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二〇〇六年九月二一日(木) 午後一:四八
撮影監督福沢康道氏の訃報・『戦中派不戦日記』を読む(第八回二十年十月一七日から一月五日)
◎撮影監督福沢康道氏の逝去
朝日新聞朝刊三五面の訃報欄に目をやると「福沢康道さん」が出ている。
三週間後の訃報であった。
福沢さんとは、かつて記録映画制作で随分お付き合いさせていただいた。遺跡発掘や古民家の移築復元など。
劇映画の撮影カメラマンとしての業績の影にお住まいの地元の文化遺産記録にも活躍されたのである。
人柄は優しく穏やかであるが、たとえ記録映画制作の現場であっても、ひとたび仕事に立ち向かうと、時に命の危険も臆せず立ち向かう姿に、傍らの余など緊張に震え、涙さえ出る始末だったことが甦ってくる。訃報欄を再掲させていただく。
「福沢康道さん=映画撮影監督。八月三十一日死去、八二歳。葬儀は近親者で済ませた。葬主は妻久子さん。連絡先は日本映画撮影監督協会。黒澤明監督の下で撮影助手を務め、撮影監督に。作品に黒澤監督「どですかでん」、成瀬己喜男監督「女の中にいる他人」など。「ウルトラマン」などのテレビ作品も手がけた。」
晩年は世田谷を記録する会のメンバーとして、文化遺産の記録保存に大きな役割を果たされたことは、残念ながら触れられていない。
撮影の合間のひととき、黒澤明監督と仕事をしたことを語って聞かせてくれた。
黒澤監督作品のセカンドカメラマンを務められた。
今にして思えば、もっと積極的に成瀬監督とのことなど伺っておけばよかったと悔やまれる。
ここ何年か交際はとぎれていたが、今年の春先だった。若林のコジマ電気店でチラッとお見かけした。ご家族と一緒で、混み合っていたため挨拶を控えたのがお見受けした最後だった。「安らかにお眠り下さい」と静かに瞑目した。
◎『戦中派不戦日記』から
昭和二十年十月十七日(水)
○一度は開闢以来のクーデターを思いつつ、ひとたび下った御聖断に、そこまでいっては末代まで不忠の臣となると思いとどまった阿南陸相、聖断に従わんとする上官を斬ってなお戦わんとした将校、マリアナに最後の殴り込みをかけようと飛び立っていった特攻隊―これらの分子を含みつつ、綸言には絶対服従すべきであるとして崩壊していった大陸軍―われわれは、この苦悶の激動の中に、「後世の史家がすべてを証明してくれるであろう」と屠腹の血を以て書き残していった一軍人の叫びに全幅的に共鳴する。
今はあらゆるものが口を極めて、色々なことを叫びまわっている。尊いものも立派なものも無茶苦茶に罵っている。しかし、人間の真実はやがてふたたび日本に炬火となって甦るであろう。
昭和二十年十月十八日(木)
(※この日、山田風太郎は新宿駅に帰着する。その記から)
○或るケンブリッジ大学を卒業した紳士が米兵に道を教えたところ、米兵が煙草を与えようとした。紳士は毅然として、「貴兄は敗戦国民はみな乞食だと思っているのか」といった。米兵は愕然としまた微笑して、「私は貴方のような日本人を待っていた」云々といったという話を物語り、それに対して東條大将の醜態を痛罵し、また米兵の残飯を拾い歩く民衆を熱嘲していた投書があった。東條大将は、彼自身の理屈はさておき、軍人としてはまさに一言もない不始末である。しかし民衆は責められまい。だれもがケンブリッジ大学を出たわけではない。だれも満腹で米兵の残飯など拾いたいものではない。実際、配給ばかりで暮らしていたら、闇をしなかったら、国法を破らなかったら栄養失調に陥らない日本人は一人もあるまい。
昭和二十年十月二十一日(日)
○吉川英治『親鸞』を読む。内より発する宗教的感動一毫もなくしてかかる大冊を書き続けたる作者の線の太さには感服せざるを得ず。読むに大努力を要す。
渋谷から玉電に乗り、三軒茶屋に下りて高須さんの家を探す。霧雨に傘なく眼鏡曇り閉口す。夕方やっと探し当て、再会の悦びを述べる。
(※玉電は玉川電車の略。敷設当初は東京の都市化のため多摩川の砂利を盛んに運んだことから「ジャリデン」と呼ばれた。今は東急世田谷線である。)
昭和二十年十一月三日(土)
○午後風呂にゆき、ついでに三軒茶屋の丸通へいってみたら、嬉しや!高須さんの蒲団が来ていた。
滑稽と偉大とは一歩の差だ、とナポレオンはいった。ナポレオンは成功と失敗のことをいったのだろうが、べつの意味でこの二つの概念を連結する言葉がある。それは「悲惨」である。悲惨は多くの場合、偉大と滑稽を同時に包含している。いまの日本の民衆の生きんとする苦闘の景など、この見事な例証である。
昭和二十年十一月四日(日)
○夜橋本氏来。進駐軍より勝ったという煙草Pallmallをくれる。二十本入り四十円とか。芥川の『開花の殺人』にこの語ありしを思い出す。
昭和二十年十一月五日(月)
○大陰は巷に住むという。市井を愛するような口ぶりをする人に荷風がある。しかし市井というものは、あんまり愉快なものではない。余の上京以来の牛込袋町、五反田、東大久保、下目黒、ことごとくそうであった。今度の三軒茶屋はどうであろう。
となりの馬上吾郎という大工さんは好人物らしい。日向で鉋など鳴らしながら、「ねえ、ねえ、愛して頂戴ね」などヘンな声出して唄っている。おかみさんは無愛想で口が重くておっとりして、それだけに親切な善人である。子供がいないので、貧しく静かな生活の中に、仄かな寂しさが風のように吹いている。
東京新聞に「戦争責任論」と題し、帝大教授横田喜三郎が、日本は口に自衛を説きながら侵略戦を行った。この「不当なる戦争」という痛感から日本は再出発しなければならないといっている。
われわれはそれを否定しない。それはよく知っている。(ただし僕個人としては、アジアを占領したら諸民族を日本の奴隷化するなどいう意識はなかった。解放を純粋に信じていた)
ただ、聞きたい。それでは白人はどうであったか。果たして彼らが自国の無利益の増大を目的とした戦争を行わなかったか。領土の拡大と資源の獲得、勢力の増大を計画しなかったか。
戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き日本の邪悪のみをあげる。
それを戦争中の生きる道、敗戦後の生きる道といえばそれまでだが、横田氏ともある人が、されでは「人間実相」に強いて目をつむった一種の愚論とはいえまいか。
また平林たい子が「暗黒時代の生き方」と題して、いわゆる「転向」は「時を待つためにこの手段をとらなければならなかった、やむを得ないことであった。」といっている。それならば日本人の大部分が「今」がそうではないのか。いまが偽装を必要としない真実の時代であるというのは、盾の一面しか見ないこれまた一種の愚論ではないのか。
(※二十一日昼書く。午前中歯医者に行く。ドクターに葬儀の予定が入り、火曜が木曜になった。奥歯の被せがはずれ、延期の間に前歯の差し歯も抜けてしまう。歯質に恵まれなかったことと永年の不養生の付けが年を重ねるに従って襲ってくる。あそこもここもつぎからつぎと、嗚呼。
わがブログを少し読み直し、これはいかんと手を入れ始めた。
やはりキーボードで直接書いてゆくことは苦手である。長い習慣で、紙に書いたものでないと前後の意味合いなどの吟味がうまくゆかないのである。そこで、すでに発信してしまったが、紙に打ち出して校正している始末である。今後は、一太郎で打ち、紙に出して読み直してから、ブログへ転記することにする。読者諸賢、御宥恕のほど宜敷御願いする。斉魯生白す)
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在ブラジルの岡村淳と申します。
35年ほど前に世田谷区での遺跡調査に調査補助員として関わっておりました。
福沢康道さんのことを調べていて、福沢さんの世田谷での文化財記録について唯一、オンライン上で発見できたのが御ブログでした。
当時の調査員の長井茂春さんも亡くなり、感無量です。
2013/12/23(月) 午後 3:49 [ okamura ]
岡村淳様
遺跡調査団当時のこと思い出しました。
御返事が遅れましたのは、この間、体調を崩してブログの授発を怠っていたからで、お詫び申し上げます。
「世田谷を記録する会」の福澤さんとの思い出は数有りました。
地域の遺跡保存に情熱を燃やされた長井茂春さんとの思い出もあります。
小生は遺跡調査会を統率する責任者として、多くの調査員、調査補助員の方々と接しましたが、岡村様の御名前、お顔が残念ながら思い出せません。
十菱さん、大槻さんといった指導者ともども本当に多忙な日々でありました。
遺跡発掘の映画も数本作製しましたね。
格別、成城学園の石原裕次郎邸の発掘のときは見学者が千人を超えたりして大騒ぎでした。
連日報道陣でごったがえりました。
岡村様はブラジルで何をなさっているのでしようか。
長井茂春さんがお亡くなりに成られたことも知りませんでした。
はるかな地球の裏側で世田谷区の文化財のことなど思われて下さり、感激です。
どうかまたご連絡下さい。
260130
倉島幸雄拝
2014/1/30(木) 午後 9:11 [ kur*sh*ma*0062*00 ]
ご返信ありがとうございました。
お体の方はいかがでしょうか。
ブラジル・サンパウロは観測史上初という猛暑が続き、水源地の渇水が迫っています。
倉島さんのお名前は、長井さんがお元気なころによくうかがっていました。
石原裕次郎邸の発掘は僕も参加していまして、あこがれの映画人たちにナマでお会いできて感無量でした。
僕は考古学徒を経て、日本映像記録センターというテレビドキュメンタリーを専門に製作する会社のスタッフとなり、南米の長期取材を繰り返しているうちに、自ら移民となってしまいました。
現在はすべて一人でドキュメンタリーを制作しています。
今月末からひと月ほど訪日して、各地で上映や講演を行ないます。
お近くでは下北沢で3月1日に拙著がらみの対談イベントを行ないます。
http://bookandbeer.com/blog/event/20140301_bt/
この本で、縄文文化研究者だったことをカミングアウトいたしました。
2014/2/12(水) 午後 8:38 [ okamura ]
ご連絡、書き込みいただき御礼申し上げます。
三月一日の場所、時間等お知らせ下さい。
都合の付き次第お目に掛かりたいと願っています。
その昔、活字による郷土史発掘から、映像による郷土史編纂を考え、発掘のドキュメント以外、古民家の解体復元、世田谷の民俗、鍛冶の仕事、仏像の修復、彦根藩井伊家世田谷領代官大場弥十郎を主人公にした歴史ドキュメント、太子堂物語など、世田谷を記録する会の人々と随分制作したものです。
福澤康道氏は世田谷を記録する会の有力メンバーでした。
ご連絡をお待ちします。
不乙
260215
岡村様
倉島幸雄拝
2014/2/15(土) 午後 9:29 [ kur*sh*ma*0062*00 ]
ブラジル出発2日前となりました。
3月1日の下北沢のイベントのリンクを貼らせていただきます。
http://peatix.com/event/29290
この日は埼玉深谷で拙作上映が並行して行なわれるため、トーク終了後、すぐに深谷に向わなければなりません。
福沢さんの世田谷関係の作品の上映を望んでやみません。
4月19日は下高井戸シネマの「優れたドキュメンタリー映画を観る会」選出作品上映で拙作を上映していただくことになりました。
2014/2/22(土) 午前 8:50 [ okamura ]