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吉浦と野間氏

  令和元年7月19日(金)
 
室町時代の頃、現在の矢野、坂、天応、吉浦から昭和地区に至る広大な領地(「安摩荘矢野浦」)を支配していたのは、野間氏でした。

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吉浦駅前の商店街(上)を山側に向かって進んで行くと、松葉町に至りますが、そこは昔、野間氏の本拠地「吉浦掘城」があったとされる所です。

戦争が激しくなった昭和19年、掘城址で横穴の防空壕を掘っていたところ、古井戸の底から大量の土器、貝塚、石ヤジリなどが出土されました。

現在、城の形跡は残っていませんが、コンクリートで固められた小さな丘があり、かつて城が築かれていたのがこの場所だと言われています。

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野間氏はこの城を本拠地として、天応、焼山、押込、苗代といった場所に城砦網を張り巡らせていました。

大永3年(1523年)、出雲の守護尼子経久が安芸に侵攻して、周防の守護大内義興が支配していた西条の鏡山城を攻略します。
この時、それまで大内氏側に立っていた野間氏をはじめ、蒲刈の多賀谷氏、能美の能美氏らが尼子氏に寝返りますが、特に野間氏はこの機会に一挙に呉地域を支配下に治めようとします。

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時の当主、野間彦四郎は、大内側に留まった呉衆を打ち破り、城山(現在の呉地方総監部)に千束要害を築いて音戸の瀬戸まで支配下に治めます。
さらに、海を挟んで、これまで波多見島の領有権を争っていた小早川氏傘下の乃美氏と対峙、呉戦国史の圧巻となる戦いを繰り広げます。

しかし、大内氏も負けてはおらず、大永5年(1525年)3月、尼子氏に対して全面攻勢を仕掛けます。
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            矢野城址の「野間神社」

先ず、陶興房率いる大内軍が矢野城を攻撃。これに呼応した瀬戸城の乃美史と波多見島などの呉衆が千束要害に攻め込ます。
激しい攻撃を受けた野間彦四郎は、蒲刈の多賀谷武重を介して陶興房に降伏。現在の呉市域から撤退していきます。

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弘治
24年(1555年)毛利元就が厳島で陶晴賢を討ち、旧大内領が毛利氏の支配下に入ると、野間氏が治めていた吉浦は、毛利元就の次男である吉川元春が統治するところとなります。
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吉浦掘城跡の高台に佇んで、瀬戸の海を眺めていると、大内氏や尼子氏、そして毛利氏らとの権力争いに左右され続けた水軍雄野間氏が偲ばれます。

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尚、西条の広島大学近くにある「鏡山城址」は現在、「鏡山公園」として整備されており、春は桜の名所として知られています。

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又、呉市の川原石にある大歳神社の一帯は「城山」と呼ばれ、野間氏の頃「有崎城」があったとされています。現在は石碑があるだけです。

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ワニのカイマン君

  令和元年7月15日(月)
 
呉市内総付町の民家で飼われている大きなワニが町の人気者になっています。去る4月下旬にもテレビの全国版で紹介されていました。
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飼っているのは解体業を営む村林順光(66)、ひとみさんご夫妻。37年前にペットショップで買った生まれたてで体長30cmほどの南米産「メガネカイマン」。名前も「カイマン」だそうです。
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当時、ご主人は喫茶店を開いていましたが、「かわいいワニの居る喫茶店」として評判になり、テレビ、新聞などでも取り上げられました。
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それが、今では体長2m超、体重50kgにまで育ち、大きな口に鋭い牙、丸く大きな目玉が威圧感を与えるようになりました。
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しかし、38年間育てられてきたことで、人間への警戒心は全くなく、これまで、人を襲ったことは一度もないそうです。
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家の中で放し飼いしているため、畳は爪や尻尾でこすりボロボロになっています。夜はご主人のフトンに入り込んできますが、低体温動物なので冷たくビックリするそうです。
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南国生まれのため、寒さに弱いところがあり、冬は飼っている水槽をヒーターで常時温めます、その電気代が月4〜5万円になるとのこと。
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最初の頃はご夫婦の子供さんのよい遊び相手でしたが、今は子供さんも家を出ているため、カイマン君がご夫婦の子供みたいなものだとか。
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食事は意外と小食で、餌を食べるのは冬場で月1、2回。夏場で週1回程度。とり肉が大好物で骨ごとバリバリ4〜5本は食べると言います。食費としては月5,000円ほどかかります。
意思表示する場合、腹がへると「ウ〜ウ〜」とうなり声をあげ。散歩に行きたい時は窓に近づいて外を眺めます。
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そんな時にはご主人と町へ散歩に出かけますが、すぐに人だかりができます。保育園に行くと、背中に園児たちを乗せ、記念撮影にも応じます。
私も大和ミュージアムの大和波止場で歩する姿を何度か見かけましたが、いつもアイドル並みに人に囲まれていました。
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飼うにあたっては保険所と相談し、呉市からもペットとしての許可を得ています。万一逃走した時に位置が特定できるように、体内にマイクロチップを埋め込んでいます。
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いまでは、テレビや新聞で紹介され、SNSに動画が投稿されるなどして、海外の人も「クレイジー」と仰天しているそうです。
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ご主人は、会社の名前も「和仁(わに)総業」とし、カイマン君は会社の営業担当常務取締役として仕事に同行し、名刺も作っています。
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仕事の打ち合わせではカイマン君の話で盛り上がり、商談がうまく纏まって仕事はうなぎ登りだそうです。

あなたも、運が良ければ、呉市内の公園辺りを散歩しているカイマン君に出会うかも知れませんヨ。
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  令和元年7月11日(木)
 
下蒲刈に「松籟亭(しょうらいてい)」という築85年の建物(国の登録有形文化財)があるというのを、最近になって知りました。
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 下蒲刈に行った際、その話を出したら、財団の人が「中を見せしましょう」と言って、案内までして下さいました。

下蒲刈島の南部、梶ヶ浜海水浴場の手前の道路脇(池ノ浦公園内)に、「春蘭荘」という宿泊施設と並んで、その建物はありました。
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 門を入って、先ず驚かされたのが、高く見上げるような石垣です。山裾で敷地を確保するために築かれたものですが。城壁を見るような見事な石組みでした。
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 建物は、普段それほどは使われていないので、外観は少し草臥れた印象でしたが、中に入るとさすがに立派な建物であることが、すぐに分かりました。
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 中心に広間、水屋、小間を配置し、園側でぐるりと回れる作り。三方開け放つことができる広間は繊細な部材が使われ、さすがといった感じでした。
 
この建物は、昭和9年に、満鉄関連の会社社長が大坂枚方に建設した「万里荘」の離れ座敷として建てられ、当時大阪師団に所属していた秩父宮雍仁(やすひと)親王の仮住まいとして使われました。
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 作者は関西を中心に多くの数寄屋建築を手掛けた平田雅哉(まさや)で、この「松籟亭」は彼の初期の作品だとのこと。
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 ヤリガンナ(上)によりナグリ仕上げされた栗材の広縁(下)や、吟味された材料による茶席に見るべきものがありました。
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大坂から下蒲刈の現在地に移築されたのは、平成4年で、松濤園や白雪楼などと同じ、当時町長だった竹内弘之氏の熱意によるものでした。
 
平田雅哉棟梁は大阪の料亭吉兆や錦戸、芦原温泉つるや旅館、城崎温泉西村屋など多くの名建築を手掛けています。
 
平田棟梁の職人魂は多くの人の共感を呼び、一冊の本になり、それを基に映画も出来ました。(昭和40年「大工太平記」主演:森繁久彌)
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「建築は風呂敷には包まれん。出来上がりが気に入らんからといって、引っ提げて持ち帰るわけにはいかん」が棟梁の口癖で、腕の良さもあくの強さも天下一品でした。
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 庭にでると、瀬戸の海と島が織りなす風光明媚な景色を望むことができ、心静かなひと時を過ごせること請け合いです。
 
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「松籟亭」の背後の裏山には茅葺き屋根の煎茶室も有ります。これは今回見学しませんでしたが、昭和11年に建てられたもので、8帖と3帖の和室があるそうです。
 
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「松籟亭」も手前にある「春蘭荘」(上)も有料ではありますが、一般に貸し出しています。1回(5時間)1,200円。詳しくは「蘭島閣文化財団」のホームページを参照下さい。
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    令和元年7月7日(日)
 
御手洗にある、江戸末期(1832年)創建の「金子邸」を先日見学してきましたのでご紹介します。下写真で見ると外観は普通の木造平屋ですが、幕末維新の舞台にもなったという名家です。
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この家は、これまで個人所有であったため、見学できませんでしたが、平成22年に呉市が寄贈を受け、4年にわたって復元改修を行いました。

改修工事は滋賀県の専門業者に依頼し、柱、梁、土壁、襖、障子など建具類は極力創建当初のものを流用するよう努めました。特に土壁を残す作業には手間がかかったそうです。

それだけに、改修には時間と経費がかかり、市の説明によれば、総額15千万円ほどの改修費用がかかったとのこと。

今では、国登録有形文化財として大切に管理しながら、土日祝日に一般公開されています。(大人200円)

金子家(屋号三笠屋)は江戸時代に町年寄・庄屋役を務めた名家で、文化人や藩の要人など賓客を接待するために建てた屋敷です。
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金子邸の主屋は数寄屋風書院造りで、座敷、茶室、水屋、などあり、屋外には露地(ろじ)、中門(ちゅうもん)などあります。

一番の見どころとなる茶室について、当時の資料には、京都で造られた茶室を一旦解体し、大阪から船で御手洗まで運んだ、とあります。

茶室改修の際、床板や天井板から墨書が見つかり、文政6年(1832年)京都の大工によって造られたことが分かりました。

同じ墨書には、遠州流の茶室とありますが、当時、広島藩で流行った上田宗箇流の特徴も多く取り入れられています。

広島市内にあった上田宗箇流の茶室の多くが、原爆などで失われた為、江戸時代のものは、この金子邸以外には残っていないと言われています。
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普通、茶室というと窓が少ないという印象がありますが、この茶室は三方に大きな窓があります。これは、武家茶道の方式だそうです。
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また、当時は武士が刀を持ったまま入れないように入口を小さく(にじり口)していますが、ここの茶室は、にじり口もある反面、渡り廊下からも立ったまま入れる造り(上)になっています。
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天井は杉板張りで、畳は4畳敷かれていますが、当時から、内一枚だけ畳表がきめの細かい井草で編まれており、改修の際30万円で新たに作ったとのこと。他の3枚は普通の畳表で一畳10万円だったそうです(呉市の説明)。
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この茶室は1時間千円でどなたでも利用することができます。炊事場や炭火などの火器も使ってよいとのことです。
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水屋は茶室同様に京都で造られており、丸炉(上)など当時のまま残っています。立蹲(たちつくばい)(下)は茶道上田宗箇流の好みです。
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 又、この金子邸は幕末における倒幕運動の舞台にもなっています。
慶応3年(1867年)11月、7隻の軍艦を率いた長州藩兵が御手洗に到着し。広島藩の軍艦と合流。金子邸の座敷で両藩の家老が会談し、上京後の役割行動を定めています。これが「御手洗条約」と呼ばれるものです。両藩の軍勢は同夜遅く京都に向けて出兵したと「芸藩志」に記されています。
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金子邸を呉市に寄贈された、金子家のご子孫の方は、今も金子邸に隣接したご自宅に住んでおられます(上)。
 
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            露地(庭)

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おじを訪ねて300里

   令和元年7月3日(水)
 
このたび、東京に住む一人のご婦人が、76年前、潜水艦に乗っていて戦死したおじさんの足跡を訪ねて呉を訪問されました。
呉は初めてである上、85歳というご高齢のため、娘さんが同行され、広島空港からシャトルバスで呉入りされました
おじさんは次男坊で、中学(今の高校)を出てすぐに、親の反対を押し切って海軍に志願し、潜水艦乗りになったそうです。
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おじさんは呉の海兵団に入団した時一度手紙(下)をよこしています。それには「近いうちに最新式の潜水艦に乗ることが決まった。非常に新しい艦のため、心配しなくても良いです・・・・」などと記されていました。
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何という艦に乗っていて、いつどういう状況で亡くなったのか。何も分からぬまま、昭和18年春に戦死の知らせが届きました。

簡単な戦死広報と小石が一箇入った白木の箱を前に、母親は1週間泣き明かしたそうです。以後、おじさんのことは何も分からぬままでした。

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私は、おじさんが過ごしたであろう、海兵団(現呉教育隊)や「アレイからすこじま」それに「大和ミュージアム」「鉄のくじら館」などをご案内しました。梅雨時の蒸し暑い日でしたが、ご婦人はたいへん熱心でした。
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私は、何とかして、おじさんが乗っていた潜水艦を特定したい、と考えた末、呉海軍墓地の慰霊碑に刻まれている名前を探すこととしました。
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海軍墓地の一番高いところに「呉鎮守府潜水艦戦没者之碑」というのがあって、潜水艦35隻で亡くなられた兵士のお名前がすべて刻まれています。総員数3000人はあるでしょう。
艦名が不明なので、端から順に名前を見て行くしかありません。根気よく名前を辿って行くと、中ほどを過ぎたあたりの「伊31号潜」のところにお目当てのおじさんの名前を見つけました。
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私はすぐに広島に宿泊されているご婦人に電話しました。ご婦人は、たいそう喜ばれて、明後日広島から東京へ帰る前に、もう一度呉に寄ると言われました。
その日、広島から電車で呉入りされたご婦人は、タクシーで海軍墓地に来られ、私の先導で「潜水艦戦没者之碑」に進まれて、おじさんの名前とご対面されました。
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ご婦人はおじさんの名前に手を当てられ、じっと目を閉じておられました。70年余年前を想い出しておられたのでしょう。
しばらく慰霊碑の前で過ごされたご婦人は、気持ちの整理がついたご様子で「是非、秋の合同追悼式に参列したい」との言葉を残されて、東京へ帰って行かれました。
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おじさんはまだ成人する前に亡くなっています。現在の平和な日本があるのは、こうした若者達の国を思う強い気持ちによってもたらせられたものであることを忘れてはならないと思いました。

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尚、「伊31号潜水艦」について次のことが分かりました。
「伊31号潜水艦」は横須賀海軍工廠にて、昭和175月竣工。同時に呉鎮守府籍となり、第六艦隊に配属される。
呉からの出港は、昭和178月と182月の2度記録があり、主に千島列島の幌筵(ほろむしろ)島や、アッツ島、キスカ島等で物資輸送に務めています。(その頃は、貨物船が米軍の攻撃を受けて沈没することが多くなり、潜水艦が貨物の輸送にあたるようになっていた)。
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昭和18511日、キスカ島からアッツ島に向かうのを最後に消息不明となる。詳細が分からぬまま、14日海軍は「亡失」と認定、除籍となる。
おじさんの戦死広報はこの時点で出されたものと思われます。

戦後判明したアメリカ側の記録によれば、「伊31潜水艦」は昭和18513日、アッツ島付近で浮上したところを米軍駆逐艦エドワーズからの砲撃により撃沈。艦長の井上規矩少佐以下95名全員が戦死。現場海域は8キロ四方にわたって重油が浮遊していたとのことです。 

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