ふすま(衾)メモ

もう1月も半ばを過ぎてしまった。と考えると複雑になる歳。極悪なインフルエンザが収まらない。風邪には、くれぐもお気をつけて下さい。

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落ち松葉

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落ち松葉

 平成21年10月28日、ちょっと見たいものがあって、山梨県富士吉田の郷土資料館に行った時、資料館入り口で見た落ち松葉である。
 
 とっても綺麗だったので投稿した。

 周囲の山々は一杯の錦で、霊峰富士山の裾野を作っている。富士山は、まさに、蜀江の錦裾をまとっているようだった。

 聞いてみたら「標高は800m、見ごろはもうちょっと後だろうか」とのことである。

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ドウダンツツジの紅葉・H21・10・28

 H21・10・28。ちょっと見たいものがあって、山梨県富士吉田の郷土資料館に行った時、資料館入り口で見たドーダンツツジの紅葉である。
 
 もちろん綺麗な葉を選んでの投稿である。

 周囲の山々は紅葉の錦で一杯である。聞いてみたら「標高は800m、見ごろはもうちょっと後だろうか」とのことだった。

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子供は万灯や纏振りよりたこ焼

 親たちは、子供の「ふるさとの思い出に」と立源寺のお会式に連れてったはずと思うのだが・・・。

 可愛い三人は、たこ焼の焼けるのを待つばかりで、万灯や纏振り、お囃子にはメモくれない。


写真は衾立源寺お会式にて。

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「追っかけお会式:衾立源寺・平成21年10月20日」


 衾立源寺のお会式は毎年10月20日である。毎年見に行っている。今年は孫を連れての参詣だった。

 昔、昭和二十年代までは都立大駅前の道を万灯を立て、うちわ太鼓を打ち鳴らせながら何台も通っていった。

 そして旧衾村大字平根字大岡山、鉄飛(てっぴ)坂上にあったヤッチャ場(野菜の地方卸売り市場)ダイチカ社長が講元の万灯もあり、ヤッチャ場から鉄飛坂を下り呑川にかけられた中里橋を渡って、寺郷(てらご)坂を上り立源寺まで練り歩いた。

 万灯を立て、団扇や鉦を叩き笛を吹き、それはそれは賑やかで三百メーター位離れた都立大駅までそのお囃子や掛け声が聞こえた。。

 そんなうちわ太鼓と鐘、笛の音、お題目が聞こえてくると、皆、「あぁ、今日は立源寺のお会式だ」と言って、急いでドテラを着、マフラーをして家を飛び出して行った。そして万灯の後にについて立源寺へ行った。

 寒かった。息を白くさせながら行ったものだ。立源寺に近付くと焼イカと焼トウモロコシの醤油が焼ける匂いが漂ってくる。その匂いは堪らない。手の平の汗に濡れた小銭を出してホウバッテ食べた。その美味さは表現の仕様が無い。

 ところが、今は焼きそばとたこ焼、お好み焼きのソースが焦げる匂いに変わった。

 そして、何時頃からか、立源寺のお会式を見る人に、もうマフラーを首に巻いた人は少ない。吐く息も白くならない。暖かくなったのだ。温暖化である。

 数年前は「万灯を背に立てたオモチャのイヌ3匹が来る」と言う話もあり、行って探した。その犬の玩具は最後に近い8時過ぎ、あきらめて家路についた道で見つけた。カラカラと音を立てながら万灯の後について行く3匹であった。もう少しで会わずに帰ってしまうところだった。運がよかったのかも知れない。

 父たちの若い頃は、朝1晩で起き、万灯を大八車に積んで、日蓮上人が首を切られようとした時、突如稲妻が轟き剣が折れ助かった、という鎌倉龍口寺や千葉市川の法華経寺まで歩いて行ったという。

 万灯は竹と蝋燭を明かりにした提灯、造花の花を和傘の骨先にたらしたもので、倒し火災になったことも度々だったと言う。この万灯火災は私の子供の頃にもあって、現在の蓄電池やモーターでの発電豆電球、五重塔三重塔に変わったのはつい最近のことである。

 寺の境内は、ケヤキ、ムクなどのに囲まれた、武蔵野特有の防風屋敷林に囲まれ、武蔵野特有の風物詩を残している。


立源寺の縁起について、ネットフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考に記すと、
 立源寺(りゅうげんじ)は、東京都目黒区中根にある日蓮宗の寺院。山号は長昌山。本尊は三宝尊
歴史 ・この寺は、1624年(寛永元年)日運によって創建され、日蓮宗不受不施派(法華信者以外からの布施を受けず、法華信者以外への施しをしない)を唱える寺院のひとつであった。

文化財 [編集]目黒区指定文化財・三宝尊 。 所在地 ・東京都目黒区中根2-21-17

また衾 ネット「立源寺について」によると、
山号を長昌山(ちょうしょうざん)と号し寺号を立源寺(りゅうげんじ)と称す。

寛永元年(一六二四)碑文谷法華寺住僧、遠聲院日運の開基によるもので、新編武蔵風土記稿によると

『この寺も古くは、法華寺の末なりしが、後本寺を改めらる 本尊三宝は長二尺の像なり 是はもと法華寺にありしを当寺起立の時より此処にすえたり云々』

とあるが、実際は元禄十一年十一月不受不施法難の直后、法華寺改宗の際この三宝尊を当寺へ移されたのが事実である。

 この事は諸資料の証明する処であるが、法華寺改宗の際、多くの檀徒が寺籍を移している事等からもうなずける。かつて宗門史の権威故稲田海素師が宗門最高のものと賞讃されている高さ七尺、幅約九尺と云う立派な仏像である。

 当山の縁起を語るに就いては、碑文谷法華寺の歴史を顧ねばならない不即不難の関係がある。当山の創建は寛永元年であるから法華寺第十一世日進上人の代である。秀吉の『大仏千僧供養』に端を発して以来京都妙覚寺日奥上人と日進上人が度々弾圧諸政策を蒙り乍らも断乎不受不施を主張して止まなかった頃の事である。
丁度この頃法華寺北之坊に住して不受不施派の学頭若しくは別当的立場に在った日運上人が、この地に隠居所として小庵を結んだのが当山の始まりである。
 当時幕府の政策は一般庶民を監察する方便として、檀家制度を強行しているし、宗派や寺院を異にする事も許さなかったし、又事実、新寺建立も禁止していたのである。之等の事は諸資料の明かに示す処であるが、但だ僅かに小庵から山寺にすることは認められた等から察するに、開基遠聲院日運上人は政策に対する一時の方便として小庵を設け、実は不受不施派新寺建立の思いを秘めて、法華寺末として当山を建立したのが事実である。

 斯くして当山が不受不施の寺として、その教線を張って来た事は勿論であるが、時恰も元禄十一年(一六九八)十一月、不受不施法難に依って法華寺改宗の翌同十二年一月二十五日、幕府の禁制止むなく身延山直末寺となったのである。
 この時の本末盟約授与の御本尊が当山に現存しているが、之に依ると、当時の身延は第三十二世日省上人代で、当山に於ては第四世日周上人である。尚朗師御作の『除厄祖師像』が法華寺から堀之内妙法寺、又三宝尊像が当山へと夫々移置せられたのもこの時である。とあった。


写真は立源寺にて。

 

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久が原本光寺庫裏玄関の菊

 写真は久が原本光寺庫裏玄関に飾られていた見事な菊である。お会式を祝っての飾り付け、と思うのだが・・・。


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