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おかえりなさい

今日は、レイテ沖海戦二日目、戦艦「武蔵」が沈んでから70年でした。
昨日は重巡「愛宕」「摩耶」が沈没し、明日はいよいよ神風特別攻撃隊敷島隊の
突入と機動部隊最後の戦いの日です。

ところで、私は今日はこちらへ行っておりました。
今日は報道陣が多かったので、ニュースで知っている方も多いと思います。




(画像は記事より引用)
イメージ 1

詳しくは後日に紹介しますね。
あと、こちらのエントリーもどうぞ。
(↓先程写真追加しました。(^_^;))


今日はこれにて。

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8月15日・靖国神社



イメージ 1

こんばんは。
今日は8月15日。
大東亜戦争の終戦の日です。
69年前のこの日、昭和天皇の玉音による終戦の詔勅が放送されました。
これはいわゆる「玉音放送」であり、これによって日本は「国としての戦闘行為」
を終結させました。
ただ、多くの方が勘違いをされているのですが、「ポツダム宣言の受諾」は
即停戦を指しているわけではありません。
8月15日に続いて、「自衛のためを除く戦闘」の停止(同16日)、
陸海軍部隊への停戦命令(同月22日)、そして9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書調印という流れがあるため、
よくこの日で終戦というメディアでの描写に少し違和感があります。
確かに銃後の描写であれば、一つの区切りと考えられなくもないですが、
実際、この時は北方領土や千島方面、満州方面(ソ連との国境沿い)では侵攻してきたソ連軍と戦闘していました。
また、終戦「記念日」という言い方も引っかかります。
12月8日を「開戦(記念)の日」というならまだしも、負けたのに「記念日」とするのはいかがなものか、と思います。
ですから、「終戦の日」とするのが良いと思います。
その方がしっくりきます。

色々グチりましたが、本題へ参ります。(^_^;)
冒頭画像でもおわかりだと思いますが、今日は靖国神社へ参拝してまいりました。
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九段下の先からずっと続く列。
朝9時代でしたが、すでにかなりの人が来ていました。
坂の途中に色々な団体がおり、配布物(ビラ)を何枚かもらいました。
さらに、「河野談話撤廃」や「憲法改正」等の署名コーナーがあり、
幾つか署名しました。
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大鳥居のところまで来ました。
ここは撮影ポイントですので、多くの方がカメラに収めていました。

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終戦の日ですので、特設テントが張られています。
遺族の方や元将兵の方々の姿が見えます。

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ステージもあるので、ただの休憩所ではありませんでした。(^◇^;)

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大きな国旗が2つあります。

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本殿へ参拝を待つ列に並ぼうとしていたところ、
人だかりができていたので、
陸軍軍人のコスプレかな?と思いきや、なんと本物の帝国陸軍軍人でした。
この方が手にしているのは小野田寛郎少尉の写真です。
多くの方が話に聴き入っていました。

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在りし日の小野田少尉。
小野田さんは今年の1月に逝去されました。
その生き様はまさに日本人のかがみでした。
戦後の日本を憂えていた一人のサムライをまた一人失いました。
叶うことなら、生前にお会いしたかったです。

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自己紹介として経歴が書かれたカードを持っております。
この方は陸軍中野学校出身で、年齢は小野田少尉の2歳年下の89歳です。
ですから来年は来れるかわからない、今年で最後になるかもしれないと仰っていました。

私は途中から聴きはじめたのですが、
戦時中のことから戦後のことについて話している途中でした。
この方も戦後の日本について憂いていました。
なんでも年間3万人の自殺、親の虐待、DV、などは異常だと。
若者が歩きスマホをしているようじゃダメだ、
日本人(日本男児)の精神性や道徳心の荒廃は
日本をダメにすると嘆いておられました。
また、シナ人の卑怯性についても述べてくださり、
いわゆる南京大虐殺はシナ人が起こしたとも証言されていました。

少し付け加えると、現代の男だけでなく女もダメだと思います。
女ももっとしっかりしなければ男がダメになると思います。
もはや戦前の方々のような道徳心・精神性に完全に戻すことは
できないと思いますが、
せめて少しでも近づけるようにしていかなければなりません。
これは私自身も強く受け止めました。

話が終わると敬礼をし、聴衆は拍手。

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続いて「海行かば」と軍人勅諭を暗唱してくださりました。
見ていて思ったのですが、この方の背筋・声といい・とても堂々とされているのが
印象的でした。
さすがは帝国軍人でございます。
話を聞いている方も比較的若い方が多かったです。(^^)
この話を聞いたあと、私はあることを思い出していました。
それは、ある元将兵の方が仰られていた
若者よ、君たちが生きる「今日」という日は
死んだ戦友たちが生きたかった「未来」だ。」という言葉でした。

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20分ほど参拝の列に並んだでしょうか。
ふと空を見ると
清々しいほど青い空でした。
69年前も暑い日だったといわれていますし、
この時もとても暑かったです。
あの日の空からはどんな景色が見えていたのだろう。と思いました。

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国旗掲揚も半旗となっています。
だから「記念日」は不適切だと思います。(しつこい)

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参拝を終えて、遊就館の方へ向かいます。
台湾の方々も参拝されていました。
日章旗の掲揚と天皇陛下万歳三唱をしてくださいました。
さすがは世界最大の親日国、そしてかつて日本であった台湾の方々です。
今も日本を大切に思ってくれています。

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                                            「特攻勇士の像」

特攻勇士の像を見て思い出したのですが、
この69年前の8月15日の玉音放送の後、「私兵特攻」として沖縄へ出撃した
「最後の特攻」がありました。
「最初の特別攻撃」があってから今年の10月で70年ですが、
この最後の特攻については来年の8月15日で70年です。

終戦のご聖断ののちもこのような出来事があったことを
忘れてはいけないと思います。

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遊就館へ、やって来ました。
やはり零戦の周りにはカメラマンが多くいます。
小さい子供もいました。
何度か来ていましたが、上からしっかり見たのは初めてです。

そして、その時は館内で迎えました。
館内では正午前にちょうど同じ時間に武道館で開催されている
全国戦没者追悼式の放送を行っていて、
正午に黙祷するように呼びかけていました。

時報が入り、……黙祷。
ざわざわしていた館内もすっと静かになりました。
おそらく境内ではセミ時雨がこだましていたのではないかと思います。
私も黙祷を捧げました。

さて、館内見学を終えると、いい感じにお昼の時間でした。
茶寮「結」でお昼をいただきます。
もちろん名物の「海軍カレー」です。(^_^)
とても混んでいたので、相席でした。(笑)

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                待っている間に見ていた航空母艦「赤城」の模型。
イメージ 18
                          これも誰かが寄贈したのでしょうか。

イメージ 17
待つこと数十分。
「海軍カレー」をいただきます。
相席のおばさん(遺族の方)は、かき氷を食べていました。(*^_^*)
朝早く起きたのと、人混みが苦手でクタクタだったので、
いつもよりいっそう美味しく感じました。

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食べ終わってお土産を買い、零戦に挨拶をして外に出ました。
パール判事の石碑のところに気になるものあり。

イメージ 20

こんな方々も。
いつの間にか停まっていた車がいなくなっていました。
本人は見かけませんでしたが、後援会の方々が来ていたようです。

イメージ 21

境内を歩いていると、標本木を見つけました。
すぐ近くにあるテントで、麦茶を配布していたので、
一つもらって飲んで、そのあと帰りました。

今年、初めて8月15日に参拝しましたが、例年より多く来ていたように感じました。
相変わらず上空にはマスゴミのヘリ、境内には報道のカメラが来ていましたが、
参拝している人達はそれも気にならずに、
静かに参拝し、戦没者の追悼をされていたと思います。

今の日本人は先人の尊い犠牲の上に生かされているのだから、
これからもそのことを忘れずに、しっかり生きなければいけないと思います。

毎年「8月15日は何の日?」という若い世代(20代・30代)を対象にした
アンケートが行われていますが、
今年は「永遠の0」や「艦これ」の効果もあり、
「知っている」が大幅に増加したそうです。
きっかけは何であれ、歴史に(できれば真実を知ろうと)興味を持つことは
とても大切なことであると思います。
本来は公教育で教えるべきなのですが、
残念ながら現状では自分で気づかなければ、
知ることは容易ではないと思います。

靖国神社に来た時、
時は変わり当時を知る人は少なくなっているけれど、
せめて今日だけは、私達のことを覚えていてくださいと
英霊の方々に言われたような気がしました。

最後に改めて、日本を護り残して下さった先人の方々ヘ感謝いたします。
















海の日

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海は広いな〜♪大きいな〜♪
月が昇るーし、日がしーずーむー♪
(唱歌「うみ」)
 
動画はこちら→童謡 うみ
 
こんばんは。
いきなり歌うなよ、と思われた方すみません。(笑)
今日は7月21日、「海の日」です。
「海の日」は平成7(1995)年に祝日として制定されました。
当初は7月20日でしたが、その後平成15(2003)年のハッピーマンデー制度により、7月の第3月曜日に変わりました。
 
戦前「海の記念日」昭和16(1941)年から昭和20(1945)年
5年間、制定当時(1941年)の逓信大臣であり、海事実業家でもあった村田省蔵の提唱によって制定されていたのですが、
それをもとに「海の日」として復活させたのです。
ちなみにこの逓信大臣村田省蔵は議員になる前は大阪商船(商船三井の前身)の
社長でした。
昭和12(1937)年に支那事変が勃発した際に海運の戦時体制確立を主張し、
海運自治連盟を結成して、自ら理事長に就任し、
「海の日」の制定を提案したのです。
 
なぜ7月20日に制定されたのかというと、1876(明治9)年に明治天皇が
6月2日から東北地方(北海道・函館、東北地方)をご巡幸あらせられ、
その際に東北地方(福島〜仙台〜岩手〜青森)を北上し、津軽海峡を渡って、
函館を経て乗船し、横浜港へ帰着したのが7月20日であったことに
由来しています。
 
帝国海軍にはお召艦という、観艦式の際に天皇陛下がご座乗なされる艦
がありましたが、この時函館から御乗船されたお召船は汽船「明治丸」でした。
明治丸はある快挙を成し遂げました。

 
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、
日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達したことにより
小笠原諸島領有の基礎を固める役割を果たしました。
明治丸の活躍により、小笠原諸島はわが国の領土となりました。
この領有はその後の沖ノ鳥島、南鳥島の領有を含め現在の我が国の排他的経済水域の3分の1に当たる約150万k㎡を確保する基となり、海洋立国日本の礎ともなりました。
 
(東京海洋大HPより引用http://www.kaiyodai.ac.jp/academics/72/77.html

台風で打ち上げられた明治丸(wikiより)
 
 
ところで、ここでちょっとケチをつけますが、
みなさんは、「ハッピーマンデー」についてどう思います?
確かに平日が休みになるより、土・日・月と三連休になるので
まとまって休めるのは良い、という意見があります。
しかし、それではなぜこの日が祝日であるのかということが分かりにくく、
ただの休日ということになってしまいます。
それぞれの祝日には制定された由来があり、我が国の歴史や文化、慣習とも
深い結びつきを持っています。
私はそれを義務教育や家庭で教えるべきだと思います。
特にこの「海の日」は我が国の地理的特性もあり、その意義は
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願い、
海の環境や資源について考えたり、海に親しむ契機にする」

となっていることもあるため、
国民が我が国と「海」のつながりについて学習するために
その由来を知っておくべき日であると思います。




(追記)参考までに、こちらをどうぞ。

【主張】
海の日 明治丸の活躍を範として

2014.7.21 03:20 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140721/trd14072103200003-n1.htm







( 冒頭画像は横須賀の観音崎です。)
 
 
 
 
 
 
イメージ 1

こんばんは。
日付が変わる前に何とかアップできました。

(写真を追加したので今日7月12日の昼にもう一度アップし直しました。)

ところで、YS-11という航空機をご存知でしょうか。
52年前(1962年/昭和37年)の今日、7月11日にこのYS-11は誕生しました。
このYS-11は戦後初めて開発された純国産の航空機として知られています。
私はYS-11について、「プロジェクトX」で紹介されたものを見て知りました。
今回のエントリーの題はそこから取っています。

イメージ 5
                                               (YS-11)

戦後GHQにより航空禁止令が布告され、国内にあるすべての飛行機を破壊され、
飛行機を開発した企業は解体、航空会社は解散、また大学の授業からは航空力学の
授業が廃止されました。
日本は飛行機の研究・製造・運用を禁じられてしまいます。
その後、日本は朝鮮戦争やサンフランシスコ講話条約を経て、
再軍備を迫られることになるのですが、
ようやく日本企業による航空機の運航や製造の禁止が一部解除されたのは、
(1952)年の7月でした。
この時、航空法航空機製造事業法が施行されました。
この頃通産省によって輸送用貨物飛行機の開発計画の構想が練られます。

しかしこの時はまだ日本の技術力を恐れていたアメリカは再び日本が
軍事的脅威となることを懸念し、なかなか許可を出そうとしません。
日本は通産省を中心として、連合国側と交渉を重ねます。

そして終戦から10年ほどが経った昭和31(1956)年、
ようやく航空機の国内線の運行や国内開発の
許可が連合国側から下りました。
開発のための予算が十分でない等の苦難のなか、
技術者達は「国産の飛行機を作る」という強い意志を抱き、
必死に研究を続けました。
ついに昭和37(1962)年の7月11日、
戦後初の国産機、のちの「YS-11」の
プロトタイプとなる試作機を完成させます。


YS-11の設計にはかつて日本が誇る名機零式艦上戦闘機(通称:「零戦」)や、
局地戦闘機「雷電」、零戦の後継機「烈風」を設計したことで知られる
新三菱重工業(現:三菱重工業)の堀越二郎
中島飛行機帝国陸軍の一式戦闘機(通称:「隼」)を設計した富士重工業の太田稔
また川西航空機(現:新明和工業)で二式飛行艇(通称:二式大艇)や
紫電改(局地戦闘機紫電二一型)を設計した菊原静男
川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった、戦前の航空産業を支えた技術者達が参加しました。
この四人ともう一人を合わせた五人は「五人のサムライ」と呼ばれていました。

イメージ 4
                             (靖国神社遊就館にある零戦五二型)

また、このYS-11の実機製作は東條輝雄氏に託されました。
彼の父は陸軍大臣や首相を歴任した東條英機で、
彼自身は父のすすめもあり軍人ではなく技術者となり、
かつては堀越二郎に師事し「零戦」の設計にも携わっていました。

冒頭画像は入間基地 所属のYS-11FCです。(昨年11月3日入間航空祭にて撮影)
Yは輸送機、Sは設計を意味します。
11の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、
後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号を意味します。
ちなみに空自で運用しているYS-11には任務に合わせて
幾つかのタイプがありますが、
このFCはFlight Checkers、すなわち「飛行点検隊」の意味です。

YS-11は、はじめ民間機として利用されていましたが、
のちに自衛隊や海上保安庁にも導入されました。

イメージ 3

                                          (海自のYS-11M) 

先日、尖閣沖でシナ軍機が異常接近したのも空自のYS-11
(電子測定機タイプのYS-11EB)でした。

YS-11は1973(昭和48)年に生産終了となり、
長く運行していた機体も2006(平成18)年までにほぼ退役しました。
現在、現役で運用しているのは海自、空自のみとなっています。
退役した機の幾つかは各地で展示されており、
いまもなお多くの人に愛されています。

その後日本単独で作られた航空機(民間機含む)は採用されていないそうです。
これは今でもアメリカの圧力があるためだといいます。


ところで少し前のニュースですが、このような記事を見つけました。

イメージ 2
                                               (心神の試作機)

YS-11は「零戦」の技術をベースにして開発されました。

そして、現在自衛隊初の「純国産戦闘機」として開発されている「心神」。
今まで何度か国産戦闘機の構想はありましたが、実現まで至りませんでした。
今度は国内外からの圧力を跳ね返して無事に空を飛ぶことができるのでしょうか。
「零」の遺伝子を受け継いだ世界最高の技術を持った国産機が再び、
日本の空を飛ぶ日がいつか来ると私は信じています。




















参考文献:
「日本の名機を作ったサムライたち  : 零戦、紫電改からホンダジェットまで」
前間孝則 、さくら舎

    「端午の節句」

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                 (鯉のぼり)
     
    今日は「端午の節句」。
    5月5日は今では「こどもの日」として国民の祝日であることが知られていますが、
    実は「こどもの日」というのは戦後設定されました。
    「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日」
    として小さい子でも読めるように「こども」と表記したといわれています。
    ただ、5月5日がただの連休で「こどもの日」で祝日となっているのではなく、本来はどんな日であるかをよく知っている人は少なくないのでは?
    と思います。
    そこで今日は「端午の節句」について話をします。
     
     
    「端午の節句」はもとは古代シナの屈原の命日である5月5日に彼の供養のために祭が行なわれるようになったのが始まりです。
    屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国への強い思いで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
    彼は詩人でもありましたが、「離騒(りそう)」という長編叙事詩にはその時の思い
    がつづられており、不朽の名作となりました。
    国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいます。その日が5月5日でした。
    国民は屈原の死を悲しみ、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いをしていましたが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に魚(龍)に食べられてしまいます。そこで、龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)(笹などの説もあり)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(・黄・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。
     
    これが粽(ちまき)の始まりとなって、古代シナでは毎年5月5日に粽を作って災いを除ける祭が国内で広がり、端午の節句となって粽とともに奈良時代の頃に日本に伝わりました。
    また、粽に結んだの五色の糸は、子供が無事に育つようにとの魔よけの意味を込め、鯉のぼりの吹流しの色に反映されています。
     
     
    「端午の節句」で連想する食べ物は東西の地域によって異なると思いますが、
    おそらく「柏餅」、「粽(ちまき)」のどちらかであると思います。
    一般に関東圏では「柏餅」・関西圏では「粽」が食べられているようです。
     
    「粽」は上述したように、シナ由来ですが
    「柏餅」は日本で誕生しました。
    柏餅を包む柏は昔から神聖な木とされていたことや、新芽が出ないと古い葉が落ちないため「子供が生まれるまでは親は死なない」、すなわち「跡継ぎが途絶えない」「子孫繁栄」に結びつき、端午の節句の縁起のいい食べ物となりました。

    また、柏の葉を外表に巻いているものと、中表(裏を外向け)に巻いているものがありますが、これは小豆あんのときは外表に、味噌あんなら中表に巻くなど、中身の違いを表しているそうです。
    柏が手に入りにくい西の地方では、丸い形をしたサルトリイバラの葉が使われることが多いようです。

    クリックすると新しいウィンドウで開きます
     
               (柏餅)
     
     
    クリックすると新しいウィンドウで開きます
     
              (粽)
     
    「端午」は「月の端〔はじめ〕の午〔うま〕の日」という意味で、はじめは5月に限らず
    行われていた行事ですが、午〔ご〕と五〔ご〕の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、5月5日のことになったとも伝えられます。
     
    日本では、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事が行われていました。
    「端午の節句」はまたの名を「菖蒲〔しょうぶ〕の節句」ともいい、
    古代では強い香気で邪気を避け魔物を祓う薬草とされていた「菖蒲」を、よもぎと共に軒にさし、また「菖蒲」を入れた湯(菖蒲湯)に入浴することで無病息災を願いました。
    http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/92/0000725492/47/img3a414265zik1zj.jpeg
     
           (菖蒲(アヤメ)の花)
     
    しかし、時代が武士の時代へと変わるにつれて徐々にこの風習は廃れていきますが、代わりに「菖蒲」を「尚武(武士を尊ぶ)」にかけて「尚武の節句」として
    祝うようになっていきます。
    この流れを受け、江戸時代には徳川幕府の重要な式日が5月5日と定められ、大名や旗本が式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、玄関前に馬印〔うましるし〕や幟〔のぼり〕を立てて祝いました。
     
    こうして3月3日が「桃の節句」として女の子の誕生や成長を祝福する日であるのに対して、5月5日は「端午の節句」として男の子の誕生や成長を祝福する日となりました。
     
     
    鯉のぼりを飾る風習も江戸時代の頃がはじまりだとされています。
    鯉のぼりは、登竜という激流(登竜門)を鯉が登ったという中国の古事に由来し、
    鯉に出世と健やかな成長を願う親の気持ちが託されています。
     
    江戸以降は男子の節句とされ、身を守る「鎧」や「兜」を飾り、「こいのぼり(※)」を立てて男子の成長や立身出世を願ってお祝いをします。また、初節句(男の子が生まれて初めての節句)にはちまきを、2年目からは新しい芽がでるまで古い葉を落とさない事から「家督が途絶えない」縁起物として「柏餅」を食べます。
    地方によっては、子供の行事としてだけでなく、田の神を迎えるための禊の名残として菖蒲湯に入る習慣も残っているようです。
     
     
    唱歌「こいのぼり」 

    「屋根よーり高い鯉のぼり〜」と思わずくちずさんでしまいますね。

     こちらの「こいのぼり」もどうぞ。

    こちらは私も初めて聴きました。
     
     
     
     
    参考:・暮らしの歳時記/春の行事・楽しみ方(3〜5月)
    「なぜ端午の節句に柏餅やちまきを食べるの?」
     
     
     
     
     
    次回は再びカレーグランプリシリーズの続きからです。
     

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