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追っかけお会式・衾常円寺・H21・11・12
今日は浦安正福寺へ行ってのダブルヘッダーである。
常円寺は私の壇寺。参詣お参りしなければ落ち着かない。気を焦らせての浦安から帰った。が、丁度最高の時間に間に合って、やれやれだ。
何時もなら寒くて震える。だが、何とも暖かい。風邪をひいたら、即肺炎になって入院という私にとっては、この上ないありがたいことだが・・・。
小さな子供たちが「お祭り」と飛んで行く屋台が見えない。浦安の正福寺でもそうだった。無いのである。係りに聞くと「今年は御酉様の一の酉と同じ日。みんな御鳥様に行っちゃった」と言う。浦安の正福寺は小さな子供が大勢いた。可哀想なことだ。うちの孫に千円の小使いを渡して浦安に行ったのだが、ベソをかきかき家に帰ったのだろう、会えなかった。
常円寺は毎年子供お会式をやり、子供お会式が終わると、常円寺万灯講中が、旧目黒通りを万灯練り供養。お寺に帰ってきて間もなくの七時ごろ、まず最初に、衾の友寺、中根立源寺同心会の万灯が都立大通りを賑やかに歩って来る。立源寺と常円寺は、お寺のお会式に何時も最初に参詣、他の寺講中を迎える。
立源寺の後、旧目黒通り交差点から常円寺万灯練り供養が続々とやってきた。
昔は二十二基ほどの万灯が来た。今年は十五基だそうである。もう三十年、各寺のお会式を追っかけ、参詣講中を調べているW君の昨年の話では「何処のお寺も、この数年参詣講中の数は殆ど変らなかった。だけど、所のよっては講中結成が出来ずやめた講中もある」とのことだったのだ。が、今年は「東京の講中構成人数が少なくなり、参加万灯も減ってる」という。何処の子供たちも、私の子供時代も、お会式は故郷の思い出である。消えてしまうのだろうか。昔の半纏を着て団扇太鼓を叩き、横笛を吹き、鉦を叩いて纏を振る。その姿は粋で、イナセで、若い女性の目線を集めたものだ。だが、そんな女性はいなくなったんだろうか。
我が常円寺のお会式は、近在では最後である。池上本門寺の十月十二日の丁度一月後である。何時ものこと、常円寺お会式が終わると「いよいよ十二月、師走かぁ。後一月ちょっとしかない。お互い、頑張りましょう。うあぁ寒い」と挨拶をして、手で着物の裾を立て、ポケットに引っ込め、首を蕾めて分かれたものだった。その姿、話しぶりが、何か寂しく聞こえ、焼イカや焼トンモロコシの醤油の焦げたにおいが、何か、懐かしく残ったものなのに・・・。
昔は確かに寒かった。だが、このところ暖冬でオーバーを来た人は見なかった。そして、誰かが「あっ、ナメクジ」と叫んだ。
常円寺御縁起
衾常円寺は目黒区八雲1−2にあり、東急東横線都立大学駅改札口を左に出て、都立大通りを北に目黒通りと旧目黒通りを越えた都立大学駅から約200メーター行った左側に東門がある。もちろん、旧目黒通りを左に行けば本寺参道入り口が右にある。
『常円寺史』によると、当地の住人で地主の小杉甚七が開基、甚七の姓小杉を山号、甚七の法号・本理常円の常円を寺号に、天正18年(1590)真乗院日信上人によって開かれた。このことについて『当寺開基由緒覚』「安政4巳年(1857)当寺無住之切砌写す」「小杉山常円寺留守居海政」と記された文書に開山・開基より17世孝超院日登上人(文化11年・1814没)までが記され、
日長上人親父小杉甚七当寺地主 法号本理院常円進氏信士 天正18年庚寅9月3日死
右同年開基 小杉山常円寺 姓者法号ヲ含寺号 母人法号自然院妙揚
墓所当寺歴代代并ニ正面ニあり 碑文谷法花寺末寺常円寺記録書之事 但し御年貢地
とある。
『千代田区の歴史』によると徳川家康が豊臣秀吉の命令で天正18年8月1日江戸城に入った(関東御打ち入り・関東入部)。小杉甚七は『常円寺史』によると天正18年9月3日に没しているから家康の入部1ヶ月後でる。
豊臣秀吉が没したのが慶長3年(1598)8月。また、江戸幕府開府の慶長8年(1603)2月までは家康関東入部からの10数年後であり、その間に無数の寺が建立されている。これは家康の後北条氏の旧領のこの地、敵地領民への懐柔策が窺える。そして、それまで領主の極楽浄土信仰のための寺寺が農民のための菩提寺の建立になって、この常円寺おその一つではないかと思う。もしかしたら農民寺の第1号かも知れない。
現境内には山門を入った左に妙見堂。またその手前参道左に旧本堂屋根瓦。本堂左手前の墓地入り口すぐ右に広島原爆被爆地蔵だある。寺宝には旧法華寺(旧法花寺・現碑文谷円融寺)にあつた涅槃図が当寺開山時に移されたと言う『釈迦如来涅槃之図』があり、この図は縦407センチ、横220センチと言う大図ですべてが「南無妙法蓮華経」の文字で描かれている。しかし残念ながら作画者も制作年も不詳である。
今一つは 明治維新の神仏分離で廃寺になった世田谷池尻常光院の本尊険難除祖師像であり、日蓮上人自ら彫られたとの伝承がある。そして御一生の彫刻欄間その他である。
また当寺は寛永時代のご禁制日蓮宗不受不施派廃宗のとき一時天台宗に改宗、その後身延山久遠寺末になり現在に至っている。
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