師になることができた。これは学校配属将校が行う戦闘訓練とは別の教師であり、また国語や数学などの教師や小学校教諭を養成する師範学校出の教師たちとも別扱いであった。
そのような起源を持つ体操科目は戦後、軍事色が禁止され、右へならえとか、前へ進めという集団運動さえ禁止されたので、どうすれば安全かという配慮のないにわか体育教師が生まれた。戦争中に武道専門学校を出て剣道しか知らない教師も、戦地から帰ってきてそのまま新制の高校教師に配置されたので、その教師の体育の時間は、生徒たちが自主的にソフトボールをしていたのが私の体験にある。
混乱していた戦後の教育界で、新制の大学教育学部を出て教師になった人たちも、間に合わせの教師が多かったというのが私の観察である。そのために教育界はそのような日教組系の教師にひっかきまわされ、校長も彼らのご機嫌をうかがいながら学校管理をしていたので、安全は二の次であった。組み立て体操の事故もその一つであろう。防大での組み立て体操は、マスゲームの場合でも4段が限度であったと思う。体重60キロの上段の人物が崩れ落ちると、下段の人物は二階から落ちてきた二人以上の体重を支えることになる。体を鍛えているとは言っても胸部を地面に打ち付ける一段目の人物にとっては、痛いでは済まない。防大の荒々しい棒倒しのテレビ映像を見た人は多いと思うが、棒を守って三段目に上っている人物は、迫ってくる相手を蹴飛ばしたり殴ったりする。私は体格の関係で殴られながらも棒の根元を抱えて、倒れないように移動させる役を務めたことがある。斜め半分に倒れかかったとき、抱えている腕が折れたかと思う瞬間があったが、そこで勝負ありの笛が鳴ったので助かったことがある。そのような体験なしに、計算もせずに外見だけに囚われた指導をする教師がいたのではたまらない。
防火訓練で、事前の点検や担当教師との打ち合わせなしにシャッターを閉めたために、子供が挟まれて大けがをした事故があった。大地震の津波の高さを見くびって、危険な場所に移動するように机上の計画だけをしていたために、多くの子供を亡くしたのも、同じような管理ミスからであろう。強いリーダーシップがない教師を校長にしたり、教育環境が悪い職場の改善を図ることをしない教育委員会や文部科学省の官僚の存在は、防衛庁という比較的組織がしっかりしている組織で教育委員会に当たる計画管理をしたり、教育にあたったりした経験をしている私の目から見ると、いい加減と思われるところが目につく。戦前の視学という県の教育観察官のほうが、つぼを押さえていたと思われるが、どんなものだろう。
不完全な組織でいくら机上の研修をしても、教える大学の教師そのものが教育実務のベテランではない事実があるので、安全感覚のようなものは身に付かない。研修は出世のためや資格を与えるだけのものであってはならない。家庭で子供に自転車の運行を実際に道路で体験させて教えたり、幼児にストーブのそばに手を近付けて熱いこと、危険なことを体験させるような躾ができるように、親や教師の教育から始めるのが大切であろう。体操について述べたように、平時の軍隊はそのようなことを体験でき教育の方法も身につけさせてくれる場所であったが、敗戦後の占領政策のおかげで反軍思想だけがはびこったために、そのような効用面が見失われている点も問題であろう。
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