ふすま(衾)メモ

もう1月も半ばを過ぎてしまった。と考えると複雑になる歳。極悪なインフルエンザが収まらない。風邪には、くれぐもお気をつけて下さい。

お会式

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追っかけお会式・上総妙厳寺

 ネットで見つけた上総妙厳寺。路線で調べたら自宅から三時間あまり。廃線が云々される夷隅鉄道終点二つ手前の総元駅で下車して約徒歩三十分のところであった。しかも、ヤフー路線で見ると、東京駅から直通で総武線大原までで行って夷隅線に乗り換え、終点上総中野の二つ手前の総元(ふさもと)でおりれば歩いて十五分か、二十分で行ける。午前十時に家を出ればOKらしい。何とも簡単に行けると思えるところだった。

 ところが、ちょっと家を出るのが遅かったら、東京駅の直通に間に合わずなんだかんだで六時間?、もかかり、夷隅線に乗ったら、山際の夕焼けが綺麗である。電車は一両連結で乗客は私を含めて四人、普通だったら会社帰りのサラリーマンで満員のラッシュアワー、なのに乗客が四人。廃線がうわさされているのが分かったように思った。

 車内の棚には、ムーミンキャラクターのクリスマスがぶら下がり、車窓のガラスにはムーミン谷のクリスマスが色とりどりに貼られている。リースも壁に飾ってあり、モールが車内一面に張られている。どーやら夷隅線沿線がムーミン谷をイメージして売っているらしい。

 暫くして夕焼けの山頂に城影が黒く浮いて見えた。大多喜城である。徳川四天王のひとり、本多忠勝を初代城主とする城である。
 大多喜の駅についた。駅いは武将や城のパネルが飾られている。忍者もいる。そして「上総の小京都・・・」とも書かれている。昼間来て、ゆっくり見て歩きたい。


 何とも不安になって土地の人と思われる古老に地図を見せて聞くと、「総元(ふさもと)は終点の二つ手前、私は終点で降りるが、終点だけ三台のタクシーがあって、他の駅や総元には無い。妙厳寺までは暗くなったから歩きは無理、タクシーで行ったほうがいい」と教えてくれた。

 駅は無人らしく駅員は見えない。古老は無言で改札を出て行く。そして振り返り私を誘う。
 タクシーは一台だけで、真っ暗な商店に横付けにされていた。車内灯が点いている、が、人影は見えない。さっきの古老と車内を覗いた。運転手は背もたれを倒して寝ている。古老がトントンとゲンコで窓を叩いた。ガバッと跳ね起きた運転手が降りてきて、「どうぞ」と自動ドアを開けてくれた。
 ふと振り返り親切な古老を探すと、駅の方へすたすたと歩って行く。「あぁ、お礼を言い損なった。だけど、駅へ戻るって、もしかしたら、私を心配して行過ぎたのだろうか」と心配になった。

 「妙厳寺、今日はお会式だった。昼間は大変な人で、タクシーも忙しかった」と言いながら暗闇を走りだした。数軒の商店は何処も真っ暗である。ところどころの街灯がやたら静かさをつくる。やたらスピードを上げている。だが、すれ違う車は無い。そして人影もない。

 二十分ほど山の中を走ったろうか、灯りが見えてきた。運転手さんが玄関のガラス戸を開けるとお二人のお坊さんが立っておられた。
 運転手さんが「お会式を見に来たんだって」と言うと、「二時に終わった」と言って怪訝に私を見ている。「目黒からきました。実はお会式を追っかけ見学して回ってるんです。ちょっと時間の計算を間違えて、遅くなってしまいました。申し訳ありません。ちょっと御縁起だけでもいただければ、ですが、お上人様は、何処かでお会いしたように思うんですが」というと「私は目黒の常円寺に数年いました」と言う。「あぁ、で会いしたんですね、常円寺は私の壇寺ですから」、「あぁ、私も何処かで会ったような気がしました」「御住職、こちら衾常円寺の檀家さんです。どうぞお上がりください」と本堂へ案内くださり「お会式は昼間の二時に行いました。お稚児さんも出て、たいそう賑やかでした」と御本堂と御宝前の電気を点け、御宝前御本尊の錦の幕を上げて下った。本堂横には万灯の造り花が積まれていた。

 恭しく参拝、よくよく拝見すると木彫の御祖師日蓮上人である。驚いてお聞きすると「先代御住職は仏師さんで、手彫りの御祖師さんです」とおっしゃって、欄間の長い墨跡を指差してくださる。綺麗な毛筆で書かれた長さ四メーターほどの巻紙が広げて飾られている。私には到底読めない。

 「何か、御由緒が書かれたものなぞございませんか」と言うと「あぁ、パンフは作ってないんですが」とおっしゃってB5版の御由緒を下さり、『南無手帳(南無の会編。発行人中島教之。水書坊発行。2008年第五版)』をご案内下さった。

 私は恭しく頂き、何がしかのお札を御賽銭箱に入れた。
 帰り際「お会式で配ったものです」と、お弁当と紅白餅を下さった。紅白餅はまだ柔らかい。また是非、昼間に参詣したいお寺である。

 御由緒は、その昔は真言宗の名刹不動寺と言い、全国から山伏が集まる修験の寺であった。約五百年前の文明九年、池上本門寺第八世常住院日調聖人がこの地方を布教した時、住職の法印善慶律師と問答、善慶律師は日調聖人の高い学識に敬服、日調聖人の弟子になり日賞聖人と名乗って日蓮宗の寺とした。その記念として祖師堂を建てた。その棟札は当寺の寺宝になって現存している。そして、日調聖人を開山第一世、日賞聖人自らを第二世となった。

 永禄年間に妙厳院日諦聖人の時、安房上総の頭領里見安房守が日諦聖人に帰依、天正年間に大多喜領主大木大善を奉行に祖師堂を改築、同時に境内四丁四方を寄進十万石の格式を与えた。そして、大正時代まで、歴代大多喜城主は黒塗りの籠に四人を供奉させ往来した。

 当時からある大杉は日諦聖人入山の時に」記念植樹されたもので樹齢四百五十年を超える。日諦聖人は不動寺を妙厳寺に改め山号を法受山称し、以来上総の名刹平沢大坊、上総の身延とも言われ、人々の信仰を集めた。

 また、当寺を「枕飯(まくらめし)霊場」とも言われることについて、江戸時代、当山山麓に、おさんという老婆が身よりも親戚も無く、当山祖師様を唯一の寄り処として一人で住んでいた。
 ある朝、この老婆が天寿をまっとうして亡くなった。日ごろ早朝に戸を開ける老婆だったが、戸が開いて無いのを不振に思った村人が家に入ると、不思議なことに、老婆が常に祖師様に供える霊膳が枕元におかれていた。そのことを村人が住職に話と、「そういえば、今朝の勤行に、お厨子の中から明るい光が差し、不思議なことと思った。それは、身寄りも無く死水を取ってもらえないお婆さんを哀れに思った祖師様が、自らの御霊膳をお婆さんの枕元に置き供養したもの」と言って、改めて祖師様のありがたさに合掌したといわれる。その時から当山を「枕飯に霊場」と呼ばれるようになって、人々は自らの心安き臨終を願うと同時に、末永く子孫の繁栄を願った。

 そしてまた、萩の寺とも呼ばれることについては、当山に萩の柱があると言われる。それは、このお婆さんが祖師堂改修に、山から萩お幹を採り市で商い、そのお金で一本の柱を寄進したことによる。

 身延山と枕飯霊場については、いつの頃からか身延山参詣の締めくくりとして当山を参詣、砂払いをするようになった。それは、当山が臨終正念を祈る霊場であることからで、遠く身延山を参詣、仏縁を深め帰郷した旅の終わりに当山に参詣仏祖の御加護に感謝し旅の締めくくりとするからである。

 日蓮聖人は「まず臨終のことを習うて後に他事を習うべし」と、この一生を有意義なものとするために、まず最初、人生の締めくくりをきちんと解決しておくことが大切である、と教えられておられる。当山のお祖師様に二世安楽・臨終正念を祈念し、信仰に励み安心な毎日を送り、臨終はこのお婆さんのような安らかに霊山浄土に行きたいものである。と記されていた。
 
 帰りの夷隅鉄道は私一人である。沿線には大多喜城と小京都と言われる城下町、そして、沢山の緑。きっとムーミン谷の人々が一杯いるのだろう。見るとこ一杯の夷隅鉄道沿線だろう。昼間、ぶらぶらしたいものである。

 この稿最後に、夜分にかかわらずお厨子を開けて、先代御住職手彫りの日蓮聖人を拝見させていただいた御住職とSお上人に心からの御礼を記し、「追っかけお会式・上総妙厳寺」を終える。
 
 
 

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追っかけお会式・相模原 顕正寺・平成二十一年十一月十八日
 住所 神奈川県相模原市麻溝台26  電話0427−42−1119小田急線相模原駅下車
麻溝台行き、または北里大学行きバス、麻溝台バス停下車。すぐ。



 毎年十一月十八日は相模原顕正寺のお会式である。この日はとても寒むかった。
 小田急線相模原駅前バス停で、バス運転手さんに聞くと、隣の席の老婆に「ゲンゴサンとこだネ」と聞いた。そして、「二番目のバス停で降りてください」と言う。聞いたはじめは「何?、人の名だが・・・、いいのかなぁ」と心配に思った。

 バス停御降りると大きなお寺で、「源悟山顕正寺」との看板があった。ゲンゴサンとは山号だったのである。乗客みんなが親しみをもっているお寺だったのだ。

 ドウコって言っただろうか、四角いブリキの缶に鍛冶屋の先で沢山の穴を開けてある。この缶に薪を立てて入れてある。斧で割ったのだろう。一本の薪歯豪快な割れ方の大きなものである。目の高さ以上にヒボリが上がっている。久しぶりで暖かい。風は殆ど無い。だが、時おり私の方にヒボリが来る。熱い、顔をチョッと傾けてヒボリから顔を離す。懐かしい。
 目を細めながらヒボリを見ている。何とも口元が緩い。
 焚き火は久しぶりに見たもので、何とも懐かしく、燃え上がるヒボリが暖かかい。
 あたっている人々は今日の世話役と思える古老たちだ。世間話をしている。言葉は懐かしい私の子供の頃の小父さんたちと同じ言葉に聞こえる。「万灯が来るのは七時。纏振り競争が素晴らしい。最後までいると良い」と言う。
 待ちくたびれてテントの椅子腰掛けさせてもらうと、前に御住職さんが座っていた。「開山百年で、私が七代目だ」と言う。
御縁起をお聞きすると、「田野村源悟と言う人が・・・」とお話を始められた。ノートを出しボールペンで聞き書始めたが、どうもペンが送れてしまう。そんなことで思い切って「御由緒を書いたものがありませんか」とお話しすると、最近は造ってないが、前にシオリを造ったから」と、わざわざ御本堂二階へ階段を上って行かれた。追っかけて行き、階段の下で待っていると、暫くして戻ってこられ、見せて下さった。そして、立ち読みでノートに書き換え出した。が、あせった文字で、自分でも読めない。そこでまた、思い切って「これいただけませんか」というと、「いいよ」と快くくださった。

 私はシオリのお礼として、お賽銭箱に千円札を入れてテントに帰ると「うちのメインは『手ロウソク』だ。腕にローソクをつけ火をつける。熱いんだ」と両腕の袖をまくられた。肩先の腕に幅六〜七センチ、長さ二十センチを越えるやけどの痕がある。「腕を横にして炎を上にするといくらか熱さは引くんだが、立てるとまともに炎が腕につき大火傷さ」と仰って火傷の痕を手のひらでなでた。しかし『手ローソク』がどんなものか想像できない。

 そのうち御住職がお帰りになった。そして暫くすると本堂が騒がしい。すると「手ローソクが始まった。実に行けば」と都なりの世話役のころうが言う。「私はさんかじゃぁ無いんですが」というと「大丈夫サ」といった。
本堂の縁先上がったが、中に入る勇気が無い。本堂御宝前前に法衣の両肩をはだけた御住職を始め五人の棟に経巻を下げたお坊さんが合掌しお題目を唱えている。と、左手を腰に木剣(もっけん)を右手にカチカチ鳴らせながらお題目を唱え出した。と同時に大きな本堂を一杯にした檀家さんたちが、団扇太鼓を叩きながらお題目を唱え出した。その団扇太鼓とお題目の合唱は物凄く、見ている私他数人も興奮し、口をもぐもぐさせている。お題目の「南無妙法蓮華経」を唱えているらしい。
 暫くして腕まくりしローソクを点け灯をつけた。そしてお題目木剣振りの後、腕に火の点いたローソクをつけた御住職を始めとした五人のお坊さんが満座のお題目を唱える檀家の中へ入ってきた。

 木剣と経巻を檀家一人一人の頭や両肩に当てている。檀家はその都度深々と頭を下げる。

 そのうち本堂の縁先まで出てきた。そして、私にもしてくださった。何とも気持ちがスッキリしたこと・・・。

 一通り本堂に上がった人々の経巻と木剣当てが終わると、縁先に並んだ語住職他は、境内の参詣人に向かって木剣振りと声高々のお題目を唱えた。

 腕にはローソクが融けて流れている。これでは火傷をして当たり前、と、御住職の両腕の大火傷痕が思い出され、納得した。

 「手ローソク」は初めて見たものだが、物凄い迫力で、一年の厄一切が取り除かれ、新しい歳の大きな御利益を感じさせてくれた。

 帰りのバスで、席を譲ってくれた少女にも、仏心を感じた。

 
 顕正寺の御縁起について『源悟山顕正寺参拝のしほり』を参考に記すと、
 当山開山野々村顕吾氏は豊臣家家臣野々村伊予守子孫野々村兼吉長男として、弘化四年(注・1847)六月、岐阜県稲葉郡方県(かたがた)村石谷に生まれた。
 三十七歳の時の作業中、墨壺の墨が眼に入り両目を失明、真言を唱えていると、「・・・身延に行け、日朝堂(身延三十六世住職)が直してくれる」とのお告げがあった。そこで野々村顕吾は日朝堂に参篭、勤行と罪障消滅を祈ると、両目の失明が快癒した。

 そして、日朝上人に「東方千ヵ寺にお礼参りをしろ」といわれ、佐渡をはじめ関東東北の寺寺を参詣、相模国下久沢山本作左衛門かたに滞在折伏。その後下溝小山源兵衛方に滞在、当家で強烈な法華信奉者得て源吾上人は、「下溝の地こそ、法華経弘通最適地とした。

 その後小山氏親戚伊八氏の力を得て井上九郎兵衛が敵地を提供九郎兵衛宅に、明治二十四年祖師堂祈祷所を建立、大島法性寺弁妙上人に師事、正中山執事祈祷講世話係りになった。

 さらに明治三十一年大本山法華経寺より白山講社社長に任ぜられ、研ぎ澄まされた上人の霊感は、蝋燭の火の燃ゆる有様のごとく人々の災禍を占い、人の善悪を問わず折伏に専念した。そのため遠地にいたるまで上人をしたって帰依する人が絶え無かった。だが、大正十年八月二十二日、七十二歳で一世を終えられた。法名を顕正院法弘日源上人号し、昭和ニ十六年準講師が追贈された。
 以来日源上人、日顕、日静、日秀、日照、日請、各御上人、そして、現日観御上人と、七代も続いている。

御本尊・・・・日蓮上人が哲学哲理によって定めた釈迦牟尼佛。

祈祷本尊・・・鬼子母神。鬼子母神は仏陀にたいし、三帰五戒、呪文を唱え「法華経の行者を擁護する」と言った方。日蓮上人は厚く信仰、日蓮宗の祈祷本尊。

立正大師日蓮大菩薩尊像二体。
 本山星降山妙純寺貫首日森猊下開眼の一体。
 横浜蓮法寺山主津川翠温大僧正より賜った一体。

敬信殿
 境内にある金龍弁才天を祀った小堂。

とある。

手蝋燭祈祷のあと、境内に下りると万灯を持たないお囃子と纏だけの一団が二団体あった。聞くと「お寺じゃぁ無い。ゲンゴさんがいたとこサ」と言って笑った。万灯は都合四基のようだった。

 境内を出る時、提灯やスポットに照らされた本堂まえお二本の松が綺麗だった。いずれ名物の二本松になるkとだろう。

お会式の女性進出

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お会式の女性進出

 お会式の女性は、男性より多いように見える。で、昔の若い衆に聞くと「半分以上が女かな、女性の進出がものすごい、バレンを振ると、男性カメラマンがバチバチ。バレンも軽くなったのかも知れねぇ」と言って笑った。

 ちなみに、女性が肩から提げている、団扇太鼓お袋は「市販を買ったもの」と、昔の若い衆(わかいし)は言った。

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追っかけお会式・11月15日  神奈川県三浦 円徳寺

 京急終点三崎口から1番バス乗り場「荒崎行き」に乗って2番目の「矢作」バス停で下車10分らしいのだが、道が細く見つかりそうにない。そして五時。辺りは真っ暗である。迷子になったらと思い、駅前に止まっていたタクシーに乗る。

 五分ほどして矢作バス停を左に入る。案の状細い定真っ暗な田舎道である。暫く行くと赤い提灯が沢山あった。円徳寺参道入り口らしい。だが、タクシーは入れない細い道で、ぐるっと回って、赤い提灯がぶら下がる裏のお寺駐車場に入った。料金はワンメーター710円であった。

 御住職に御縁起のパンフレットを所望するが作って無いとおっしゃる。やむなくぶらぶらして門柱の写真など撮っていたら、「当山縁起」と掘られた石碑があった。赤い字である。まだ出来たばかりのようだ。

 その石碑御縁起を読むと「当山開山大善阿闍梨日範上人は生処ヲ祥ニセズ。真言宗の徒タリ。後松ヶ谷に於イテ宗祖日蓮聖人の徒弟日朗ニ遇イ法理ヲ討論シ、遂ニ改宗受戒ス正応三庚寅年六月当和田村ニ来リ海岸の石窟ニ入リ、日蓮聖人配流ノ伊東ヲ遠望追想ノ読経説法大イニ限ヲ化ス。永仁二卯午年一宇ヲ創立シ、称シテ近浦山円徳寺トイウ。元禄年間海水氾濫ノタメ堂宇悉ク消失ス。ソノ後享保元年十九世日要堂宇ヲ再建シ、漸次補繕ヲ加エタルモ、大正十二年九月一日震災ノタメ本堂倒壊ス。三十五世日闌、昭和三年六月工ヲ起シ、仝六年竣工今日ニ至ル。因ニ開山日範上人読経説法ノ妙法教窟ハ依然寺傍ニ現存ス。当山三十七世錬精誌ス」と読んだが、さて・・・。

 なお、この字名矢作(やはぎ)について、古老に聞くと、この辺りは和田といい、和田義盛の領地だった。で、矢を作ったからだ。この一帯、お寺の裏山全体も矢竹で覆われている。和田義盛公を祀った神社もある」といった。事実駐車場の周りは矢竹が繁茂、矢作の地名が理解できた。

 また、和田義盛伝説は世田谷奥沢、用賀にもあり、用賀和田家は、鎌倉から弟と逃れ、和田義盛は世田谷用賀の肥溜に三昼夜隠れて追手を避け、弟は千葉へ逃れた。

 後に義盛は農の甚兵衛と名を変え世田谷用賀に土着した。

 ある夜中、大戸を叩く者があり、戸を開けると、「私は和田義盛の弟の末裔で、保管していた巻物は御家で保管するのが正しいと思い持ってきました」と、家人に手渡し消えてしまった。

 朝になって戸を開けると白蛇がいて、蔵に入っていった。蔵の中には米俵が一杯だったが、その中の一俵の中の米が、一杯入ってる形のまま、中の米がなくなっていて、近くに、あの白蛇がニョロニョロしていた。

 千葉から持ってきた巻物は大学教授も教育委員会の誰も読めなかったといい、私も読ませていただいたが、清和天皇が始めに書かれていたのは読めたが・・・。この和田家から母方祖々母が嫁に来てるから、見せてもらえたのである。

 奥沢和田家には大きな墓域があり、千葉へ逃げた和田義盛子孫が奥沢に来て土着したととの伝説がある。そして、埼玉寄居には墓もある。千葉というのは三浦半島から近い。面白い話である。

 先日の実相寺で「ヤハギの円徳寺はすごいよ、この実相寺は近場のお寺五箇所ほどだが、他所からも来る。是非見に行ってみな」と言ったが、聞くと「十寺。茅ヶ崎、鎌倉から来る。昔はもっと来た」といった。

 近所の家々は戸を開け宴会をしている。お参りをして出てきた古老に聞くと「お会式はお祭り。親戚が大勢寄って宴会。昔のバレン(纏)はニ、三十キロあった。重いのを振るからカッコ良いんだ。今は軽いのかなぁ、女も振ってりゃぁ」と言って笑った。

 終戦前の衾も氷川神社祭礼やお会式に、遠くの親戚が寄った。そして、親戚のお祭りやお式には行ってご馳走になった。そんな衾の昔があって嬉しかった。

 子供たちはブロック塀に腰をかけて万灯の来るのを待っていた。

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追っかけお会式・衾常円寺・H21・11・12

 今日は浦安正福寺へ行ってのダブルヘッダーである。

 常円寺は私の壇寺。参詣お参りしなければ落ち着かない。気を焦らせての浦安から帰った。が、丁度最高の時間に間に合って、やれやれだ。

 何時もなら寒くて震える。だが、何とも暖かい。風邪をひいたら、即肺炎になって入院という私にとっては、この上ないありがたいことだが・・・。
 

 小さな子供たちが「お祭り」と飛んで行く屋台が見えない。浦安の正福寺でもそうだった。無いのである。係りに聞くと「今年は御酉様の一の酉と同じ日。みんな御鳥様に行っちゃった」と言う。浦安の正福寺は小さな子供が大勢いた。可哀想なことだ。うちの孫に千円の小使いを渡して浦安に行ったのだが、ベソをかきかき家に帰ったのだろう、会えなかった。


 常円寺は毎年子供お会式をやり、子供お会式が終わると、常円寺万灯講中が、旧目黒通りを万灯練り供養。お寺に帰ってきて間もなくの七時ごろ、まず最初に、衾の友寺、中根立源寺同心会の万灯が都立大通りを賑やかに歩って来る。立源寺と常円寺は、お寺のお会式に何時も最初に参詣、他の寺講中を迎える。

 立源寺の後、旧目黒通り交差点から常円寺万灯練り供養が続々とやってきた。

 昔は二十二基ほどの万灯が来た。今年は十五基だそうである。もう三十年、各寺のお会式を追っかけ、参詣講中を調べているW君の昨年の話では「何処のお寺も、この数年参詣講中の数は殆ど変らなかった。だけど、所のよっては講中結成が出来ずやめた講中もある」とのことだったのだ。が、今年は「東京の講中構成人数が少なくなり、参加万灯も減ってる」という。何処の子供たちも、私の子供時代も、お会式は故郷の思い出である。消えてしまうのだろうか。昔の半纏を着て団扇太鼓を叩き、横笛を吹き、鉦を叩いて纏を振る。その姿は粋で、イナセで、若い女性の目線を集めたものだ。だが、そんな女性はいなくなったんだろうか。

 我が常円寺のお会式は、近在では最後である。池上本門寺の十月十二日の丁度一月後である。何時ものこと、常円寺お会式が終わると「いよいよ十二月、師走かぁ。後一月ちょっとしかない。お互い、頑張りましょう。うあぁ寒い」と挨拶をして、手で着物の裾を立て、ポケットに引っ込め、首を蕾めて分かれたものだった。その姿、話しぶりが、何か寂しく聞こえ、焼イカや焼トンモロコシの醤油の焦げたにおいが、何か、懐かしく残ったものなのに・・・。
 昔は確かに寒かった。だが、このところ暖冬でオーバーを来た人は見なかった。そして、誰かが「あっ、ナメクジ」と叫んだ。


常円寺御縁起
 衾常円寺は目黒区八雲1−2にあり、東急東横線都立大学駅改札口を左に出て、都立大通りを北に目黒通りと旧目黒通りを越えた都立大学駅から約200メーター行った左側に東門がある。もちろん、旧目黒通りを左に行けば本寺参道入り口が右にある。
『常円寺史』によると、当地の住人で地主の小杉甚七が開基、甚七の姓小杉を山号、甚七の法号・本理常円の常円を寺号に、天正18年(1590)真乗院日信上人によって開かれた。このことについて『当寺開基由緒覚』「安政4巳年(1857)当寺無住之切砌写す」「小杉山常円寺留守居海政」と記された文書に開山・開基より17世孝超院日登上人(文化11年・1814没)までが記され、
  日長上人親父小杉甚七当寺地主  法号本理院常円進氏信士  天正18年庚寅9月3日死
  右同年開基  小杉山常円寺  姓者法号ヲ含寺号  母人法号自然院妙揚  
  墓所当寺歴代代并ニ正面ニあり  碑文谷法花寺末寺常円寺記録書之事  但し御年貢地
 とある。
『千代田区の歴史』によると徳川家康が豊臣秀吉の命令で天正18年8月1日江戸城に入った(関東御打ち入り・関東入部)。小杉甚七は『常円寺史』によると天正18年9月3日に没しているから家康の入部1ヶ月後でる。
 豊臣秀吉が没したのが慶長3年(1598)8月。また、江戸幕府開府の慶長8年(1603)2月までは家康関東入部からの10数年後であり、その間に無数の寺が建立されている。これは家康の後北条氏の旧領のこの地、敵地領民への懐柔策が窺える。そして、それまで領主の極楽浄土信仰のための寺寺が農民のための菩提寺の建立になって、この常円寺おその一つではないかと思う。もしかしたら農民寺の第1号かも知れない。
 現境内には山門を入った左に妙見堂。またその手前参道左に旧本堂屋根瓦。本堂左手前の墓地入り口すぐ右に広島原爆被爆地蔵だある。寺宝には旧法華寺(旧法花寺・現碑文谷円融寺)にあつた涅槃図が当寺開山時に移されたと言う『釈迦如来涅槃之図』があり、この図は縦407センチ、横220センチと言う大図ですべてが「南無妙法蓮華経」の文字で描かれている。しかし残念ながら作画者も制作年も不詳である。
 今一つは 明治維新の神仏分離で廃寺になった世田谷池尻常光院の本尊険難除祖師像であり、日蓮上人自ら彫られたとの伝承がある。そして御一生の彫刻欄間その他である。
また当寺は寛永時代のご禁制日蓮宗不受不施派廃宗のとき一時天台宗に改宗、その後身延山久遠寺末になり現在に至っている。

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