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昔から淀川の氾濫により流域地帯は度重なる洪水の為苦しめられていた。
鎌倉時代の貞永元年(西暦一二三二年)仲秋の大洪水は、三十日余りの間、大海の如き有様であったと伝える。当地域に在った仲哀天皇を祀る森は他所より一丈(約三メートル)ほど高所であったので村人達が非難していた。
その処へ柴の束に乗った小祠が漂着した。時は貞永元年菊月二十七日の事である。
その後、日毎に水も引き助かった村人達が産土神(地域の守護神)としてこの小祠をこの地へ斎きまつったのが起源と伝えられている。
住所:大阪府 大阪市 東淀川区 柴島 三丁目7番30号 電話 06−6322−6609

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↑平成21年4月20日撮影
柴島(くにじま)城について
大阪市東淀川区柴島二丁目19番に「柴島城跡」(昭和3年3月)と刻まれた碑があります。
現在は閑静な住宅街の中にあり、城跡というにはいささか違和感を感じるかもしれませんが、戦国時代には三好長慶と細川晴賢との戦いの舞台にもなった城です。これについては『新修大阪市史 2巻』*1に詳しくp611〜p614に合戦図を交えながら述べられています。
築城に関しては『大阪府全志 3』*2のp483に、十河一政(そごうかずまさ)によってと伝えられるとあるものの詳細については、わからないことが多く、『角川日本地名大事典27大阪府』*3のp432に、城跡は淀川と旧中津川に囲まれた中洲の微高地(柴ヶ洲)にあったものとされ、現在の柴島神社の西側一帯に当たると記されています。また『東淀川区史』*4のp482〜483では、周囲二町位、他より約四尺高地になったところがその城址とされ、そこが石碑の残る場所とされています。
いつ廃城になったのかは定かではありませんが、『よみがえる茨木城』*5に収録されている「東摂城跡図誌」の一部として柴島城が描かれています。
現在の石碑の写真は『東淀川区80年のあゆみ』*6のp67、『ひがしよどがわ区の暮らしの歴史を語る』*7のp128〜129などに収録され、『なにわ考古学散歩』*8などには歴史散策コースのスポットの一つとして取り上げられています。
参考文献
*1 『新修大阪市史 2巻』 新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1988 書誌ID 0000342133
*2 『大阪府全志 3』 井上 正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172308
*3 『角川日本地名大辞典 27大阪府』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865
*4 『東淀川区史 : 現淀川区・東淀川区』 川端 直正編集 東淀川区史編集委員会編集 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912
*5 『よみがえる茨木城』 中村 博司編 清文堂出版 2007 書誌ID 0011359070 p194
*6 『東淀川区80年のあゆみ : 東淀川区創設80周年記念誌』 東淀川区役所 2006 書誌ID 0011250776
*7 『ひがしよどがわ区の暮らしの歴史を語る』 大阪市東淀川区役所総務課 1995 書誌ID 0010778691
*8 『なにわ考古学散歩』 大阪市文化財協会編 学生社 2007 書誌ID 0011551653
大阪市立図書館「大阪に関するよくある質問と回答」より。
http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/62faq.html

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神社の境内の西側に「柴島晒(さらし)ゆかりの地」の碑があります。

柴島晒(くにじまさらし)について
晒(さらし)とはさらして白くした麻布または綿布のことです。淀川の豊かで清らかな流れのほとりに位置し、広大な芝生地帯であった柴島は晒の生産地でした。『東淀川区史』*1によると文禄三年頃より生産を開始したと記されています。『摂津名所図会大成』*2には「此邊淀河の流れをくみて布木綿をさらす 是を國嶋晒といふ 此堤の傍邊一圓に布木綿をのべ敷て乾晒す ゆへに恰も雪の降つみしごとく其眺望絶景なり 俗にさらし堤と號し浪花の貴賤舟行してこゝに遊ぶこと平生にありて風流の地なり」と記されています。また『淀川両岸一覧』*3には「柴嶋晒堤」の情景が描かれており「玉川の卯の花のいかにくにじまのさらし堤の布の白雪 鶏成」と堤の一帯が白くさらされた布で覆われ、雪のように白く美しく見えた様子をあらわしています。『摂陽群談』*4には名物として柴島晒が「南都の晞に劣ことなし」と江戸時代最も有名であった奈良晒にも劣らないと記され、当時の隆盛ぶりを伝えています。『東淀川区史』*1によると明治以降も「地下水が晒染に適していること、船場の問屋町に淀川を利用すれば近いこと、小規模な家内工業に適していること、生地の水洗いを淀川で行い、川べりで乾燥し得ることなどの立地条件から」柴島において染色晒染工業が発達したと説明しています。
 しかし柴島晒は、すっかり姿を消してしまいました。柴島に浄水場が建設されたことが大きく影響したと考えられています。明治28年大阪市に水道が創設され、桜の宮水源地から取水し大阪城内配水池から自然流下で水を供給していました。市勢の進展と市域の拡大、人口増加により水道事業の拡張を迫られた大阪市は、様々な案を検討した結果、明治40年、柴島に用地十三万余坪の水源地を建設する計画を立てました。柴島において晒業に携わっていた人々は、土地も仕事も失うこの水源地の建設に激しい反対運動を展開しました。『東淀川区史』*1や『淀川三区稗史』*5に柴島浄水場が建設されるまでの経過が説明されています。明治41年、地元住民との交渉を重ね協定が成立したことから、工事は着工され柴島浄水場は大正3年3月に完成します。『大阪春秋74号 淀川右岸』「柴島晒盛衰聞書」*6によると柴島晒が衰退した要因は、浄水場だけでなく「昭和年代に入って、大紡績資本により立地した泉大津を中心とする泉州の晒屋に漸く取って替わられることになる」と記されています。柴島神社には晒業主の人々が寄進した石柱が残されており、盛時の名残をとどめています。
参考文献
*1 『東淀川区史 復刻版』川端直正 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912 p88 p217〜218 p88〜91 p342〜344
*2 『摂津名所図会大成 其2』(浪速叢書 第8)船越政一郎 浪速叢書刊行会 1928 書誌ID 0000329669 p406
*3 『淀川両岸一覧 宇治川両岸一覧』暁晴翁 柳原書店 1978 書誌ID 0000242907 p235〜236
*4 『摂陽群談 下』岡田溪志 歴史図書社 1969 書誌ID 0080190955 p480
*5 『淀川三区稗史』 三善貞司 1978 書誌ID 0080196670 p70〜71
*6 『大阪春秋74号 淀川右岸』大阪春秋社 1994 書誌ID 0000381208 p64〜65
大阪市立図書館「大阪に関するよくある質問と回答」より。
http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/62faq.html

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