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日本の軍事遺産6
走水低砲台1810
千代ケ崎砲台を訪れた日、
走水低砲台にも足を延ばしました。
前にも書きましたが、
海に突き出した森のようになっているところが、走水低砲台のあるところです。
ここは、古事記、日本書紀にも登場する、由緒ある場所。
日本武尊命は、ここから海を渡って房総半島へ行ったのです。
徳川家康が江戸に入府した際、
この地には船番所が置かれました。
走水奉行が置かれ、
江戸に向かう船をこの辺りで、
検査したのです。
今も近くに同心町海岸の地名が
残っています。
幕末には川越藩が、ここに台場を築いて異国船の侵入に備えました。
→奥のほうの海岸護岸の石積みは明治期の砲台建設と同時に造られたものです。
久しぶりに訪れた砲台は、
ずいぶん整備されて、キレイになっていました。
左が以前の第1砲座。
雑草に覆われていましたが、現在は上に上る階段なども造られています。
左が以前の弾薬庫。まるでラピュタの世界でしたが、
現在は樹木も伐採され、散策路もできています。
砲台の中央に位置する、兵舎(掩蔽部)入口の状況。
左側が以前。以前はひどい状態でしたね。
ちなみに、終戦後すぐくらいの弾薬庫入口(左)と兵舎入口(右)。
昔は周りに樹木もなく、空が見えていたんですね。
今は砲台の中に入ると、木々が覆いかぶさって、あまりよく見えません。
海沿いには、4つの砲座を巡る散策路も造られていて、浦賀水道を一望できます。
以前来た時には、背丈以上の雑草がびっしり生えていて、
雑草を掻き分けながら、傷だらけになって歩いた思い出があります。
こちらの砲台も公開される予定とか。
現在は横須賀市のガイドツアーで、ガイドがついての見学はできるみたいです。
という訳で、また・・・・・。
努力が大事ですね。
毎日、こつこつ、コツコツです。
これ、すごいです。
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日本の軍事遺産
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日本の軍事遺産 5
千代ケ崎砲台
ふたたび
先日、仕事で、また訪れる機会があり
千代ケ崎砲台に行ってきました。
早いもので、以前に訪れた時から
2年がたちます。
齢をとると、本当に時が過ぎるのが
早くて困ります。
あれから、ずいぶんと整備され、
廻りの雑草なども刈り取られ、
キレイになっていました。
何より変わったのは、
以前は土砂に埋没していた
第3砲座がすっかり掘り起こされ、
昔のように、3つの砲座を
上から見ることができます。
整備された第3砲座
まだ、中には立ち入ることができませんが、
第1から第3まで
地下通路で連結していて、行き来することができます。
詳しい図面などは、
日本の軍事遺産2の
千代ケ崎砲台を
ご覧ください。
この通路は地下1階(高塁道)にあたります。
この下(地下2階)に弾薬庫などの
部屋があります。
→揚弾井
地階の弾薬庫と高塁道を結ぶ
砲弾を上げるための穴
この穴からエレベーターのようなもので
砲弾を上階に運んだ。
←第1砲座
各砲座には2門の榴弾砲が備え付けられていました。
砲台の上は芝生の広場になっています。現在は周囲に木々が生い茂り、あまり眺望は望めませんが、
当時は海が一望できました。
千代ケ崎砲台は、観音崎砲台群の南方海上と浦賀湾口、久里浜海岸を防備する役目を持っていました。
この画像の左側奥、一段低くなった
戦艦鹿島の砲塔を備え付けた
砲塔砲台がありました。
終戦まで残存していたとのことですが、どこへいっちゃったのでしょう。
現在は民間の敷地内で、
自由に見学することはできません。
ここに砲弾の着弾などを観測する
観測所がありました。
→右の画像は、その右翼観測所へ連絡するための通路入口。
こちらの観測所跡も、現在は民間の敷地内のため、自由に立ち入ることは出きません。
年に何度か見学会などが
行われているようです。
←以前の写真。第3砲座のある場所は、
こんな感じの原っぱでした。
奥に見える、ちょっと小高くなったところが、
右翼観測所のある場所。
駆け足の見学でしたが、
相変わらず砲台の保存状況は良好で、
なかなか感動します。
来年度に向けて、一般に公開予定とのことですが、まだ、駐車場などの問題もあり、
すぐという訳にはいかないみたいです。
ただ、一般に公開しちゃうと、荒らされたりしないか心配です。
という訳で、また・・・・・
死ぬほど画像が溜まっているので、
少しづつ、アップしていきます。
若いってだけで、いいもんですなぁ。
こんな事、思うなんて、齢をくったもんだ。
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日本の軍事遺産4
記念館 三笠
これまで横須賀周辺の砲台跡を2ヶ所ほど紹介しましたが、
横須賀を訪れたなら、絶対に訪ねたい場所がここ。
猿島航路の発着所がある
三笠公園には、
日本海海戦で旗艦として活躍した
戦艦三笠が保存されています。
英国で建造され、
明治35年(1905)の竣工です。
日露戦争時代の戦艦ですから、
規模も小さく小ぢんまりしたものですが、
この戦艦三笠が果たした役割は
限りなく大きいです。
ちょっと前までは、
チョンマゲを結っていた
当時、アジアの小国であった日本が
大国ロシアのバルチック艦隊を
叩きのめしたのですから、
世界史に残る戦いの旗艦だったのです。
仮装巡洋艦 信濃丸からの「敵艦見ユ」との
報告を受け、連合艦隊が出撃。
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と、大本営に打電します。
いいですねぇ。
ドキドキします。
バルチック艦隊に会敵したのは、
5月27日の10時ころ。
午後1時過ぎには、主力艦隊も
敵を視認しました。
この時、三笠の艦上に掲げられたのが、
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。
各員一層奮励努力セヨ」
のZ旗ですね。 コレ→
「もう、後がない!」
と、いう意味とか。
なんか、この頃の日本人って、
頑張っていましたね。
私も、うだうだしてないで、
頑張らなきゃね。
なんといっても、この戦いは
日本の完全勝利。
バルチック艦隊は、沈没21隻、
拿捕6隻で、
目的地のウラジオストックに
到着できた船は3隻だけ。
一方、
連合艦隊の損害は水雷艇3隻だけだったのです。
これは日本が調子に乗っちゃいますね。
その後の日本の行く末を、
大きく変えてしまった海戦でした。
と、こんなこと、書いていると
長くなっちゃいますので端折りますが、
戦後、保存されていた三笠は、
ソ連が強硬に廃棄することを主張して、
主砲など艦上の構造物を撤去され、
ダンスホールや水族館になっていた
という、悲しい時代もあるのですが、
この惨状を嘆いた人々の運動で、 ↑艦橋からの眺め
昭和36年に往時の姿に復元されました。
まだまだ、書きたいことも
たくさんありますけど、
きりがないので、
一度、訪れて、明治の日本人の
熱き想いを、
感じ取ってみてください。
→しかし、指揮を執っていた艦橋って露天ですよ。砲弾がビュンビュン飛んできて、危ないじゃないですか。
まったく、明治ってヤツは、
困ったもんです。
立っていた、立ち位置が
マーキングされています。
絵の中心にいるのが東郷司令長官。
右側の下を向いて、何やら記録をとっているのが、秋山真之参謀です。
日本海海戦の作戦は、この人が中心になって立てたものです。
三笠の主砲は30センチ砲。
ハリネズミのように
並んでいます。
内部は当時を復元した船室と資料展示室などになっています。
これは、作戦会議などが行われた司令長官公室。
三笠公園には東郷司令長官の銅像もあります。
日章旗、美しいですね。
気持ちは分からないでもないのですが、
この旗を問題にする、韓国人って
困ったものです。
シンボルかもしれませんが、
旗は関係ないでしょ。
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日本の軍事遺産3
東京湾要塞3
走水低砲台
砲台のある旗山崎の地は、
古事記・日本書紀にも登場する由緒ある場所です。
↓走水低砲台全景 下の森の中に砲台跡がある
砲台のあった場所は、
記紀によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、
東征の折、ここから上総(千葉県)に渡ろうとした時、
海が荒れて進むことができずに、この地に臨時の御所を設けたところです。
そのことから御所ヶ崎と名付けられ、
御所の背後の山に軍旗を建てたことから、旗山崎とも呼ばれています。
↓走水神社
幕末の天保14年(1843)には、
川越藩が江戸湾防備のための
砲台をここに築いています。
当時、6門の大砲を配備して、
異国船の侵入に備えていました。
かつては御所ヶ崎の先端に
日本武尊が渡航の際に、
大嵐で船に危険が迫った時に風雨を鎮めた、
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を
祀る橘神社がありましたが、
明治18年(1885)に、軍用地となったため、
近くの走水神社境内に移され、
その後、合祀されています。
重要視された走水の砲台
走水周辺は、東京湾が最も狭まる場所に位置し、幕末にも台場が築かれるなどして、東京湾防備のための重要地点でした。
明治政府も早くからこの地に砲台建設を計画。
観音崎、猿島に続いて、
走水低砲台建設に着手しました。
明治18年に着工し、明治19年に竣工。
27㎝加農砲4門が据えられました。
走水低砲台にあったものと同型の
27cm加農砲→
名前は低砲台となっているが、
走水には走水高砲台もあった。
明治36年の走水周辺地図↑
地図を見ると周辺は
砲台だらけの要塞地帯だった。
第四砲座↓→
砲座は標高約20mの丘上にある。
ここに北東方向に向けて4門の加農砲が据えられていた。
兵舎→
兵舎内部
弾薬庫内部1
弾薬庫内部2
長年、放置されていたため、現在は植物が生い茂り、ジャングルのような状態になっていました。
2016年に整備され、散策路なども
設けられています。
せっかく建設された砲台だったが、
危機が迫っていた
日清・日露戦争とも敵と交戦することなく
戦争が終了。
関東大震災で随所に被害を受け、
その後、復旧しましたが、
昭和9年(1934)には
陸軍の施設から除籍されています。
ここには、その後も砲台が
残され、太平洋戦争の
終戦までは稼働状態でした。
そのため、ほとんどの遺構が、
現在も傷つかずに残されています。
砲台を巡る散策路→
走水低砲台全体図
(ラフですみません。直す時間がなかった)
いろいろと、特徴など詳しく書きたかったですが、
そちらは詳しい資料などがあるでしょうから、
私は概要のご紹介まで。
時間も遅くなったので、この辺で、端折ります。
というわけで、
本日の面白画像→
絶対、これ、分かってやってますよね。
夜店で〇〇ポを買うために、
若い女性たちが並んでいるみたいで、楽しいです。
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日本の軍事遺産2
東京湾要塞2
千代ケ崎砲台 千代ケ崎にあったものと同型の榴弾砲横須賀市資料より
千代ケ崎砲台は、
猿島砲台と並んで、
軍事遺産としては全国で初めて
国の史跡に指定されました。
猿島は自由に行き来できますが、
今回は、これまで
防衛省の管理下にあったため、
一般公開されておらず、
あまり馴染みのなかった、
千代ケ崎砲台の紹介です。
(現在は横須賀市の管轄になり、
ツアーなどで行くことが
できるはずです。)
千代ケ崎砲台は幕末期に浦賀港防備のために築かれた平根山台場の場所に築かれた砲台です。
文化8年(1811)に江戸湾防備を命じられた会津藩が、ここに台場を築いています。
幕末にアメリカの商船・モリソン号が来航した時、浦賀奉行はここから砲撃しましたが、砲弾は沖合の船まで届かず、祝砲と思われたという、笑い話のような記録も残っています。
その後、山頂から海岸沿いに台場が移され、ここには大砲13門が配備されていました。
当時、
最新鋭の設備を持つ砲台
浦賀港の入口に位置する千代ケ崎砲台は、早くからその地理的重要性が認識されていました。
明治25年(1892)に着工し、明治28年(1895)の日清戦争中に竣工しています。
明治時代に造られた東京湾要塞を構成する砲台の中では、最も新しい時期に造られた砲台のため、
他と比較すると、随所に新しい工夫が見られます。
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観音崎にあった砲台群の南方海上と
浦賀湾口、久里浜海岸を防備する役目を持ち、中心となる3ヶ所の砲座に28cm榴弾砲を2門づつ、計6門。その南側に12cmの加農砲4門、15cm臼砲4門、
7cm野砲4門が据えられていました。
関東大震災後には、東側の尾根部分に、ワシントン軍縮条約により廃艦となった戦艦鹿島の主砲
(30cm連装加農砲)を陸上砲台に転用した砲塔砲台も建設されました。
砲塔を転用した砲台としては日本で最初のものでした。砲塔は終戦まで残存していたといわれています。
横須賀市所蔵
そのため、保存状態は比較的良好です。
3ヶ所の砲座のうち整備されているのは、第一砲座のみ。
第2砲座は未整備で、第3砲座は土砂に埋没しています。
兵舎入口→
←終戦後(1947年)の千代ケ崎砲台航空写真
細かな紹介もしたかったのですが、あまり一般的じゃなくなるので、この辺で。
地下に造られた砲台施設は、かなり大規模なもので、感動します。
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