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衾氷川神社本祭り連合渡御・平成二十一年九月二十日
今日は九月二十六日、衾鎮守氷川神社のお祭りが終わって六日が経ってしまった。
これは遅ればせながらの報告である。今年の連合渡御は三十一回目だそうである。
終戦直後、敗戦で御祭が禁止され、進駐軍からお祭りが許可されたのは二年後の昭和二十二年だったと思う。
そして、その時、氷川様のお祭りで担いだ子供神輿は、樽に砂を積め重くした「樽神輿」だった。
その時代は樽神輿大流行の時代で、子供神輿は一斗樽、大人神輿は四斗(しと)樽の神輿だった。しかし、当平町の大人神輿は樽ではなかったと思う。大人神輿は既存の大神輿で、子供神輿は小さく頼りなかったからの樽神輿だったと思う。
神輿山車の町内巡航は、町内の水やお菓子をくれる御大尽の家々人である。休憩はそんな水やお菓子をくれる御大尽の家々であった。
その休憩で貰えるお菓子とジューシは子供たちの楽しみで、茶碗の冷酒は大人たちの潤いだった。しかし、この大人たちへの振る舞い酒は暴れ神輿同士の喧嘩や奉納金を出さない店への神輿投げ入れなどがあったことから、担ぎ手の飲酒は全面禁止となって、それ以来監視と交通安全確保の巡査が一緒に巡行するようになった。
しかし、ある台風の時は、強い雨で、べらぼうな寒さであった。そして、びしょぬれの半纏は休憩に体温の放出を助長して、体の震えが止まらない状態になった。担げば丁度よい気持ちとなるのだが、担ぐ力は残っていない。すると、休憩所のオーナーが巡査に内緒で茶碗酒を出してくれた。同行巡査は見て見ぬ振り。粋に計らってくれた。
その後、都立連合の森戸会長が台風の来る日は連合会で協議、三十分前に決行中止を発表するようになった。
子供の樽神輿は一斗たるだった。だが、一斗樽でも砂を詰めると重い。そして、私は子供でも、ずば抜けて背が高かったから、何時も花棒であった。格好はいいのだが肩に棒が食い込み痛く辛かった。
平町商店街には、既存の子供神輿と山車が昔からあった。その子供神輿と山車は小さく、神輿作成会社の人が「関東でも数少ない小さな貴重な神輿と山車。地域の文化財にすべき神輿と山車だ」と絶賛されたものだった。
そして、区の教育委員会郷土資料館に持ち込み寄贈した。しかし、展示するものが多く、展示する場所もないことから、倉庫に入ったままのになってしまったようである。その後、度々見学する区資料館で、いまだにお目にかかったことは無い。
樽神輿の後、在地平町有力者、鈴木郁哉区会議員から山車が寄贈され、既存の大中神輿と寄贈の山車を現在は使っている。
平成に年号が変わってまもなくだったと思う。一時重い神輿を担ぐことが流行、近所の尾山台や奥沢、茅ヶ崎などから大きい重い神輿を借りて担いだ。平町の大人神輿は小さく軽かったからである。
だがまもなく担ぎ手が不足、弁当飲み物を出して他所からの担ぎ手を募集、他所の担ぎ手に頼ったこともあった。しかし、顔見知りでない担ぎ手が増大、経費の不足も起きた。そこで、自前半纏とタスキを貸し出し、担ぎ手をチェック。我が平町の半纏を着ず、タスキを懸けてない担ぎ手には弁当と飲み物を出さないこととして、排除したこともあった。
その後、他所の神輿借り入れを止め、自前神輿の担ぎ棒を太く重くし、現在は担いでいる。
神輿渡御の初めは、担ぎ手が四方八方に向いて担ぎ、ぐるぐる回る「暴れ神輿」だった。お神酒も入って神輿を落としたり店に突っ込んだり。そんなことで飲酒での担ぎが禁止され、巡査の監視も付いた。
その後、自動車が増え「暴れ神輿」の渡御が難しくなり、昭和五十三年(一九七七)、現宮ビルにあった「天婦羅割烹『鈴万』」の旦那さんが「東京都心、下町の担ぎ方」を伝授、「大菊総本店二階」で竹竿も担ぎ棒に見立て練習、現在の担ぎ方となった。
連合渡御の初めはその昭和五十三年(一九七七)の氷川神社本祭りから行われた。
それは、「天婦羅割烹『鈴万』」さんの同業組合員、都立フードセンター二階のお握り割烹「がくや」さんの旦那がフードセンター会長て、都立フードセンター西脇の道を出発点として始まった。
当時の連合渡御参加神輿は、都立フードセンター、平町、都立大駅西側の富志実(ふじみ)会、平町商店街、中根商店街、都立大通りと旧目黒通り交差点あたりの都立親和会、旧目黒通りの目黒通り共栄会の五〜六基だったと思う。それが、現都立大跡地周辺の柿の木坂商和会、氷川神社門前の宮前商工会と増え、フードセンター脇では狭く、平町商店街通りが三時からの歩行者天国となったことから、現在となって、大岡山北商店街、東が丘町会も加わった。
参加神輿の多い時は八〜九基の盛況だった。しかし、担ぎ手不足となって渡御参加神輿が減り、現在は五〜六基が通年となった。
付け加えると衾とは自由が丘、都立大学、そして大岡山北本通り以西全域が氏子の範囲だった。だから自由が丘熊野神社氏子も氷川神社祭礼には参加していた。が、終戦後の早い時期、自由が丘熊野神社氏子が独立、衾の鎮守氷川神社への参拝は無くなった。
それは、氷川神社祭礼が九月の十八日十九日、熊野神社祭礼が九月二十日二十一日と祭礼日が続くことからであった。
(一部『平町商店街五十年史「わたしの平町」・平町商店が五十年史編集委員会編』参考)
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