黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」

小原勝幸を容疑者とするこの事件は、言いようのない不正義な社会構造を見せつける事になった。遺作小説『神様でも間違う』完成。

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【メッセージ】清水弁護士より(1)
 
  清水勉弁護士が父の死のあと、事務所通信「さる・やる」NEWSで父のことについての記事を書いていただきました。
 清水弁護士は、父が遺書を送り、私たち家族そして岩手事件について強引に託された方です。清水弁護士の承諾を得て、ブログに記事を載せることにしました。
黒木昭雄の姿や思いをよく知っている方の記事なので、皆様に読んでいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 
 

(清水弁護士発行の通信『さる・やるNEWS』より) 
 
遺書
元警察官ジャーナリストの死
 
書留郵便
昨年11月2日昼少し前、事務所で仕事をしていると、私宛てに書留郵便が届いた。「清水勉様」。サインペンでぶっきら棒に宛名が書いてある。裏面を見るとサインペンで「黒木昭雄」とある。10年来の知りあいの元警察官ジャーナリスト。
 
 
友人・黒木昭雄
黒木さんとは警視庁を辞めた直後の1999年からの知り合い。現役のときはテレビ番組の『警察24時』的警察PR番組によく出ていた。気さくな人柄で、警察のことを率直によく話し合った。警察の裏金のことを質問したときも、「ああ、ニセ領収証ね。書いたことあるよ」とあっさり“自白”した。6年前に、現場の警察官の職揚環境の改善を目的とした「明るい警察を実現する全国ネットワーク」を立ち上げるとき相談に乗ってもらい、集会の講師にもなってもらった。
 
 
「遺書」
そんな付き合いの黒木さんが私に書留郵便とはなにかの悪戯だろうと思い、開けてみる。A4版用紙3枚が四つ折りに畳んで入っていた。開くと1枚目の冒頭に「遺書」とある。なんだ、このタイトルは。少し驚く。
文章はパソコンで作成していた。家族や知人の名前が並び、その下にそれぞれの人宛てに感謝とお願いの言葉が数行ずつ書いてある。言い回しはぶっきら棒だが、それぞれの人への思いが込められている。冗談だろうと自分に言い聞かせながら読み進む・・・。最後まで冗談になっていない。嫌な感じ。
遺書の裏側に大きめの黄色の付箋が貼ってあり、サインペンで、奥さんの携帯電話番号と「よろしくお願い致します。」と書いてあった。
 
 
本物だった遺書
この付箋が気になって、すぐに書かれている電話番号に電話した。奥さんが出た。「黒木さんの指示メモにしたがって電話をかけました」と言うと、「いま、お寺の駐車場に警察官たちといます。警察官が車の状況を調べているところです」。黒木さんがお父さんの菩提寺の駐車場の車の中で死んでいるのを、黒木さんの息子さんが発見して警察に通報したという。遺書は本物だったのだ。
友人・黒木さんからの最後の連絡が遺書とは。享年52歳。
 
 
黒木さんの仕事
黒木さんには『栃木リンチ殺人事件〜殺害を決意させた警察の怠慢と企業の保身』(新風社文庫)『秋田連続児童殺害事件〜警察はなぜ事件を隠蔽したのか』(草思社)『神戸大学院生リンチ殺人事件〜警察はなぜ凶行を止めなかったのか』(同)などの著作がある。副題でわかるように、黒木さんの取材は単に事件を追うのではなく、事件を追っている(追わない!)警察を追い、日本の警察の現実をまざまざと見せつける。こういう作品を書く元警察官ジャーナリストは今後なかなか出ないだろう。
 
 
自殺か?
黒木さんの猛烈な活動ぶりを知っている人たちは皆、黒木さんの突然の死に驚き、多くの人が「本当に自殺か?」と疑った。しかし、1年以上前から続いていた黒木さんの心労ぶり。10月31日からの黒木さんの言動と行動、私や息子さんへ送ってきた電子メール。私のもとに届いた遺書。どれもが黒木さんの死が自殺であることに結び付いていた。
 
 
原因
心労の原因ははっきりしていた。
2008年7月1日、17歳の女性が絞殺死体となって発見された事件で、岩手県警が意図的としか考えられない怠慢捜査で犯人でない人を「殺人犯」に仕立て上げ、全国指名手配・公開捜査の対象にしていることに関連していた。
黒木さんは事件関係者や周辺の人々を徹底的に独自取材し、岩手県警が「犯人」と名指ししている男性が犯人でない確証を得た。その証拠を突きつけて岩手県警に再捜査をさせようと懸命に働きかけた。犯人とされた男性の家族と被害者遺族に取材結果を説明し、“犯人”家族と被害者遺族が連名の文書で岩手県警に再捜査を求めることも実現させた。岩手県知事に動いてもらおうと、黒木さんは署名運動に奔走した。
 
 
対話
干葉県に住む黒木さんが岩手県三陸地方の事件のために疾走しているということは、黒木家の家計を確実に圧迫していた。
 
私「ジャーナリストの仕事の範囲を明らかに越えている」
黒木「わかっている」
私「そんなにひとりでのめり込んで頑張っても警察組織は動かない。
 警察にいた人関ならわかるだろう」
黒木「いや、この事件では警察に動いてもらわないと困る」
私「相手は人聞じゃない。何もしなくたって月々の給料が貰える役人の組織なん   だから、黒木さんがいくら頑張っても、わざわざ面倒なこと(再捜査)をしようとす   るはすがない」
黒木「どんなことがあっても動かす」
私「他人の人生の問題として冷静に対応しないと、黒木さんの家族の生活まで    台無しになってしまう」
黒木「この事件は私の人生なんです」。
 
正義感の強い、頑固な警察官そのものだ。
 
 
弁護士としての協力
私は一昨年4月、この事件に弁護士として協力してくれと、黒木さんから相談され、同年5月、黒木さんがまとめた“犯人”家族や被害者遺族らの県警への再捜査申入れに同行し、同年6月、知り合いの弁護士らと、日本弁護士連合会に対する人権救済申立(「刑事判決を受けていないのに警察が「犯人」と名指しして公開捜査をすることは無罪推定原則に反し、人権侵害だ」)をした。昨年6月30日、盛岡地裁に公開捜査の差止などを求める訴訟を起こした。これまですっと黒木さんに相談しながら進めて来た。
 
 
気持ち
黒木さんの自殺はそんな最中だった。
私の気持ちは説明しにくい。惜しい人を亡くしたとか、かわいそうとか、気の毒とか、というのとはちがう。一言で言えば、「人を事件に巻き込んでおきながら、どういうつもりなんだ」か。黒木さんと緊密に打ち合わせをしながら仕事をするのは今回が初めてだった。これからしばらくの間、頻繁に相談に乗ってもらうことになる。そう思っていたのが、突然の終止符。黒木さんがこの事件で死を覚悟するほど苦しんでいたのは知っていたが、まさか本当に実行するとは。私の気持ちは複雑だ。
 
 
黒木さんと会う
この気持ちを灰になった黒木さんに言っても、黒木さんに話した気分になれないと思い立ち、3日、黒木さんの自宅を訪ね、遺体となった黒木さんに会った。黒木さんは眠っているように見えた。すぐそばに、黒木さん自身が気に入っていた自分の写真が飾ってあった。私は「人に仕事を頼んでおいて、『俺にはもうこれ以上できない。あとはよろしく』なんて、あんまりだ」と本人に抗議した。いくらか気分がすっきりした。それからしばらく、奥さん、息子さんと最近の黒木さんの様子、前日からの言動、電話、メールなどの時期や内容を確認し合った。自殺にまちがいなかった。その後、黒木さんとの思い出話(かなりが愚痴)をした。部屋を見渡すと、いま20歳を越えた息子さんが5歳のときに描いた黒木さんの絵が飾ってあった。黒木さんにそっくり。で、カッコいい。
 
 
家族葬で
遺書には「家族葬でお願いします」とあった。突然の死に、妻や子どもたちに世間の好奇の目が注がれるのを気にしたのだろう。
 
同じ日の夕方、地元の葬祭センターで通夜が行われた。家族葬ということだったが、遺書を持っている私は身内扱いかと思い、参列した。家族、親戚だけでなく、黒木さんと親しかった人たちも来ていた。
だれもが働き盛りの男の突然の死に驚いていた。その中で、黒木さんのお母さんは小さい体を丸めて泣き続けていた。献花が終わった後も椅子に座ってうなだれていた。私は挨拶だけして帰るつもりだったが、それができず、しゃがみ込んで少し話した。食事をする揚所に移動してからも、顔見知りの人たちと少し話した後、お母さんの前の席に座り、私と黒木さんの関わりを話した。すると、お母さんの隣りに座っていた黒木さんのお兄さんが、子どものころの兄弟のエピソードをいろいろ話してくれた。子どものころの黒木さんの姿を思い描いて、私はときどき笑ってしまった。すると、お母さんも「あの子は優しい子でねえ」と自慢話を姶めた。私が「黒木さんには酷い目に遭った」と突っ込みを入れると、お母さんは反撃した。周りに人が集まってきて話が盛り上がり、お母さんも笑うようになった。
別れるときのお母さんは背筋を伸ばし、穏やかな笑顔になっていた。
 
 
別の集まりの企画
同じ食事の場で、週刊朝日の編集部スタッフと黒木さんの思い出話をした。ここでも黒木さんに“迷惑”をかけられたことや、いろいろと黒木さんを気遣ったことがお互いの話題になった。そのうち期せすして、黒木さんに一言言いたい人がたくさんいるに違いないから、別途、そういう人たちのための集まりの揚を作ろうということになった。
黒木さんに対する率直な思いを語ってもらおうという企画なので、黒木さんの家族や親戚に声をかけるかどうかはちょっと躊躇した。が、「総合点としては黒木さんは周囲の人に好かれていたから、いろいろなエピソードが出てきても、なんとか持ち堪えるだろう」という見切り発車で、呼ぶことになった。
 
 
「功績を称える会」
12月19日。黒木さんの53回目の誕生日の日。都内のホテルで、週刊朝日の編集部スタッフが裏方となって、『黒木昭雄さんの功績を称える会』を開いた。「お別れの会」「送る会」「偲ぶ会」はどれもボツ。黒木さんの仕事ぶりを見てきた者たちとして、黒木さんがほかの人にできない仕事をして来たことを改めて確認する会にしようということで、「功績を称える会」になった。黒木さんが生きていたら、「勘弁してよ」と言いそうだが、死んでいるので発言権も決定権もない。
当日、壇上には黒木さんが気に入っていた自分の写真と、私が気に入っている、息子さん描いた黒木さんの絵が並んだ。
 
 
黒木さんを支えた人たち
参加者は、黒木さんの家族・親戚、原田宏二さん、三井環さん、大谷昭宏さん、宮崎学さん、鳥越俊太郎さん、篠田博之さん、上杉隆さん、長野智子さん、今井亮−さん、寺澤有さん、鈴木邦男さんなどなど100名以上。
司会進行は山ロ一臣・週刊朝日編集長。2時間半の集まりでの話には弔辞はなく、黒木さんとの関わりやエピソードが次々に披露された。だれもが黒木さんに何らかの“迷惑”をかけられているようだった。それでいて、こうして集まって話してくれた。迷感以上に黒木さんに惹かれるものがあったからに違いない。黒木さんの身内の人たちは、黒木さんが外でだれとどんな仕事をしていたか活動をしていたかを、少しだが知ることになった。
前半は場を意識してか静かな進行だったが、後半には笑いが出、拍手も出るようになり、どんどん盛り上がっていった。合間に挨拶に立った黒木さんのお母さんも「息子の53歳の誕生日にこんなにたくさんの方に来ていただき、ありがとうございました」と、まるで本当に黒木さんのお誕生会をたくさんの人が集まってしているかのように、嬉しそうに話していた。
その後も次々に“被害者”の話が続き、最後に、黒木さんの息子さんが挨拶に立った。挨拶の中の「父の死は殉職だと思っています」という言葉には、参加者だれもが納得しているようだった。黒木さんがいろいろな人たちに支えられて生きて来たことを実感した。
「称える会」は成功裏に終わった。
会が終わったあと、私はお母さんに声をかけた。「来年もしてほしいんじゃないですか」と。「はい」。お母さんはすぐに返事をした。
 
 
 
 
 

 
つづきはこちらです。
 
 
 
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