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平成十九年八月二十九日(水) 第八十七回
「「車夫の世界」その八」

◎「車夫の世界」その八


 最後の車宿日吉組

 芳町の次に古野翁が働いたのが新橋の車宿「日吉組」で、昭和三十一年、五十五歳になっていた。
 日吉組は日本で唯一現存する「番」と呼ばれる車夫の共同組織で、新橋から築地、新富町一帯にかけて芸者衆など花柳界のお客を乗せ、お使いを引き受けている。
 昭和四十五年に二十三人いた車夫が、昭和五十一年には八人に減り、平成元年、四人となった。
 日吉組は中央区銀座七丁目十六番二十号にあり、古野翁の車夫名は「みやさん」を称した。

 牧医院の抱えの時代、子供の寺内大吉さんを知っていたが、ある日「日吉組」へ取材に来られ、牧医院で働いたことをお話すると、「あゝ、おれ子供の時分だな」と覚えていた。
 寺内氏のドキュメント「大吉和尚潜行記1乗せる哀歓・人力車夫」(東京の下町の一隅に今も細々と残る稼業を自ら車夫となって体験する!)は、昭和四十四年二月号の雑誌『旅』に発表された。古野翁との出会いが触れられているので紹介させていただく。

 「昭和初期でほろんだと言われた人力車が、自動車の洪水となった現在まだ東京の街を走っていると聞き、銀座東急ホテルの裏手にある〃車溜り〃を訪れたのであった。
 古いビルの右側とっつきの部屋。と言っても一坪半ばかりの三和土の空間で、天井にはビルの階段の背骨が迫っていた。終戦後よく見かけ、ぼくら自身も使用したあのニクロム線が燃える電気コンロが一つ三和土の床に置いてあるのもいかにも佗しい。
 だがその溜りにあふれるように集まった昭和の車夫たちの表情は以外に明るかった。

  「あんたは世田谷のお寺さん?」
  と年かさの車夫がいきなりたずねてきた。
  「そうだよ」
  「大吉寺さん…昔はよくおたくへもいったもんだ」
  「うちへ?何しに」
  「ほら松陰神社にMさんというお医者があったでしょう。あっしはそこ
のお抱え車夫だった」
  「Mさんの…ぼくはあの先生にずーっと身体を診てもらった」
  「お寺さんが地主だったんですってねえ」
  「先生はもう亡くなったよ」
  「知ってます。いい先生だった」
  早くも小さな歴史がこの狭い車夫溜りのなかで点述されてゆく。
  だがぼくには、人力車で乗り込んできたM先生の記憶はない。ぼくがか
かったころはすでに自動車だった。死んだ母や姉たちの時代であろう。
  (中略)
  ぼくの近所のM医院にいた人は根っからの車夫、もちろん年配である。

 「日吉組」にまつわる話も、紹介させていただく。
 新橋には「大清」と「日吉組」の二軒の車宿があったが、それが合同して日本最大の車夫溜まりとなっている。昭和四十四年現在の「日吉組」の車夫は二十六人であった。
 「大清」の所在地は銀座東八丁目十五番で、昭和三十四年には二十三、四人の曳き子を抱えていたことが、昭和三十四年五月号の『別冊週刊サンケイ』のある人生記録「人力車と共に半世紀」に述べられている。
 「大清」の土間には、小型の釜がいくつとなく並んでいて、車夫らがてんでに飯を炊いていた。総菜は買って来ての自炊で、食べる時間も分量も違っていた。
 「日吉組」の方は昭和十六年には存在していたことが、車夫であった佐藤伊勢松氏の経歴から明らかになっている。(昭和五十三年一月十一日付『読売新聞』の「人&人」欄)
 これ以外には赤坂に十一、二台、浅草、葭町、柳橋が各三、四台程度である。
 「日吉組」のオールキャストは、日文、目玉、日徳、日六、日豊、日音、日重、日芳、日山、日梅、日栄、日清、日良、日大、日虎、日定、日宮、日高、日金、日直、日秀、日米、日福、日秋、日新、日伸が壁の木札の名である。
 「日吉組」は完全な組合制度で親方がいない、搾取やノルマがない。二十六人の車夫全員が社長だ。
 人力車はみな持ち込みで、二十六台が母衣掛けである。
 一回の料金はせいぜい築地までで百円。

車夫の符丁でゆっくり行くことを、「柳(やなぎ)」、「柳でいく」と言い、梶棒を上げて走るとお客が反っくり返って苦しいことを、「ダルマ」と言った。
 重心の高い人力車は転びやすく、人力車の重量制限、重量オーバーは、二十五貫目(約九十四キログラム)が限度だという。
 僧職にもある慧眼の作家寺内氏は、次のような言葉で締めくくっている。

 正直にさえ仕事をしていればみんなに可愛がられる。そんな社会は、ほかにやたらとないはずである。
 それというのも取り残されたものの余禄であろうか。時代の中心を歩けばそこに苦しみがある。現代をうまく生きてゆくためには、まず時流に取り残されることこそだいじなのではあるまいか。

 寺内氏が取材された昭和四十四年から三十三年を過ぎた今日においても氏の言葉はますます重く、共感共鳴させられる。
 戦後さまざまな雑誌や週刊誌に数多く発表された人力車に関するドキュメントやリポート類の大半が、車夫を興味本位に捉えた中にあって、「大吉和尚潜行記」は、人力車研究においても貴重な記録であるだけでなく、ドキュメン卜の域を超えた文字通り哀歓をテーマの文学作品として希少である。

 昭和四十九年、古野翁は日吉組に入ってから十八年、七十三歳になった。もう年だから辞めようと、ついに車夫業を廃した。
 若いころ、中野駅で七十歳を過ぎた老車夫を見て、あの歳でやれるのかなと思ったが、現実に七十三歳となって、まだやろうと思えば出来ないことはなかったが決断した。辞めるに際しても退職金などなく、逆に引き祝い十万円を包んだが、菓子皿を記念にもらった
だけだった。
 日吉組を辞めたが愛用の人力車は手放さずに持っていた。茶色の母衣地は船の帆布で丈夫なものだった。買いとる人がいたらそれですべておしまいにしようと思っていると、群馬県の不動産業東邦商事株式会社社長益子四平氏が売ってくれないかという。そんなに欲
しいならと譲ってしまった。昭和四十九年五月二日、東邦商事(株)へ出掛けてみると、長年親しんだ人力車が店に飾られていた。あれからもう十五年の余も経ってしまった。

 古野翁の住まいは渋谷区本町二丁目、幡グ谷不動前の通りを南へ入ったところである。部屋貸しの上がりで食べてゆかれるので、子供たちのやっかいにならずに済んでいるという。
 江戸東京博物館が平成四年に完成するので、昔の車宿を復元して博物館にはめ込む話があり、一役買ってくれと頼まれたという。
 今も町会の人があてにして頼みにくるので、地元の不動の祭りを手伝っている。祭りが終わると朝早く町会全部へ殺虫剤を撒き、それからみんなで一杯やる。
 いっとき視力が衰えたが、最近はいくらかよくなっている。平成元年六月に奥さんに先立たれたが、一人暮らしの日々を元気で過ごせるのは、車を曳いてきたお蔭だという。
 車夫の仕事は大金が取れるということもなく、つねに身ひとつで一家を支えていかねばならず、生涯そう楽しいこともなかったと述懐された。        

(※古野永治郎翁にはじめてお目にかかったのは、平成元年十一月十八日。人力車に関心を持つ人々によって日本で最初に催された「人力車セミナー」の会場だった。翁の実演と話を聞いた人々は、筋金入りの中に謙虚で誠実な翁の人柄を目の当たりにして一様にうたれた。
本稿は、平成三年の取材に加え、名著『人力車』の筆者斎藤俊彦先生が同セミナーのために作成した「古野永治郎翁の記録」を一部参考にさせていただきました。取材に同行してくれた藤原英則氏、資料を送ってくださった瀬村進氏にお礼申し上げます。
長い車夫生活の中にあって、戦前、戦中の混乱期を世田谷で稼業し、足跡を証言してくださった翁は、平成十年十月十四日、九十六歳で長逝された。再三の取材に快くお話下さった翁のご冥福をお祈り申し上げます。)

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一時日吉組で車を引いたことがありましたがこちらに書かれていることは初めて知ることで大変興味深く拝見いたしました。
ありがとうございました。

2015/4/18(土) 午後 11:58 [ 脱線王 ]


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