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今日は金曜日で、金曜ロードショーで「風立ちぬ」が
ついさっきまでやっていました。
なので、こじつけですが今日は「風立ちぬ」の小ネタをお送りします。
(興味ない人はスミマセン(^_^;))
ジブリはあまり好きではないのですが(宮崎某がアレだし)、
実はジブリは中の人のこだわり(好み?)なのか、
時々こういう好きな人にはたまらない?シーンがあります。
先週のポニョにもチヌークとイージス艦が少し映っていたようです。(私は未確認)
こちらは空母「鳳翔」。奥の駆逐艦は「睦月型」だといわれていますが…
着艦に失敗した時にトンボ釣りをするために横を並走しています。
鳳翔はこの有名な「大和」建造中の写真で少し映っています。(写真の右端に甲板が見える)
戦艦「長門」は横須賀が母港だった艦で、横須賀のヴェルニー公園に「長門」の碑があります。
戦後「鳳翔」は復員任務に従事し、「長門」は米軍の水爆実験へ使用されました。
通過していくときの敬礼で涙腺崩壊しました。(T_T)
正直、「風立ちぬ」はストーリーよりも小ネタが楽しめた作品でした。(^^)
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海軍
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コメント(4)
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こんばんは。
今日は12月8日、真珠湾攻撃の日です。
73年前の昭和16(1941)年の12月8日未明(現地時間12月7日)、
帝国海軍はハワイ・真珠湾にある米軍基地を奇襲しました。
ここに米英蘭をはじめとする連合国を対手(あいて)とする戦いがはじまりました。(実際にはすでに水面下で米国の参戦はあった)
この対米英蘭戦争とこの時続行中であった支那事変を含めたものを
「大東亜戦争」と呼称することが、この4日後の12月12日に当時の東条内閣で閣議決定されました。
今日は真珠湾攻撃の日ということで、8月に見学した海自の第2術科学校にある
海軍機関術資料室に展示されている、このハワイ作戦を指揮した聯合艦隊司令長官海軍大将(死後元帥)・山本五十六関連の資料を紹介します。
冒頭画像は、山本五十六長官(こちらの方が個人的になじみがあるのでこう呼ばせていただきます。(^_^;))の肖像と親交のあった機関学校11期(同郷またはコレス(海軍の他学校での同期)?)であった河邉恒次氏との書簡です。
肖像画は入ってすぐの入り口の真上にあり、室内を俯瞰しているような位置にあります。
お次は「常在戦場」の揮毫(きごう)です。
「常に戦場に在り」という意味で山本長官はこの言葉を大変好まれ、訓育や講話で
話しただけでなく、こんにち遺されているいくつかの書の中でも多く揮毫されています。
この言葉は山本長官の郷里、新潟県長岡市の旧長岡藩主の牧野家の家訓にあった
言葉でした。
正確な揮毫時期は不明ですが、薄く残る落款(本人のサインのようなもの、これを署名して作品の完成となる)に大将の字があるので、おそらく大将進級後の昭和15(1940)年11月15日以降(wikiで確認)
に書かれたものでしょう。
この書は機関学校22期、終戦時は久里浜にあった海軍工作学校長であった美原泰三少将が戦後に寄贈したようです。
彼も山本と親交があったのでしょうか。
「海軍工作学校の碑」
こちらは紀元2601(1941)年12月7日、つまり開戦の前日に聯合艦隊司令部から
ハワイを目指す聯合艦隊の機動部隊へと送られた激励の電報、
「皇国ノ興廃繋(かか)リテ此ノ征戦(せいせん)二在リ、
粉骨砕身各員其ノ任ヲ完ウ(まっとう)セヨ 」の書。
この激励文は直ちに全機動部隊隊員に通達され、
各艦のマストにはZ旗が掲げられたそうです。
書の日付は12月8日となっているので、
その次の日に開戦を記念して揮毫したのでしょうか。
書は戦後海軍機関学校55期の小島秀夫氏が寄贈したようです。
ところで、このフレーズどこかで耳にしたことがありませんか?
そう、あの日露戦争の日本海海戦において連合艦隊が掲げたZ旗の「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」をほうふつとさせます。
もしかして、あれを超えるフレーズが思いつかなくてオマージュとしてこのフレーズから少し拝借したのでしょうか。
それとも、作戦成功を願い日本海海戦時にあやかって使ったとか?
いずれにせよほんとうのところは不明です。
こちらは恩賜の短刀です。
昭和18(1943)年4月18日、山本五十六は前線への視察に向かう途中で搭乗していた乗機一式陸攻が米軍戦闘機P−38に撃墜され、戦死します。
もともとこの刀は、山本が聯合艦隊司令長官としていよいよ戦地へと赴くことになったとき、陛下(昭和天皇)から餞別としてご下賜金を受けたのですが、
そのまま私用で使うわけにはいかないとして、山本は郷里の刀匠である酒井繁正・
遠藤光起の両工に命じて短刀を何本か打たせて、それを聯合艦隊司令部の幕僚達に
贈りました。
この刀は山本の腹心の部下であった、久保田少将に贈られたもので、
山本の国葬時に魔除けとして棺のそばに置かれました。
ちなみに、山本の死後聯合艦隊司令長官に就いた古賀峯一大将もまた、
ご下賜金をもとに、短刀を幕僚達へ贈ったのだそうです。
短刀の表面と裏面に彫ってある文字についての解説です。
刀身には裏に「繋在此征戦」とあり、
柄の表面には「皇国興廃 紀元二千六百一年十二月八日 山本五十六」
裏面には「越後国光起謹作 同国昭忠謹彫」と刻まれています。
左は上が国葬時の写真と刀の説明、
右はこの刀が作られた背景などの解説です。
最後に山本五十六の名言として有名な「男の修行」を。
室内の他の場所に展示されていました。
「男の修行」
苦しいこともあるだろう、
云いたいこともあるだろう、
不満なこともあるだろう、
腹の立つこともあるだろう、
泣き度い(なきたい)こともあるだろう、
これらをじっとこらえていくのが男の修行である。
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こんばんは。
引き続き第2術科学校のオープンスクールのレポートをお送りしていきます。
さて、前回ちらっと出てきた「歴史保存エリア」に到着しました。
ここはスタンプポイントの一つなのですが、先にスタンプを押してから、
コーナーにいる隊員さんの勧めで、歴史保存エリアを見学します。
この時はまだ他に来ている人がいなかったので、近くにいた隊員さんがガイドしてくださりました。(^^)
ここで、このエリアの地図をもう一度再掲します。
このエリアは校内敷地の隅っこにあり、
ちょっと気づきにくいところにあるのですが、
絵でも分かるように桜が植えてあるので、桜の季節は校内でちょっとしたお花見ができるのではないでしょうか。(*^_^*)
第2術科学校は海軍水雷学校・海軍機関学校の系譜を引いているので、通信・機関・水雷にまつわるモニュメントが多く設置されています。
では早速紹介していきたいと思います。
まずはエリアに入って左手奥に見える石碑です。
おや?この碑はさっきの…
そう、入門前に見えた「海軍通信教育発祥記念碑」でした。
表側が外を向いていて、校内側は裏側だったのでした。 碑に刻んである沿革をアップにしてみました。
戦後海軍時代に通信教育を受けた元生徒達が有志で碑を建立したようです。
山口の防府や神奈川の藤沢にも姉妹校があったのですね。
明治36(1903)年にこの地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術の教育を
開始してから、終戦間際の昭和20(1945)年7月に各学校における通信教育が中止されるまでが刻まれています。
↑解説プレート
通信学校時代の写真がこちらにありました。
陸自久里浜駐屯地(HP)
資料館もあるし、行ってみたいと思っていたら、
今度の土曜(明日)に記念行事で一般開放
されるではありませんか!
なんというタイミング。(笑)
ですが、私はこの日は予定があって行けません…(T−T)
なのでまた別の機会に行きたいと思います。(トホホ)
さらに小さな階段をのぼり、奥に進みます。
まずは手前にある、「海軍水雷学校跡」のモニュメントから。 よく見ると文字の上には水雷学校にちなみ、
左の細長いの方が魚雷、右の丸いものは機雷が象られています。
水雷学校も終戦まで教育が行われていました。
戦後はこの地が民間に利用されていたため、一時は別の場所にありましたが、
つい最近(2009年)にこの場所に落ち着きました。
だから石碑の文字が他のものより比較的きれいな状態のままだったのですね。(^_^;)
裏側には沿革が刻まれています。
あちらに見えている白靴の士官は先程ガイドしてくださった隊員さんです。(笑)
「上崎(こうざき)辰次郎上等兵曹乃碑」
石碑の横にある砲弾は魚雷の先端部分なのだそうです。(ガイドの隊員さん曰く)
上崎上等兵曹は会津の出身。
14歳で海軍に入隊し、西南戦争にも参加しています。
彼は水雷術練習所時代の3期生で水雷術を専攻します。
時は日清戦争。
明治28(1895)年2月、帝国海軍は清国の北洋艦隊を攻撃するため、
威海衛を水雷艇隊による夜襲をすることを決めます。
この時上崎上等兵曹の乗る第6号水雷艇も攻撃に参加していました。
艇長はあの、鬼の貫太郎と呼ばれた後の内閣総理大臣として日本の終戦を迎える
鈴木貫太郎(当時海軍大尉)でした。
水雷艇ははげしい敵弾を浴びながらも敵艦「鎮遠」に肉迫します。
まさに雷撃して敵艦を撃破しようとするその瞬間、
不幸にも敵艦の目前で発射管が寒さのため凍りつき、
魚雷を発射することができませんでした。
このことに責任を感じた上崎上等兵曹は、
一度は艇長の鈴木貫太郎に止められるものの、
敵の降伏後の3月14日に艇内で自決してしまいます。
遺書には切腹理由として、魚雷を発射できなかった責を戦功をもって償うことができず艇長に申し訳ない旨が記されていました。
その忠誠心を永久に語り継ぎ顕彰するために、鈴木艇長をはじめとする艇員達は
有志で碑を建てました。
この碑ははじめ明治29年に市内にある竜本寺に建てられましたが、
その後昭和3年国道沿いの現在の横須賀基督教社会館近くの
田浦派出所横に移転し、そして昭和43年に術科学校内へと移転しました。
そして、海軍から海自へと時代は移っていきます。
こちらは「海上自衛隊発祥乃地」と記されている碑です。(一応)
発祥乃碑とこの地がなぜ海自発足の地となったのかが解説されています。
戦後は民間企業が使用していた時期もあったのですね。(^_^;)
ここにもGHQの影響が。
そして、ガイドしていただいた隊員さんに礼を言い、
少し離れたところにあるコーナーへ向かいます。
伝統と飛躍 「タイムカプセル」
40周年の時に埋められたようです。
1993年の4月1日に設置、開封は2018年の4月1日なのだそうです。
何を埋めたのでしょうか、気になります。(*^_^*)
フネの機関。
解説。
この機関は「えいせん4号」として昭和27年から32年まで運用されていた、
なんと旧軍時代の雑役船の主機関で、除籍したのち教材として約十年間術科学校の学生たちが整備実習で使用したそうです。
この蒸気往復機関はとても貴重なものであり、その現役時をしのぶよすがとして
記念し、ここに移設したようです。
「記念機関」と書かれた石。
さらに、テニスコート沿いにそのまま進むと、
「国旗掲揚旗竿基部」がありました。
旗竿の前にある部分には小さな穴があります。
右側のパネルを拡大。
今はこの場所は使われていないのですが、草創期はここで国旗掲揚がされていたのですね。
以上、今と昔を繋ぐ「歴史保存エリア」でした。
さて、次はいよいよ校内見学へまいります。
オープンスクール編、まだまだ続きます。
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護衛艦「わかば」(wikiより)
こんばんは。
早いもので7月も今週で終わりです。(^^)
予告していた護衛艦「やまゆき」見学記が控えていますが、
それは次回にアップする予定です。
毎年この時期は8月15日が近付くにつれて、
戦史で重要な日が続くので、ツイッター等を見ると、
「あぁ、今日は○○があった日か」などと思いつつ、この国の将来に
ついて思うことが多くなります。
特に、先の戦争に関するものであればなおさら、
ひとときも思いをはせない日はありません。
本日は7月24日に続いて3度目の呉軍港空襲の日です。
押し寄せる多数の敵軍機に対して呉軍港とその周辺に停泊していた、
艦艇達は石油がなく動くことができないものの、奮戦します。
そしてほとんどの艦が大破着底し、力尽きました。
この日の空襲終了間際の「伊勢」の主砲射撃が帝国海軍の戦艦として
最後の砲撃だったと云われています。
この砲撃は散っていった英霊、敗れゆく日本への弔砲、
あるいは、敵に対してかつて世界三大海軍の一つであった
大日本帝国海軍の「矜持」を見せたのでしょうか。
私にはそう思えてなりません。
大破着底した「伊勢」(wikiより)
「伊勢」は総員退艦が下命され、軍艦旗を下ろそうとしても、
ポールに引っかかってなかなか下ろせなかったそうです。
また、2番砲塔の砲身は動力を失い停止したのですが、 それがまるで空を睨んでいるように見えたため、
乗組員が「伊勢はまだ戦うつもりなのか……」と涙したという
エピソードも残っています。
改めて国を護る為に戦ってくださった先人達へ敬礼。
さて、ようやく本題に入ります。
今日はこの日の空襲で沈んだ駆逐艦「梨」のお話です。
駆逐艦「梨」と聞くと、なぜ艦名が果物なんだ?と思われるかもしれません。
通常の命名規則では一等駆逐艦は天候や気象、季節に関する言葉から使用し、
二等駆逐艦には草木の名からとったようです。
(参考:海上自衛隊阪神基地隊HP
http://www.mod.go.jp/msdf/hanshin/umi_room/unchiku/index.html) この駆逐艦「梨」は大東亜戦争の後半、昭和19年から建造された、
松型駆逐艦の流れを引く橘型(改丁型)駆逐艦の10番艦で、
「梨」は終戦の年の3月に就役しました。
松型・橘型はともに戦時中に急造された、いわゆる「量産型」でした。
この型は先述した命名基準により、wikiを見ると分かると思いますが、
ほぼすべての同型艦が漢字一文字の植物です。
調べていて、よくこんなに名前があったものだなぁと驚きました。
松型はその艦名により「雑木林」と呼ばれていました。
さて、就役が遅かったせいなどもあり、特攻兵器「回天」の母艦として改装され、
内地で訓練を中心に活動していた駆逐艦「梨」は、最期を呉で迎えます。
戦没した7月28日も訓練を行っていました。
この日の空襲により、「梨」は米軍の艦載機グラマンF6Fの攻撃により沈没します。
竣工からわずか4か月での最期。
爆撃機ではなく戦闘機の攻撃によって沈められたのは、とても珍しく、
「梨」にとっては屈辱であったかもしれません。
「梨」の最期はこちらに詳しく書かれています。
そして月日は流れー
終戦からおよそ10年が経った昭和29(1954)年9月、
スクラップを取る目的で浮揚された「梨」は、沈没し、
10年近く海中にあったにも関わらず状態が良好であったため、
いったん民間に払い下げられていたのを
当時の防衛庁が購入し、海上自衛隊の護衛艦として再利用することにしました。
ここで、なぜ通常の慣例では艦の名前である「梨(なし)」が引き継がれるはずであるのに、「わかば」になったのかが疑問に思う方もいらっしゃると思います。
それは、「梨」をひらがな表記すると「なし」となり、
存在しないという意味の「無し」と誤解されてしまう恐れがあったからです。
(不吉ですね^^;)
そこで「梨」ではなく慣例どおり「草木に関する名前」として、
「わかば」が採用されたのです。
「わかば」という名には戦争の焦土から再び立ち上がろうとする日本と
帝国海軍から日本の守りを受け継いだ海上自衛隊への思いが込められている
とも言われています。
そして修理改修、兵装の装備を経たのち、
「わかば」は護衛艦として海自に編入され、昭和33(1958)年に再就役します。
「わかば」として生まれ変わった「梨」。
しかし、その第2の人生もいろいろ大変だったようです。
以下にこんにち伝わっているエピソードを列記します。
・「梨」が一度民間に払い下げられ、国が再び買い戻すという
経緯を知った当時の野党に国会で批判される。
・「わかば」として再就役したあとも、海中に長く浸かっていた
機関部は念入りに修復したものの、すさまじい雑音を発した。
また、「わかば」の同型艦はなかったため、運用に苦労したようです。
・「わかば」には「梨」の元乗組員が優先的に配置されたが、
(練度などを考慮すれば合理的である)
やはり「梨」時代の記憶(沈没時)を持っているためだろうか、
船中作業服を着た兵士や制服を着た士官が、「苦しい、苦しい」
と言いながら艦の通路を歩いているのを、何人も目撃したというような
幽霊騒ぎが何度かあった。
(「梨」は空襲による沈没時に犠牲者が60名以上出ている。)
・昭和37(1962)年の三宅島噴火の際には避難民を輸送する。
・昭和45(1970)年には訓練中にタンカーと接触事故、損傷する。
その後退役。
「梨」は名を「わかば」と改めましたが、現在に至るまで、
海上自衛隊に在籍した唯一の日本海軍の戦闘艦艇です。
もっとも「梨」はその経緯もあって野党の追及を受けたにもかかわらず、
海に眠っていた艦をわざわざ引き上げて修復し、再就役させたのは
戦後発足した海上自衛隊が帝国海軍を受け継いでいるという
"血統書"的な意味合いがあるといわれています。
こんにち「梨」から修理改装の際に外された前部高角砲と魚雷発射管が、
広島の江田島にある海上自衛隊第1術科学校に実物が展示保存されています。
なお、「梨」の戦没者の慰霊碑は沈没地点を望む山口県平群島にあり、
毎年慰霊祭が行われているそうです。
その碑にはこう刻まれています。
「長深山沖の海戦。祖国の彌栄を念じ 何の疑いもなく
情熱を燃やして散華せられた 方々に深く感謝をせずにはおられません
平郡島民有志」
英霊達の魂よ安らかなれと祈ります。
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紫電改(wikiより) こんばんは。
今日も一日お疲れ様でした。
さて、7月24日はわたしにとってはささやかな祈りの日です。
69年前(昭和20/1945)の今日はその年の3月19日に続いて2度目の
呉軍港空襲 があった日です。
この日と4日後の7月28日の3度目の空襲で呉軍港とその近郊に停泊していた艦が大きな被害を受けました。
米海軍のハルゼー提督率いる第38機動部隊の艦載機約950機が来襲し、
それに対し日本側はレイテ沖海戦を生き延びたものの、
燃料不足や修理のために本来の運用ができず、
この日大村基地から発進した帝国海軍の三四三航空隊が豊後水道
上空で敵艦載機を迎撃し、16機を撃墜するという戦果を
あげましたが、この空戦で6機が未帰還となりました。
この未帰還となったのは、
戦闘701飛行隊長の鴛淵孝大尉、
今井進一飛曹、溝口憲心一飛曹
の6人です。
この6人はいずれも20〜28歳の若者でした。
武藤少尉は坂井三郎少尉と交代で杉田庄一少尉(最終階級、
戦死後昇進)の後任として6月に転属したばかりで、
この日の空戦が343空における初出撃でした。
この戦闘の活躍により、343空は御嘉賞の御言葉を賜わりました。
この6人のお人柄やエピソードはこちらのブログの方が詳しく紹介されています。
↓
未帰還の六機
その後、この時の空戦で未帰還となった機体であると思われる
紫電改が、終戦後約30年が経った昭和53(1978)年の11月に
発見され、翌年の7月に引き揚げられました。
この紫電改は現在、愛南町南レク馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されています。(日本国内に現存する唯一の紫電改の実機)
南宇和郡城辺町久良湾の海底から引き揚げられた紫電改
また、来月にはその未帰還の6人のうちの1人、
武藤金義中尉(最終階級)が登場するドラマが(実在の人物と史実を基にしたフィクションストーリー)が放送されます。
「ザ・プレミアム「撃墜 3人のパイロット」
(前編)8月9日(土)[BSプレミアム] 後7:30〜9:00 (後編)8月16日(土)[BSプレミアム] 後7:30〜9:00 BSプレミアム『撃墜 3人のパイロット』 NHKはいつもアレ(そもそもTVが(以下略)なので
あまり見ないのですが、
このような番組があるとBSが見たくなりますね。(^^;)
昨年の零戦の搭乗員の方々のドキュメンタリーが
BSでやっていたのですが、
BSでやっていた時のをダイジェストにしたものが、
その後12月に再放送されたので見ました。
今回の日程の分は見れませんが、
地上放送で再放送されたら見ようと思います。
最後に、
日本を護ってくださった英霊の方々に敬礼。
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