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二〇〇六年九月一一日(月) 午後二:〇八
「大塩のエッセイ」・黒澤明監督「まあだだよ」・「中島敦の芝居」・『戦中派不戦日記』を読む(第四回)

◎ウインドウズメディアのラジヲチューナーでジャズギター曲を聴きながら書き始める。
宇津木静区直筆書簡の入力もようやく果たして、幾分ほっとしている。
残っている佐野市歴史博物館の須永元文書の、静区愛弟子の岡田恒庵史料も、おいおい入力しなければならない。

◎九日の土曜日、森安彦先生(元国立史料館長、NHK学園の「古文書通信」監修者)から「古文書通信」第七十号を送付いただいた。
巻頭のエッセイ「大塩平八郎の乱―師弟から主従へ―」を発表しておられた。
宇津木静区が師大塩に対し、挙兵に当たり大塩と主従になることを拒絶したことが触れてあり、お手紙の末尾に「学恩に深謝します」と、お言葉が添えてあった。

◎山田風太郎「戦中派不戦日記」を昨十日の日曜日、読了した。所用・雑用・研究の合間になんとか読み終えた。
午前四時、地下の書斎で感銘深く頁を閉じた。末尾に短く鉛筆で走り書きした。
「久しく感動したことのなかった本、今にして出会えてとてもよかった。本書から学ぶこと実に多し。この時代(昭和二十年)に山田青年(二十三才)と同年ならば大いに共鳴したであろう。還暦を過ぎてなお大いなる影響を受けたのだから。」
追々、気になった記述、又、余の居住する世田谷、特に三軒茶屋に関する記事を取り上げてみたい。

◎昨夜、ネットで、「日本の古本屋」と「アマゾン」から、山田風太郎著『戦中派虫けら日記』(昭和十七―十九)『戦中派焼け跡日記』(昭和二十一)『戦中派闇市日記』(昭和二十二―二十三)を発注した。
残るは『戦中派復興日記』『戦中派動乱日記』だが、いずれ買いそろえるつもりだ。

◎ビデオテープに録画してあった黒澤明監督「まあだだよ」を、深夜二日がかりで見た。
てっきり黒澤監督の原作とばかり思いこんでいたのが、テロップで内田百里斑里蝓⊂々ショックだった。
主演の松村達雄は畢生の名演技たること誰も疑わぬであろう。それほど見事だった。井川ひさしのうまさは堂に入ってるが、意外や所ジョージがはまり役で、演技者としては余り見慣れぬ存在だけに新鮮だった。
中に「オイチニの唄」の行進が仕組まれ、この映画の持つ反戦思想、戦争をカルカチュアライズした中にシニカルな主張が見られ、「オイチニの唄」の行進がクライマックスであり、作品の核心だと思った。
そのときの唱和が印象的で、テープを見直して拾ってみたい。書き上がったら、ここに書き連ねよう。

◎七日は宇津木静区直筆書簡を読みに、又ゾーエーへ行く。アートブレイキーとジャズメッセンジャーズが鳴っている。本当に久方ぶりで、もっとも有名なブルースマーチやカムレイン・オア・カムシャインに酔いしれる。
店内は女流画家の抽象画が展示され、大きめのタブローがゾーエーに馴染まない感を禁じ得ない。

◎ここ数日かかって、江戸漢学の復習・清書を仕上げた。
久喜市のH氏と小金井市のO氏へ参考にコピーを今日十一日郵送した。
三軒茶屋のキャロットタワー内の世田谷バブリックシアターでこの十八日まで公演の、中島敦原作「山月記」「名人傳」のちらしを同封。
昨年九月の再演である。今をときめく野村萬斎主演。
中島敦は東急世田谷線(かつてジャリ電、その後は玉電と呼称)の世田ケ谷駅のすぐ北裏に住んでいた。
結核で入院したのは、そこから西南のほど近いボロ市通りの岡田病院で、現在の世田谷中央病院である。
先年旧宅跡を調査したが、少し前に敷地にマンションが着工しており、文字通り見る影もなかった。
駅前通の古くからの商店のおかみさんに尋ねてみたが、敦に関する確実な証言を得ることはできなかった。
漢学者中島撫山研究者として、その後裔の作家中島敦の伝記も刊行されている村山先生は、
シルクロード旅行から帰国のその週末に敦原作の芝居を御覧になるとおっしゃつた。
異郷の旅行の疲れが出たため、小生は芝居の観覧を自重した。
昨年BS放送で芝居が放映され、テレビで見ることが出来た。
数年前、イギリスの劇団によるシェークスピス劇(マクベス)を見に行ったことがある。
こうした稀なる芝居が、山田風太郎青年が昭和二十年初頭に住んだ三軒茶屋町百六十九番地と指呼の間で上演されるようになったのだから、世田谷という土地柄も文化的になっているのだろう。

◎『戦中派不戦日記』から、
昭和二十年六月三日
○朝、自転車で下目黒の焼跡へいってみる。(※五月の東京大空襲後)
○午後、新しい家を探して、二人で世田谷区三軒茶屋へ自転車を飛ばす。路々ほとんど焼け野原だ。もう東京には、めぼしい、町らしい一劃は存在しないだろう。
勇太郎さんが心当りの三軒茶屋の家は、家主が焼け出されてそこに転がり込んでいたのでダメだった。
昭和二十年六月六日
○それは東京にB29がまいていったもので、ハガキの二倍大、表には聖路加病院の写真が色刷りであり、裏には「米国から日本への贈り物」と題打って、大体次のような意味の文句がかいてあった。
「日本の軍部は天皇陛下の御裁可を経ずして真珠湾を攻撃した。・・・吾々の敵はこの野心的な軍部であって君達国民ではない。・・・君達の勇敢なことは吾々もよく認めた。しかし戦いは明らかに君達に不利である。この上の抵抗は無益な犠牲を増すばかりである。米国の船舶航空機の生産力は、日本とは太陽と星ほど違う。君達が戦うなら、吾々は一物もなきまでに徹底的に大爆撃を反復する。しかし吾々は平和を愛する。そんな暴力を逞しうするに忍びない。日本国民諸君よ!君達の幸福はまず劔を置くことから始まる。そして戦争以前の友達になって米国に手をさしのべてきたまえ。・・・」
(※続きは又)

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