空・・花・・人・・かんじるままに・・

素直に素直に・・・・感じましょ。お話ししましょ

平和学習・・「ムシカ」

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65年目の今日・・・
 
 新聞の見出しに核保有国 65年目の一歩・・
 
  米・英・仏、初の参列・・・・
 
   65年目にして初めての参列です。 戦争は二度と繰り返さないという信念で
 
   参列してほしい限りです。
 

   

「水をくれ…」忘れられぬ 慰霊碑に献水続け供養
宇根利枝さん


 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分に広島に原爆が落とされたとき、私は26歳でした。爆心地から南東に2.7キロメートル離れた、比治山裏の陸軍兵器支廠(へいきししょう=戦場で使う武器の製造や修理をして戦場に送っていた工場のこと)に勤める母親のための託児所で、その年の1月から主任保母として働いていました。

泣き叫び走り回る子どもたち
 託児所にはその日26、7人の子どもたちがいました。大きい子どもたち男女8人くらいは外で遊んでおり、小さい子どもたちは台所の隣の広い部屋で寝ていました。6、7人が泣いて起き始めていたので、保母さんたちがあやしていました。おやつのカボチャがまだ煮えないので、ぐずる子どもたちをあやす手伝いをしようと子どもたちの部屋に向かった瞬間、真っ暗闇になり体になにか押し重なる感触があり、部屋の中に押し倒されました。
 私は恐怖におののいて、押し倒されたままでいましたが、すぐに「なべの下の火を消さないと、一番に託児所が火事になってしまう」と気になったので、もがいて台所のほうを見ました。すると、なべの中身は散乱し、辺りもグチャグチャになり、なにかキラキラ光るものが見えました。よく見ると台所の窓が割れ、ガラスの破片が飛び散っていましたが、私は軽いけがで済みました。
 少し起き上がると、見渡す限りまるで「みかん色」のようでした。朝のはずなのにまるで夕焼けの中に立っているようでした。何がなんだか分からず、「すでに託児所が火事になったのだ」と思いましたが、周囲が熱くもなく燃えていないので不思議に思いました。最初は工場だけが狙われ、不意打ちをくらったと思いました。私は、「おかあちゃん、おかあちゃん」と泣き叫ぶ子どもたちを追いかけて、部屋の中に散乱しているふとんをつかみ、泣いている子どもの頭にかぶせながら回り、そうしたら泣き声が小さくなったので「みな助けた」とホッとしました。
 一人のお母さんが「うちの子がおらん。連れてきとるんじゃが、みんなで捜してくれ」と言って、みんなで3つの女の子を捜し回り、ようやく倒れたベビーオルガンの下敷きになっているのを見つけました。お母さんはいち早く子どもを引っ張り出して狂ったようにわが子を抱き上げて、振りまわしたりたたいたりしていました。そうしたら、口もとから白い泡のようなツバみたいなものが出てきたと同時に小さな声で泣き出したのです。お母さんは「生きた、生きた」と大喜びました。
 お母さんたちが工場から方々走ってきました。お母さんたちは、わが子を見つけると「えかった、えかった」と喜び、子どもを抱きしめたままその場に座り込み、親子で泣き出しました。軍隊の工場なので、上司の命令がないとその場を勝手に動くことはできませんでした。


水、飲ませてあげられず
 外で遊んでいた大きい子どもたちの姿が見えないので、お母さんたちと「逃げたんだろう」と見通しのきく所まで一緒に走って捜しましたが、どこにもいませんでした。戦時中でも母子保護法がありまして、警戒警報が出たら母親は職場から離れ託児所に来て、親子全員そろったら(子どもが歩いて15分ぐらいのところにある)比治山裏の兵器支廠専用の指定された防空壕(ぼうくうごう)に一緒に避難させました。それで、すぐに母親と一緒に防空壕に行ってみました。
 防空壕の前に着くと、そこには全身やけどやけがをした人でいっぱいで、防空壕の中も同じような人たちで満員でした。お母さんが「お化けみたいな人ばっかりで子どもが見当たらない。子どもらは怖いから託児所に帰ったんだろうから、私たちと入れ違いになったのだろう。帰ろう」と言いました。この人たちは顔が赤くふくれあがって、裸のまま。後ろから見たら、男か女かも分からないほどのやけどでした。
 私は5、6人のやけどをしていた人に「どうしたん、あんたはだれ?どうしてそうなったん?どっから来たん?」と聞いてみましたが、みんな舌が切れたりねじれたりしていたので、ぜんぜんものが言えず何を言っているか分かりませんでした。何も分からないし、子どもも見当たらないので急いで帰ろうとすると、さきほどの人たちは身ぶり手ぶりでゼスチャーを始め、かがんで土をすくうような手ぶりをし、それを口に持っていって飲むようなしぐさをしました。
 「うう…っ…みっっ」
 か細くこもった、しかもはっきりしない声でした。なにを言っているのかわかりませんでした。
 「みっ…みっ…をく…」
 「なに?よく聞こえん。どうしてほしいの?」
 何度か聞き返し、その人たちの求めているものが手ぶりでやっと分かったのです。「水?水?」。そう尋ねると向こうがうなずきました。その人たちの表情が変わり、私を拝むようにしてぞろぞろと後について来ようとしたので、「ついてきたらいけんよ、待っとりんさい。水持ってくるけぇ。そこに座っとりんさい」。そう言ってそこに座らせ、私はすぐに水を求めに出かけました。
 すると、ひとりの大けがをして血を流しているおじさんが、「今広島のまん中に、なにかわからんすごい爆弾が落とされて、その中になにかわからんものすごい毒ガスが混じっとる。今、広島中の水は全部毒ガス混じりの水じゃ。そいつらに水を飲ませてみろ、コロッと即死するぞ。絶対に飲ませたらいけんぞ!」。私は怒鳴られ、何度も「持ってくるなよ」と言われました。理由を聞いて恐ろしくなり、とうとう水をくむのをあきらめました。 向こうで座って私の水を待っている人たちがいる…。でも、くんで帰れない。飲ませてあげられない…。とても残念で、心苦しい思いでいっぱいでした。おそらくあそこにいた数人は私の水を待ちながら死んでいったことでしょう。


私の家族
 結局、託児所で日が暮れる前(おそらく午後4時くらい)まで待ちましたが、上司からの命令はありませんでした。私は、私の長男と、親と出会えなかった子どもたち合わせて4人と一緒に隣接した皆実町の私の家に向かいました。幸い家は燃えてはいませんでしたが、押しつぶされていました。ここではどうにもならないと思い、夫の実家へ向かいました。夫は昭和19年ごろ呉の海軍に召集され、その時は茨城県土浦で航空隊予科練の教師をしていたので、原爆の被害から逃れることができました。
 一緒に連れてきた3人の子どもは8日と9日に親せきの人が来たので、それぞれに引き渡しました。その後私は進駐軍が来るまで、壊れた託児所跡に残務整理のため勤めていました。


「おいしい水を飲んで」と祈り
 昭和30年ごろのある日、己斐にある大茶臼山に友人と登ったとき、中腹の教順寺の「滝の観音」と出会い、山水の清らかな滝を見つけました。その時、あの日のことがあざやかによみがえりました。広島市内が一望できる一番いい滝水に出会い、すぐに「あの原爆でなくなった人たちにこのお水を飲ませてあげたい」と思ったのです。このお水を慰霊碑に持っていって、おわびしよう。許してください、と。命のある限り、健康の続く限り…。
 そのとき以来40年あまり、年ももう80歳を過ぎましたが、私は天気のいい日にはお水を入れたカートを引いて広島市内をはじめ120カ所くらいある慰霊碑にお水をお供えしています。「原爆献水供養」と書かれた小さな透明のコップにお水を入れ、供養をさせていただいています。
 人間が死ぬとき、あんな残酷な死にざまはありません。以後、二度とああいう地獄は見たくないし、見せられたくはありません。核爆弾は人類だけでなく、命あるすべてのもの、人間が作り出した芸術などの文化も破壊して撲滅(ぼくめつ)するものです。絶対に使ってはならない、使われてはならないと願っています。

 
 
   核はいらない。
 
       こんな思いはたくさんだと・・・保有国の方たち感じてください。

1本の鉛筆・・・





ひばりさんの好きな歌ベスト10に入る曲で、大切に歌われた曲です。あの日から20年 、音楽祭は終わったが、「一本の鉛筆」を歌うコンサートは、8月6日午後、広島市の原 爆ドーム対岸の平和記念公園内で開かれ、歌い継がれております。



 
発表されたのは34年前の第1回広島平和音楽祭。
作詞は映画監督の松山善三さん。
それから今日まで 美空ひばりさんがなくなった後も
歌い継がれている 歌です
 


『1本の鉛筆』

あなたに 聴いてもらいたい
あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい
あなたに 信じてもらいたい
   
一本の鉛筆があれば 私はあなたへの 愛を書く
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
 
あなたに 愛をおくりたい
あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい
あなたに 世界をおくりたい
   
一枚のザラ紙があれば 私は子供がほしいと書く
一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く
   

一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く





  昨日の私の記事に友がコメントを返してくれた中で教えていただきました。

  私は何も知りませんでした。無知です。

  でもこうやって教えていただいたことに感謝して自分なりに感じていきたいと思い忘れないよう

  書き留めておきます。


  彼女はコメントにこうかいてくださいました。



  聴いて、知って心が痛むにつれて無関心でいられない。

  文化は知識です。

  知識が豊富であれば平和への力になるはず。

 みんなでもっと文化を心に受け入れましょうとコメントをくださいました。


  まさにその通りだなと・・・沈黙はいけない。みんなの声が同じ思いがとても大切であると。

  知る権利が私たちにはあるんですよね。

  そして風化させてはいけないんですね。

 いろんなことを教えてくださることに感謝し理解していくつもりです。
 
 

鎮魂・・・・

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長崎原爆の日 「核兵器のない世界」へ共に歩もう…市長

8月9日15時41分配信 毎日新聞




 オバマ米大統領の登場で、「核のない世界」に向けた機運が高まる中、長崎は9日、64回目の原爆の

日を迎えた。爆心地に近い平和公園では長崎市主催の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典があり、被爆者や

市民らが犠牲者を悼み、世界の恒久平和を祈った。平和宣言を読み上げた田上富久市長は、核保有国の指

導者らの名を挙げ、「被爆地・長崎へ来て、跡地に立ってみてください」と要請。麻生太郎首相も「核兵

器廃絶の実現に向け、国際社会の先頭に立つことを誓う」と決意を述べた。

 午前10時40分に始まった式典には、被爆者や遺族、市民ら約6000人が参列。麻生首相や鳩山由

紀夫民主党代表ら政党代表のほか、海外から過去最多29カ国の政府代表と、長崎市で開催中の平和市長

会議の参加市長らも出席した。


 この1年間に死亡が確認された3304人の名前が書かれた原爆死没者名簿3冊を奉安。これで死没者

は14万9266人になった。原爆投下時刻の同11時2分には全員で1分間の黙とうをささげた。

 田上市長は平和宣言の中で、オバマ米大統領や金正日(キムジョンイル)北朝鮮総書記ら核保有国・疑

惑国の指導者10人の名を挙げ、長崎を訪問し、被爆の実相を見るよう要請。また世界の人々に対して

「それぞれの場所で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、『核兵器のない世界』への道を共

に歩んでいこう」と呼び掛けた。

 「平和への誓い」を読み上げた被爆者代表の奥村アヤ子さん(72)は、9人家族でただ一人生き残っ

た体験を証言。「両親や兄弟がいない生活は地獄そのもの。このような苦しみ、悲しみは他の人たちに味

わわせたくありません」と述べた。

 麻生首相はあいさつの中で、非核三原則の堅持を誓い、原爆症訴訟の原告団と訴訟終結の合意にいたっ

た経緯を報告。「日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないた

めにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければならない」と決意を述べた。

 同市は式典に核保有国の駐日大使らを招請したが、ロシアの総領事だけが出席した。

 式典前には会場でさまざまな関連行事があり、被爆者でつくる合唱グループが追悼と平和の祈りを込め

た歌声を響かせた。【阿部弘賢】




 
 この時間・・親戚のところへ・・


 父の妹夫婦のところへ・・・



 そこで出迎えてくれたのは実家の玄関に掲げてあった「福聚」


 床の間に父の父に託されただるまさんの掛け軸


 子どものころから毎日これを見て過ごしていた。 実家を処分するとき父の妹である叔母に

 この掛け軸を渡すのが一番いいだろうって・・・


 叔母は「お父ちゃんとおかぁちゃんとにぃちゃんが私を守ってくれるんやね」と・・涙を流して

 もらってくれた。


 兆度その時叔母は癌の再発で苦しんでいた矢先だったので藁にもすがる思いだったと話してくれた。


 長崎の64回目の原爆投下の日。

 市長の宣言は聞くことができなかったが、思いは同じ。

 核廃絶・・そして


  麻生首相はあいさつの中で、非核三原則の堅持を誓い、原爆症訴訟の原告団と訴訟終結の合意にいたっ

た経緯を報告。「日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないた

めにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければならない」


被曝された方たちの年齢が高くなっていくなか早く廃絶の決定を望むばかり・・・

市長がおっしゃったそれぞれの立場でそれぞれの場所で平和を願っていこう・・という言葉にうんうんです。

今朝の天声人語の中に・・・・

若い記者たちが、去年の夏から、毎日欠かさず被爆者の聞き書きを載せている。それをまとめた

「ナガサキノート」(朝日文庫)を読んだ。

語られる事実に圧倒され、そして鍛えられる記者の姿、記事の向こうに透けて見える。

自分たちは何も知らないではないか、が出発点だった。

原爆忌が過ぎると潮が引いたようになる報道への自省も込めた。

「あの日からの苦しみは一日も止んだことはない」。

 それが取材を通して得た実感の一つだという。。。



 それぞれができる立場。場所で平和をという田上市長のお言葉どうり・・・伝えていこう。
 

ざわわ・・・・・




さとうきび畑

(作詞/作曲:寺島尚彦)




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる

夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

むかし 海の向こうから いくさが やってきた

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

そして 私の生れた日に いくさの 終わりがきた

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

風の音に とぎれて消える 母の 子守の歌

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

知らないはずの 父の手に だかれた夢を 見た

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

父の声を 探しながら たどる 畑の道

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

お父さんと 呼んでみたい お父さん どこにいるの

このまま 緑の波に おぼれてしまいそう

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ けれど さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが

ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる

風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい

夏の ひざしの中で




ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない




     ざわわが66回繰り返される。



 土曜日の朝日新聞の「on saturday] の中で森山良子さんが40年前からこの「サトウキビ畑」を歌っ てきたとされている。


 沖縄だと特定する歌詞はない。

 だが紛れもなく沖縄で生まれた。 

 40年前から歌ってきた森山さんは、沖縄を暗示するこの歌が、当地の人に同受け止められているのか

 ずっと気になっていたらしい。

 「良子さん、長い間、この歌を歌ってくいれてありがとうね」

 同年配の女性に声をかけられたのは01年12月。

 那覇市のFM沖縄で出演を終えて出てきたところであった。 彼女は泣いていた。

 あぁああ、私が歌ってきてよかったんだ。歌ってもいいんだ、と森山さんも安心感で涙が止まらなかった。

「サトウキビ畑」の出会いは単純だ。
 作者の故・寺島尚彦さんが近徐に住んでいて「歌ってみないか」と直接声をかけられた。

 20歳そこそこで「歌ってるだけで楽しい」かった少女は譜面を見てうろたえた。

 歌が長い。    テーマが重い。  

 「戦争を知らない私には歌えない。歌ってはいけない」 「できれば歌いたくなかった」

 当時のレコード会社のプロデュサーに「これはすごい歌だよ」と説得されてレコーディング。


 69年9月に出たアルバムに収録された。

 そのあとも長い間歌う旅に緊張し、非力さを痛感した。

 歌詞に想像力が及ばない。自信がない。歌いきれない。 

 リクエストが多かったが、曲目から外すコンサートもあった。

 転機は91年の湾岸戦争の頃。
 
 母の葉子さん(90)に言われた。

 「恋だの愛だの言ってる場合じゃないでしょ。 あなたには歌わなければならない歌があるはず」

 何の歌かは明らかだった。

 葛藤を経て覚悟を決めると、少しずつ歌が自分に近ずいてきた。

 人格を持つように「モリヤマ。怖がらなくていいんだよ」と背中を押してくれるようになった。

 歌い切れずに苦しんでいた頃、森山さんは寺島さんに諭された。

 「肩肘張らずに 笑うように歌えばいいんだよ」

 今もうたうたび、その言葉を思い出す。。。


 と書かれていた。    


 いろんな方が歌われてるが私は森山良子さんの澄んだ声の「サトウキビ畑」が好きだ。

 いろんな悲惨な出来事をこのすんだ声で問いかけてもらうと新たに生きていかなければという想いに

 かけられる。心が浄化されるような気がする。

 そんな気がします。

 

 

 自分に何ができるか分からないがこの気持ちを忘れずに行きたいと思いました

       


 明日は長崎原爆の日・・・

 来週の今日は終戦記念日・・・

意識の違い・・・

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  昨日広島原爆   9日長崎原爆



  大分に住む妹と電話で話をしていると小学生の甥っ子がただいま〜^と。。。



  どこにいってたん?  今日は平和登校日やん。。。。


  朝 黙とうをささげ・・秋葉市長の平和宣言を聞いていたのに・・


  妹の町では8時15分にサイレンが鳴るらしい。


  このサイレンで黙とうを捧げたよと。。。子供たちも小さい頃からそうしてるよと。。


  サイレンによって子供たちにも教えられるしねって言われました。


  去年の8・6の時、お昼のワイドショーで東に行けば行くほど関心がない・・


  この言葉を聞いて愕然とした。女性アナウンサーが広島出身の方で哀しかったと・・

  これだけ意識の差があるのかと思い知らされましたと現実なんですねと仰っていた。

  
  現に私の町でもサイレンはならない。子供の登校日でも宿題の提出物や連絡事項だけで

  終わっていたような気がする。

  最近はこの登校日すらなくなっていってる。

  テレビがあるから思い出し耳から伝わってくる現代・・

  もっといろんなものに触れ耳にし目にすることの大切さを養っていけなければいけないなと

  実感しました。

  知らん顔してはいけないんです。広島だけじゃないんです。長崎だけじゃないんですよね。

  原爆ドームに行ったとき幼い孫を連れたおばぁちゃまがキノコ雲の説明を孫にしていました。

  孫はおばぁちゃまにしがみついて こわいね。。こわいね。。と繰り返していた言葉が耳に残ってい

  ます。

  被爆された平均年齢が75.9歳だそうです。

  老齢化していくなか次世代にきちんと伝えないといけないだなって改めて感じ

  事実から目を背けることなく伝えていこうと思いました。


  9日は長崎です。   15日は終戦記念日。

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