歴史・文化の町<倉敷>周辺の隠された魅力

地元倉敷に住み 倉敷を愛する「倉敷王子」が見た<倉敷周辺>を紹介してゆきます.

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 昔,吉備の国と呼ばれた頃,巨大な勢力を持つ豪族がいたことは事実であると
言われたいる.五世紀前半に巨大な古墳が多数出現していることからも伺い知る
ことができる。中でも,造山(つくりやま)古墳は全国4番目の大きさを誇る前方後円墳だ.
 
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前方後円墳_こうもり塚古墳(後円部)
 

 五世紀末〜六世紀初頭には,畿内の大王(オオキミ)の支配下に組み込まれと推定され,以後は巨大古墳は全く作られなくなった.しかし規模はやや小さくなったものの,畿内の大王の支配下にあて,六世紀後半にも花崗岩を使った横穴式巨石墳墓が作り続けられていたことに驚いた.
 
 こうもり塚古墳は六世紀後半に作られ、当初は黒姫塚とも呼ばれていた.同時期には,同じ横穴式の巨石墳である箭田(やた)大塚古墳(倉敷市真備町箭田),牟佐大塚古墳(岡山市)が作られている.

 地元の人の間では,備中国分寺と国分尼寺との中間地点にある<こうもり塚古墳>には,仁徳天皇の妃で,美人で評判の吉備の国の豪族の娘<黒姫>が葬られていると信じられている.最近の研究でこの古墳は,黒姫が生きていた時代(四世紀初頭)よりもかなり後(六世紀後半)に作られていることが明らかになっているにも関わらずだ.
 

 こうもり塚古墳についての,地元に伝わる口碑では,仁徳天皇は,美人で評判の吉備の黒姫を宮中に呼び寄せたが,皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)のいじめに耐えきれなくなり,生れ故郷である吉備の国へ,苦労しながら逃げ帰ってしまったということだ.
 
 黒媛に未練のある仁徳天皇は,皇后には淡路島に狩りに出かけると嘘をついて,黒姫に会う為に,吉備の国へ出かけてきたという.
 
 
仁徳天皇と黒姫とのロマンの詳細
 
 仁徳天皇は元の名前をオオサザキの命といい大和朝廷の大王(おおきみ)であったが,干拓事業のため難波に出向き,高津宮にて政治をしていた.
 
 彼は応神天皇の皇子であった時代から,大阪湾の干拓事業,住吉の港の開港,<枯野>という巨大船を築造などを手掛けただけでなく,民家からかまどの煙が昇らないのを見て、税のとりたてを三年間見合わせたことでも広く知られている.
 
 仁徳天皇は,最初に,諸県地方(後の三俣院)を支配していた大夷持命(オオハナモチノミコト)の妹で,美しいと評判の高い髪長姫と結婚した.
 
 実は,当初,仁徳天皇の父である応神天皇はが髪長媛の美懇の噂を聞きつけ,彼女を宮中に呼び出したのだ.この時,第四皇子であった頃の仁徳天皇が願望して,彼女を自分の妃にしたものだ. しかし彼女は,仁徳天皇との間に,一男一女をもうけたが,彼女は若くして死去してしまった.
 
 次の妃として,天皇家の家臣にあたるタケノウチノスクネの血筋であった磐之媛(イワノヒメ)と結婚したが,父である応神天皇が死去した.
 
応神天皇には妃が10人いた(その子供たちの総勢は26名).

 応神天皇には妃が10名,総勢26名の子供がおり,後継を巡る権力闘争の中で,磐之媛は,葛城氏の勢力を背後に画策し,苦労の末に,夫であるオオサザキの命を天皇に仕立てた(仁徳天皇).
 
 苦労して権力を手に入れた磐之媛命は,葛城氏に匹敵する吉備の勢力に反発を感じていたこともあって,次の第一の事件が起きた.
 
 仁徳天皇は,結婚して間もなく,美人として知られていた吉備の国の黒姫の噂を聞きつけ,吉備の海部直(あまべのあたい:水軍の長官)の娘である黒姫を妃に呼び寄せたが,このことを知った皇后の磐之媛命は,錯乱状態になってしまい,自身の所有する多くの品を叩き割った.その品物の中に,仁徳天皇から貰った<ゴホウラ貝の腕飾り>もあった.

 女官の機転で,とりあえず黒姫の身分を采女(うねめ)とすることにして,錯乱する磐姫命の機嫌を鎮めた.
 
    菜女(うねめ)
    :朝廷で天皇や皇后に近侍し食事などの身の周りの世話をする女官

 それでも腹のおさまらない磐之媛命は,自らを大后と呼ばせ,黒姫のことを“海賊の娘よ”と,ことある毎になじり続けた.そんなある時,大后は黒姫の持っている<ゴホウラ貝の腕飾り>に気が付いた.
 
 実は,仁徳天皇は,以前に大后に贈っていたものと同じ<ゴホラ貝の腕飾り>を黒姫にも贈っていたのだ.

 大后は,仁徳天皇から贈ってもらった<ゴホウラ貝の腕飾り>を自身が壊して捨てたことを忘れ,黒姫が盗んだとして,黒姫を<吉備の国へ追い返せ>と命じた.

 仁徳天皇は,二人に同じ品を渡したことにひけめを感じて,口だしをする事ができず,ただ高台に登って,黒姫の船出を見送る為に高台に上り,歌を詠んだ.
 
 『沖方には小舟つららく黒鞘の まさづこ我妹国へ下らす』

 しかし,すぐさまこの歌が<磐之媛命>に伝えられると,怒った磐之媛命は追い出した黒姫の後に使いを走らせ,黒姫を徒歩で吉備へ帰すよう命じた.
 
 ふびんに思った者が,黒姫に小舟を用意したが,黒姫を乗せた船は,落雷と暴風雨の為に,須磨の海岸に打ち上げられ,女の家臣だけが助かった.

 一行は徒歩で吉備に向かったが,途中,吉備の国と播磨の国の国境にある八木尾の関所に辿りついた. 関所の取締り官の伊太比は,破れた衣を身につけてはいるが,どこかしら気品の感じられる一行を見つけ,父の佐伯命(和気氏七代の伊比遅別王)に報告した.

 この時,黒姫は,旅で目が見えなくなってしまっていたが,一行が吉備の黒姫であることを知った佐伯は,早即,吉井川のウナギを黒姫に食べさせたところ,黒姫は見る見る内に健康を回復し,目も見えるようになった.これこそ神村山に鎮座する神々の神通力と信じた黒姫は,天皇との再会を一心に神に祈った.
 
 大和と吉備の勢力との結び付きが国の安泰につながると考えた佐伯命は,二人をめぐりあわせる計画を考えた.
 
 彼の計画では,仁徳天皇に対しては,『淡路島へ行くと告げて船で西へ向かいなさい.このことに気づいて,追手が黒姫の住む玉島方面の海上探索が厳しくなる頃,吉井川を溯りなさい.そこに私が黒姫を呼び寄せておきましょう』と,計画の全貌を歌にしたため,紙では無く口伝で女官フミヒメにゆだねた.

 フミヒメの歌を聞いた仁徳天皇は,すぐさま<淡路島へ国見に行ってくる>と告げて旅に出た.天皇が淡路から明石へこっそり渡った頃,運よく暴風雨がふき荒れた.天は黒姫に味方し,嵐のため,朝廷との連絡が途絶えた.
 
 明石に待機していた伊太比は,仁徳天皇を吉井川の上流である佐伯へと案内した.吉井川の中流にある山方は佐伯命の本拠地であり,現在の「ふれあい橋」の付近は,そのころ吉井川を挟んで鳥居がつながっていた.
 
 二人はこの鳥居の列を、舟でくぐり再会を果たすことができた.そのとき二人は,舟が近寄るのももどかしく,身を乗りだしてお互いを引き寄せたという.
 
 行宮の用意が整わなかった為,佐伯命は二人に八木尾にあった自分の宮所を貸し与え,二人に束の間の逢瀬を約束した.
 
 
 翌朝,天皇が目覚めてみると一夜を共にした黒姫の姿が見えなかった為,あわてて建物の外に出てみると,黒姫が天皇に差し上げる吸い物に入れる青菜を摘んでいる姿を目にした.当時,食事を出すことは,大和朝廷への服従を意味していたという.

 天皇はその傍らへ寄り添い,以下の歌を詠んだ.
 
    『山方に蒔ける青菜も吉備人と 共にしつめば楽しくもあるか』

 やがて,天皇は,別れにあたり,黒姫はその胸の内を歌に込めた.

    『大和方に西風吹き上げて雲離れ 退きに居りとも吾忘れめや』
           通釈】
           大和の方へ西風が吹き上げて,
           雲が離れ離れになるように遠く隔てられておりましょうとも
           私は忘れなどしません
 
 さらに
     『大和方に往くは誰が夫 子守鶴の雛よ這えつつ 往くは誰が父』
 
と詠み,子供が宿った事を告げた.
   
 しかし,朝廷とのいざこざを避ける為には,このことを秘密にしておく方が良いと考えた黒姫は,すぐさま
 
   『大和方に往くは誰が夫 隠水の下よ這えつつ 往くは誰が夫』

          通釈
          地下水でもよいから,愛しい人の住む大和へ流れておくれ”
 
と詠み直した.
 やがて,天皇は大和に帰り,黒姫はかわいい姫を生む.そして何年かが過ぎ,
二度目の事件が起きた.
 
 皇后が豐樂(とよのあかり)の祭祀を催す為に必要な御綱柏(みつなかしわ)を採りに紀ノ國に出かけた留守の間のことである.この時,仁徳天皇は,異母妹に当たる八田若郎女(=やたのわきいらつめ)を妃として宮中に入れたのだ.

 <天皇が新しい妃と昼夜を問わず戯れている>との情報を知った磐姫皇后は,船に乗せた全ての御綱柏を全て海に投げ捨てた.その地を今では<御津前:みつのさき>と呼ぶようになった. 怒りに震える皇后は淀川を遡り,山背(やましろ)の筒木(つづき)に住む韓人(からびと)の奴理能美(ぬりのみ)の家に入り込んだ.
 
 
 その後,天皇は,<鳥山:とりやま>や<口子:くちこ>に歌を持たせて使わしたが,皇后も歌で返すのみであった.ついに天皇自らがやってきても難波にある高津宮には帰ることなく,その地で生涯を終えた.天皇と皇后が歌ったは六つに及んだ.
 
 更にその後,政略のため,仁徳天皇は<八田若郎女>を正妻に迎えたが,あえて子を生もうとしなかった.彼女は,黒姫とその子の事を聞き,二人を祝福し,慈愛をこめて生まれた姫が無事育つようにと,黒姫に田と倉を与えた.

 更に,姫に,<矢田姫>の名前を授けた.その田のあった所は<八田若郎女>の名をとり,矢田部という地名になり,国の屯倉(みやけ)だということで三宅(加三方)という地名になったと言われている.子供の居ない筈の八田若郎女の御子代田が佐伯にあるのには,はこういう背景があるからであると言われている.

仁徳天皇の妃(磐姫:いわひめ)の,仁徳天皇を想う情熱的な歌
 
 秋の田の穂の上に霧(き)らふ朝霞、何処方(いづへ)の方に、わが恋止(や)まむ
    ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
    君が行き 日け長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
    かくばかり 恋つつあらずは 高山の 磐根し枕まきて 死なましものを

高台に上って,黒姫を乗せた船を見送る時に詠った仁徳天皇の歌
 沖方(おきへ)には 小船(をぶね)連ららく、くろざやの まさづ子吾妹(わぎも)、国へ下らす
 

   注 
   黒姫山古墳
   こうもり塚古墳以外にも,黒姫の墓と伝えれてきた古墳(黒姫山古墳)がある.
   当初,仁徳天皇の妃である黒姫の墓と伝えられてきたが,1947年からの
   調査から多数の甲冑や武器が出土したことから,土地の豪族である丹羽氏の
   墓と推定.
   全長114メートル/堺市三原区黒山629
 
   磐姫命
   武内宿禰の孫.父は葛城襲津彦(かつ゛らきのそつひこ)
   葛城氏は,金剛・葛城連峰の麓で,4世紀末から5世紀にかけて栄えた豪族
  
   八田若郎女(やたのわきいらつめ) 
   別名は八田皇女(やたのひめみこ),矢田皇女.生没不明
   父は応神天皇,母は宮主宅媛.仁徳天皇の妃になることで皇后と不仲に   
 
 
 
 

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