|
妻子が2日間の予定で実家に出かけたため、久々に東海道線で近場の掛川方面に出かけました(残念ながら車は妻に持っていかれまして・・・)。城巡りなどでくれぐれも無駄遣い(基本的に史跡めぐりは無駄なことと思われています)をしないようにと言われましたが、我慢できませんでした(笑)。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
こんにちは、ゲストさん
[ リスト | 詳細 ]
|
妻子が2日間の予定で実家に出かけたため、久々に東海道線で近場の掛川方面に出かけました(残念ながら車は妻に持っていかれまして・・・)。城巡りなどでくれぐれも無駄遣い(基本的に史跡めぐりは無駄なことと思われています)をしないようにと言われましたが、我慢できませんでした(笑)。 |
|
上州は東国における有数の古墳王国です。このあたり国史跡の保渡田古墳群も有名です。榛名山の南東は車郡(くるまのさと)と言われ、群馬の語源にもなったようです。 |
|
高崎城は烏川左岸沿いの平山城で、和田氏によって築かれた和田城が前身です(長篠設楽原の戦いで和田業繁が戦死)。 家康の関東入府に従った井伊直政はまず榛名山麓の箕輪城に封じられましたが、中山道の要であった和田宿が重視され、慶長3年(1598)和田城を大改築して入城。 城を囲郭式に構え、町家や寺院を移転させて遠構えにし、城下を整備しました。 明治維新後に、歩兵15連隊の兵営となったことで、城の建物は取り壊され、近年は都市化が急速に進み公共施設などが集まり、三の丸の周囲の土塁や堀のほかは見る影もない状態となりました。 旧大手門跡付近、群馬の音楽の殿堂・群馬音楽センターの東に、江戸初期に作られたという乾櫓が昭和52年に移築・復元されています。民家の納屋として使用されていたとのことで、貴重な遺構であり県重文となっていますが、櫓下の石垣(本来高崎城には石垣はありません)は模造です。 また乾櫓の西隣には、大手門南方の出枡形北側にあった東門が昭和55年に移築・復元されています。乾櫓・東門裏手に櫓の説明板などが設置されていて塁も見られます。 下調べもしていなかったので、旧和田城の櫓台跡を訪ねようと出かけてしまいましたが、国道の建設工事のため既に滅失してしまったようです。 市指定にもなっていたようなのですが、非常に残念なことです。 |
|
箕郷町西明屋字城山に残る『箕輪城跡(昭和62年12月17日国指定)』を大学時代以来再訪してみました。 最近背広姿での攻城がかなり多くなっています(笑)。 何度見ても壮大な空堀には圧倒されます。関東では珍しい随所に見られる石垣遺構も含め大部分が井伊直政時代の遺構であり、長野氏時代の遺構が明らかではなく残念ですが、近世城郭への移行過渡期の姿を示した貴重な平山城です。 ちょうど発掘現場の埋め戻し作業中で、係の方にお話を伺うことができました。 先月2月18日に発掘調査現地説明会が行われましたが、残念ながら時期が合わず参加できませんでした。 平成10年から基礎資料収集を目的として実施してきた発掘調査は終了したとのことです。 今後の史跡公園整備は井伊氏在城時の姿の整備復元に求めていくことになりそうですね。 |
|
群馬県高崎市(旧多野郡)吉井町に所用があり、上信電鉄を利用し、町内下奥平にある奥平氏の居城を散策しました。 奥平城は、北側の申田川と南側の桜沢に削り取られた南北80m、東西200mの平城です。大手口には城跡碑や説明板が建てられています。搦手側にある武道原と空堀跡や九台には屋敷跡もあり、墓地の一角に一族の墓石とともに『奥平家発祥之地碑(昭和16)』が建っています。 奥平の地は、鎌倉初期に氏行が甘楽郡司となってから代々の所縁の地です。 八代目の貞俊が天授年間に三河国作手郷川手(愛知県新城市)の山崎氏を頼り移り、奥平に残った一族はその後武田氏に滅ぼされたと伝わります。なぜ父祖の地を捨てて奥平一族が三河国に移ったのか、諸説あり事実は闇の中です。 散策は、主に当地在住のY氏の案内と送迎サービスにより快調に進みました。 散策後にY氏のお宅をお邪魔し、史料や編纂の話題で盛り上がり、その後私の恩師に話が及び、赤面することしきりでした・・・。 たいへん充実した時間を過ごすことができ、感謝の気持ちでいっぱいです。 |
[PR]お得情報