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追っかけお会式・11月15日 神奈川県三浦 円徳寺
京急終点三崎口から1番バス乗り場「荒崎行き」に乗って2番目の「矢作」バス停で下車10分らしいのだが、道が細く見つかりそうにない。そして五時。辺りは真っ暗である。迷子になったらと思い、駅前に止まっていたタクシーに乗る。
五分ほどして矢作バス停を左に入る。案の状細い定真っ暗な田舎道である。暫く行くと赤い提灯が沢山あった。円徳寺参道入り口らしい。だが、タクシーは入れない細い道で、ぐるっと回って、赤い提灯がぶら下がる裏のお寺駐車場に入った。料金はワンメーター710円であった。
御住職に御縁起のパンフレットを所望するが作って無いとおっしゃる。やむなくぶらぶらして門柱の写真など撮っていたら、「当山縁起」と掘られた石碑があった。赤い字である。まだ出来たばかりのようだ。
その石碑御縁起を読むと「当山開山大善阿闍梨日範上人は生処ヲ祥ニセズ。真言宗の徒タリ。後松ヶ谷に於イテ宗祖日蓮聖人の徒弟日朗ニ遇イ法理ヲ討論シ、遂ニ改宗受戒ス正応三庚寅年六月当和田村ニ来リ海岸の石窟ニ入リ、日蓮聖人配流ノ伊東ヲ遠望追想ノ読経説法大イニ限ヲ化ス。永仁二卯午年一宇ヲ創立シ、称シテ近浦山円徳寺トイウ。元禄年間海水氾濫ノタメ堂宇悉ク消失ス。ソノ後享保元年十九世日要堂宇ヲ再建シ、漸次補繕ヲ加エタルモ、大正十二年九月一日震災ノタメ本堂倒壊ス。三十五世日闌、昭和三年六月工ヲ起シ、仝六年竣工今日ニ至ル。因ニ開山日範上人読経説法ノ妙法教窟ハ依然寺傍ニ現存ス。当山三十七世錬精誌ス」と読んだが、さて・・・。
なお、この字名矢作(やはぎ)について、古老に聞くと、この辺りは和田といい、和田義盛の領地だった。で、矢を作ったからだ。この一帯、お寺の裏山全体も矢竹で覆われている。和田義盛公を祀った神社もある」といった。事実駐車場の周りは矢竹が繁茂、矢作の地名が理解できた。
また、和田義盛伝説は世田谷奥沢、用賀にもあり、用賀和田家は、鎌倉から弟と逃れ、和田義盛は世田谷用賀の肥溜に三昼夜隠れて追手を避け、弟は千葉へ逃れた。
後に義盛は農の甚兵衛と名を変え世田谷用賀に土着した。
ある夜中、大戸を叩く者があり、戸を開けると、「私は和田義盛の弟の末裔で、保管していた巻物は御家で保管するのが正しいと思い持ってきました」と、家人に手渡し消えてしまった。
朝になって戸を開けると白蛇がいて、蔵に入っていった。蔵の中には米俵が一杯だったが、その中の一俵の中の米が、一杯入ってる形のまま、中の米がなくなっていて、近くに、あの白蛇がニョロニョロしていた。
千葉から持ってきた巻物は大学教授も教育委員会の誰も読めなかったといい、私も読ませていただいたが、清和天皇が始めに書かれていたのは読めたが・・・。この和田家から母方祖々母が嫁に来てるから、見せてもらえたのである。
奥沢和田家には大きな墓域があり、千葉へ逃げた和田義盛子孫が奥沢に来て土着したととの伝説がある。そして、埼玉寄居には墓もある。千葉というのは三浦半島から近い。面白い話である。
先日の実相寺で「ヤハギの円徳寺はすごいよ、この実相寺は近場のお寺五箇所ほどだが、他所からも来る。是非見に行ってみな」と言ったが、聞くと「十寺。茅ヶ崎、鎌倉から来る。昔はもっと来た」といった。
近所の家々は戸を開け宴会をしている。お参りをして出てきた古老に聞くと「お会式はお祭り。親戚が大勢寄って宴会。昔のバレン(纏)はニ、三十キロあった。重いのを振るからカッコ良いんだ。今は軽いのかなぁ、女も振ってりゃぁ」と言って笑った。
終戦前の衾も氷川神社祭礼やお会式に、遠くの親戚が寄った。そして、親戚のお祭りやお式には行ってご馳走になった。そんな衾の昔があって嬉しかった。
子供たちはブロック塀に腰をかけて万灯の来るのを待っていた。
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子供達のとっては宗教的意味よりも
なんとなくお祭りに加わっていると言う感じだと思いますが
大きくなるにつれて意義や意味を理解していくことでしょう
2009/11/20(金) 午後 6:23
清丸さん。そうなんです。子供たちにとってはお祭りなんです。お神輿が通るのを見るのと同じなんだと思います。
でも、私もウキウキ見に行ったのですから・・・。
2009/11/22(日) 午前 9:32