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平成二十五年八月十七日(土) 第五百四十四回
今日また炎暑日
「永井荷風の訪れた松陰神社と豪徳寺」 「江戸の書家寺本海若をめぐって」 ○永井荷風の日記『断腸亭日乗』を見ていて、大正十三年十二月五日、荷風は松陰神社から豪徳寺を訪ねていたことを知った。
関東大震災から一年余のときである。 「十二月五日。立冬以後日々快晴。気候温和なり。午後世田ケ谷村三軒茶屋を歩み大山街道を行くこと数町。右折して松陰神社の松林に憩ひ、壠畝の間を行く。朱門の一寺あり。勝園寺の匾額を見る。門前の阪を下り細流を喩え豪徳寺の裏門に至る。老杉欝然。竹林猗々。幽寂愛すべし。本堂の檐に参世仏及び天谿山の匾額あり。豪徳寺は井伊掃部頭の菩提所なること人の知る所なり。松陰神社を去ること遠からず、又祠後の松林に頼三樹等の墓碑を見る。呉越同舟の感なきを得ず。」
立冬の快晴の中、荷風は三軒茶屋から畠を見ながら松陰神社まで歩き、さらに豪徳寺へと出向いている。
健脚である。 「壠畝(ろうほ)」とは、畠のことである。 「朱門の一寺あり。勝園寺」は、「勝国寺」が正しい。 荷風が間違えたか、多分誤植であろう。 勝国寺は中世世田谷の支配者吉良氏と縁の深いお寺で、今日も朱門である。 現在は、松陰神社と勝国寺の間には、国士舘大学と世田谷区役所が存在する。 松陰神社には吉田松陰の墓、そばに頼三樹三郎の墓がある。 いずれも我が家から十分余に位置しており、吉田松陰側と方や井伊直弼側との確執の歴史の判定者の場所に住まいしている。 いずれにしても文人永井荷風が世田谷の中でも由緒のある地を、それも関東大震災の翌年に探勝してくれたことは郷土史にとってエポックメーキングなことである。 ○七月下旬、亀田綾頼の一文「書海若遊山慕仙詩後」を学んだ。
空海の書を師と仰いで書の修行をした海若(寺本氏)のことを初めて知ることとなった。 川崎大師に、海若書の「遊山慕仙詩碑」の存在をT氏から教示頂いた。 またネットで、寺本海若の実家の菩提寺、木更津の選擇寺による「江戸後期の幻の書家寺本海若と「思亭記」碑について」の資料も得た。 海若の書した「思亭記」碑文が存在し、お寺さんへ連絡を取り、史料の送付をいただくことができた。 お陰で、伯父が遺した『古文真宝』収録の「思亭記」を読み下した。 T氏からは岩坪充雄「寺本海若の出版と書丹」(『書物・出版と社会変容』第十号)を提供頂いた。 海若を知るに好個の資料で、末尾の参考図版から北海呂俊撰の「撥鐙啓微序」を読み下したが、印刷鮮明でなく何箇所か疑問が残った。 そこで、大学の図書館へ赴き、『日本書論集成』収録の「撥鐙啓微」に当たったところ、岩坪氏所蔵本にあった「北海呂俊撰の「撥鐙啓微序」」が抜け落ちている。 というより、岩坪氏本は後刷りで北海の如畵付け加えられたものであることがわかった。 そこで、岩坪氏稿の参考図版に一部を除かせた、鴬谷亀田毅の「撥鐙啓微序」及び海若道人の「自序」のコピーを得て、読み下すことが出来た。 また『日本書論集成』からは、日下部鳴鶴の「論書三十首」を得たが、この方の訳読には手を付けていない。 寺本海若についてはこの他、『雁かね日記』から、亀田綾瀬撰文の序文(楽山清水孝の書)、早川敬明の跋文を得ているが、いずれもまだ手が着いてない。 |

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埼玉県越谷市の蓮照院という寺の墓地に中村宜秋碑という石碑があり、それが亀田梓撰、寺本永書、となっています。ご参考になれば。
2018/2/8(木) 午後 2:01 [ eiw***** ]