猫の兄弟と一緒に

還暦を越えて考えたことや分かってきたこと、そしてやってみたこと

全体表示

[ リスト ]

宇治市から城陽市にかけて、近鉄京都線とJR奈良線が並行するようにほぼ南北に走る。
その中間を府道69号(大久保バイパスが出来るまでは国道24号)がまた南北に走り、
これの一本東側の道が、その昔は京都と奈良を結ぶ旧”奈良街道”であった。
久津川駅から北上すれば、この旧道は車塚古墳と芭蕉塚古墳に挟まれて、更に上がれば宇治市との
境になって、左手(西側)に比較的新しく大きな六角灯籠が現れる。
イメージ 1

灯籠下に置かれた説明板は大いに見難いが、どうも御拝茶屋(オガミチャヤ)八幡宮の由来が
書かれている。
その昔、平安貴族達が宇治を越えて奈良へ向かう途中に、この峠で一服して男山(石清水)八幡宮を
遥拝したと伝わるとの事だ。それは単なる休憩と云うよりも、儀式作法に近い拝礼であったらしい。
確かに地理上で言えば此処からほぼ真西に石清水八幡宮が位置しており、上の写真でも(遠過ぎて
殆ど分からないと思うが)右側の赤い広告塔の遥か彼方には我町の男山が見えるのも確かである。
しかし、今や何処にも休憩茶屋は勿論のこと、神社の姿も見当たらない。

実は茶屋八幡そのものは、もう少し北へ辿った先の民家の間にひっそりと蹲っている。
イメージ 2

イメージ 3

今や余り手入れも行き届かぬ状況にあるのは少し悲しいが、此処にも先の六角灯籠とほぼ同じ
内容の由来書が掲げられている。
しかし例えば平安時代には此処から男山八幡宮が遥拝できたものかも知れないが、今となっては
民家の中に埋もれ切って、周辺に何が見えると云う話もない。
城陽市の銘木・古木として認定された大きなエノキがランドマーク的に存在しているところを見れば、
どうやらこの地が古の茶屋八幡の場所であって、先の六角灯籠はたまたま現在において見晴らしの
効く場所に、古のロマンの記念碑的に置かれたものであろうと考えられる。
イメージ 4

平安貴族が京都と奈良の往還に際して、このささやかな峠で一服し、男山八幡宮への拝礼儀式を
執り行った姿を想像することは、それはそれで中々に興を惹くものではあるのだが、しかしどうも、
この社の由来書の内容には首を捻ることが実に多い。

先ずそのご祭神として玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)が掲げられるのは、”霊(タマ)の憑り(ヨリ)つく
巫女神”の総称と考えても充分に頷ける話であるが、もう一柱に「野田肥前守」とあるのが皆目見当も
つかない。
肥前守と言われても所謂官位名であるから、江戸以降の佐賀の松浦氏や鍋島氏は当然のことながら、藤原氏に限らず平安貴族に肥前守と呼ばれる人物は数多居る筈であるが、野田肥前守の名は歴史上に殆ど現れて来ず、ましてや神に祭られるほどの例は、浅学の身では全くのお手上げ状態にある。

次に、延喜20年(920年、醍醐天皇の御世)の鎮座で、古くは八幡大菩薩と称えられたと云うのも、
特に異論を差し挟むものではないが、以下の後醍醐天皇(第96代)に関する記述は理解できない。
<延元一年、後醍醐天皇、笠置をいでしより、当日藤原藤房、房前お共を従え(中略)一夜を安遇と
され武運長久を祈願さる 御製「さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家もなし」
返歌「いかにせんたのむかげとて立ち寄ればなほ袖ぬらす松の下露」>とあるのだが、
先ず時代的に大きな誤解がある。
延元元年(1336)は、艱難辛苦の末に建武の新政を成し遂げた後醍醐が足利尊氏を中心とした
武家勢力に離反されて京から吉野へ逃れた末に南朝を開いた年であって、仮にその逃避行に
この場所を通ったとしても、笠置山は全く関係しないし、既に藤原藤房(万里小路、マデノコウジ)にも
離反されてこれが供に付くことはあり得ない。
後醍醐が笠置山から逃れるのは、元弘元年(1331)に帝自身の起こした鎌倉倒幕の籠城戦に敗れて、河内の赤坂城(楠木正成が籠っていた)を目指した時であって、この時には藤原藤房/季房兄弟を
供にして彷徨った挙句に、由来書きにもある御製と返歌のやりとりが確かにあったとされている。
しかし笠置山からどれくらいの距離を逃避できたかは不明だとしても、この宇治との境の地では全くの
方向違いと云うしかなく、しかも武運長久を祈る余裕など無かった筈だと思う。
むしろ後醍醐がこの地を通って、しかも武運長久を祈ったとすれば、それは元弘の役で笠置山へ
籠もる以前に奈良の東大寺を訪れて助力を求めた時であったろう。
それならば可能性としては充分過ぎる程あるのだが、笠置を出てからと云う記述、更には歌の
やりとりの記載とは時間的には完全に逆転してしまっている。

ついでに言えば、供の一人に藤原房前とあるのは全くの間違いとしか考えられない。
房前(フササキ)は藤原不比等の次男で太政大臣、飛鳥時代から奈良時代にかけての大人物である
から、6世紀半程も時代がずれてしまっている。
因みに、社頭の由来書で「房前」の部分は先の六角灯籠下の説明書きでは「藤前」となっているが、
歴史的にこちらの名前は全く見当たらない。
藤房と揃って実際に供をしたとされる弟・季房(スエフサ)は一体何処へ行ったのだろうか?

重箱の隅をつつくような話になってしまうのは本意ではないが、しかしあまりにも杜撰過ぎる記述に
思えてならない。
この由来の出典が何処にあって、城陽市(社頭の由来書には明記されている)としても
どう確認したものかどうか?定かではないけれど、こんなに不明瞭な部分に話を膨らまさなくとも、
男山遥拝と云う古のロマンだけで充分に価値のある神社だと思えるだけに残念でならない。


さて、久津川の最後には南の久世神社に参って帰る。
正道官衙遺跡から西へと坂を下って行くと、久世小学校に隣接するように社がある。
社務所も二の鳥居もなかなかに新しく清々しい。
イメージ 5

二の鳥居の注連縄の結び方に特別な意味は無いのだろうけれど、妙に気になる姿である。
イメージ 7

この辺りは旧久世村であって、その産土神として日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を本殿に祀る。
その創建については明らかではないが、彩色も美しい本殿が室町末期の建造とされることから、
それ以前には鎮座していたとされる。
イメージ 6

イメージ 8

社伝に拠れば、日本武尊の白鳥伝説に言う”鷺坂山”をこの地として、万葉集に”鷺坂”と歌われるのも
神社横手の緩やかな坂であると言うが、今は住宅地内の幹線道路でしかない。

また、この社の裏手には奈良時代前期に築造された寺があって、8世紀中頃にはその寺域の整備も
進んだが、11世紀前半には廃絶となったとされる。今は久世廃寺跡として保存される。
更にその奥の丘陵上には芝ケ原1号墳から7号墳が眠っており、時代的にこの辺りは可成りの古さを
思い起こさせるが、
実は此処を訪れて一番面白いのは一の鳥居から続いて来る参道の姿にある。
イメージ 9

真っ直ぐに整備された両脇の石灯籠が凛として好ましいが、実はこの写真の正面はJR奈良線の
踏切であって、その向こうは急な石段を下った先に一の鳥居がある。
要するに、JR線路によって参道が見事なまでに直角に寸断されているわけで、これを持って
「古の時代と新しい時代の融合」などと詰まらぬことを言う気は毛頭ないけれど、中々の景色ではある。






この記事に

閉じる コメント(4)

アバター

茶屋八幡の由来書の内容については、再考の必要がありそうですね^^;一度、城陽市に問い合わせをされるのも良いかもしれません^^平安貴族が、この場所で一服されている姿は、葵祭の行列が下鴨神社で一服されているような感じだったのでしょうね♪

2013/8/25(日) 午前 11:18 ちむ 返信する

顔アイコン

ちむさん
余りでしゃばるのも嫌なので、「野田肥前守」を尋ねるついでに聞いてみましょうかね。
でも担当は何処かなあ?やっぱり教育委員会...

2013/8/26(月) 午後 6:27 猫の兄弟 返信する

顔アイコン

大阪に住んでいた時(私の嫁ぎ場所です。8年住んでいました。転勤族なんです主人は大阪人)奈良にも遊びに行きましたよ。でもこうして見ると知らないところが山ほどあります。

2013/8/29(木) 午前 0:14 geko 返信する

顔アイコン

gekoさん、確か堺の方でしたか...ね、お住まいは。
僕は親父の転勤で中学から東京、就職して関西へ帰りました。
以来、転勤らしい転勤もないまま、到頭終の棲家になりました。
人より色々と回っていても、でも知らないところは山ほどありますね。

2013/8/30(金) 午前 9:13 猫の兄弟 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事