黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」

小原勝幸を容疑者とするこの事件は、言いようのない不正義な社会構造を見せつける事になった。遺作小説『神様でも間違う』完成。

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ウソつき政治警察腐敗連動しているこれまでの議論は茶番だ!
 
冤罪問題が沸騰するのはのはその時だけで
警察不祥事はワイドショーレベル
多くの有権者は垂れ流し報道を参考に投票するしかない
 
 それどころか選挙ともなると
口をそろえたように同じ事ばかり
「警察改革」をマニフェストに掲げる議員・政党はない
これでは政策を巡る論戦も起きない
 
冗談ではない
これが日本の姿だ
これで日本警察が腐らない訳がない
 
 
 
 
可視化法案 提出見送りへ
反撃ののろしを上げる p146-147
 
 私自身の意思はすでに固まっていた。
 
 前述した第二自動車警ら隊当時に受けた屈辱的な処分の一件で、
「俺は以後、納得のできない組織の対応には従わない。納得できない始末書を求められたら、迷わず退職願を書く」
と、腹を決めていた。だから迷いはなかった。
 
 「我慢もここまでだ。親父ゴメン」
 
 私は仲間に退職の意向をひそかに伝え、「大警視庁」を相手に戦う作戦を立てた。
 
 まず、十二月八日、出勤早々に体調の不良を上司に申し出た。それも精神的不調である。ただちにタクシーで警視庁健康管理本部に案内され、担当した氏田章子氏のカウンセリングを受ける
ことになった。
 
 「頭がボーッとなるんです。イライラするんです。不安に襲われるんです」
 
 症状を訴えると、当惑した氏田氏は、私が事前に予想していたとおり、東京警察病院の神経科への受診を勧めた。
 
警察病院の診断結果は「不眠症」だった。
 
「おおむね一週間の自宅加療を要す。」
との診断書を受け取り、以後、その診断を更新しながら翌平成十一年一月まで合法的に休みつづけ、告発本の第一弾の執筆にとりかかったのだった。
 
 私の退職の意思を伝え聞いて小躍りしたのは唐崎副署長と豊泉警部だろうが、今となっては立場は逆転した。私が人生の踊り場でもがき苦しんでいたとき、今の立場(ジャーナリスト)に導いてくれたのは、まぎれもなく彼らなのだ。
 
そして今また、警察を愛するがゆえにこの本を書くことができた。あらためて感謝の意を表したい。
 
 
嫉妬から生まれた追い落とし工作 p143-146
 
 結論から言うと、一連の「事件」は、唐崎副署長の私に対する「嫉妬」が原因という、じつにくだらない話だったのだ。
 
 ここで、当時の荏原警察署幹部と私の関係について若干ふれる必要がある。
 
 まず、佐藤安行署長は私が本庁の第二自動車警ら隊に所属していた当時の副隊長で、警備課長のT警視は第三中隊当時の直属の中隊長だった。
 
さらにクラブの相談役を引き受けてくれたS警部補も第三中隊の先輩で、そんな気心の知れた関係にあったため、私が他の署員とはちがった親密さで幹部と接していたことは否定できなかった。副署長の唐暗警視には、それが気に入らなかったのだ。
 
 「唐崎副署長がね、『あいつ(筆者のこと)は署長に呼ばれて署長室に入るとなかなか出てこない。中から笑い声が聞こえてくる。俺を無視していた、だから俺は黒木を辞めさせたかった』って言ってたわよ……」
 と、当時唐暗副署長からしつこく交際を迫られていたという荏原警察署出入りの女性生保勧誘員が私に語った。
 
 「事件」から四日後の十二月七日、私とS警部補の二人が、突然、配置(係)換えを命じられた。
 
その理由を尋ねても、当時の担当係長は何も答えなかった。結局、署をあげてわれわれを調べた結果、処分にあたいするものが何も出てこなかったのだが、署長の息のかかった二人をそのまま捨て置くわけにはいかず、一般の内部異動として処理しようと考えたわけだ。
 
署長を含めたわれわれ三人の関係は周知の事実で、退職を目前にした署長が表向きS警部補と私をかばうことはできなかった、というのが当時の署員たちのおおかたの見方だった。
 
 数目後、地域課長のF警視から、
「黒ちゃん、始末書を書いてくれ」
 と言われた。
 
 「何の始末書ですか? 追っかけまで付けて大騒ぎして、今回のことはたかだか始末書程度のことだったのですか」
 と私は意地悪く尋ねた。
 
 「黒ちゃんは、無届けで船の免許とったでしょ。届けなしにクラブもつくった。だから始末書を書いてもらいたいんだよ。雛形は用意しておくから。もし書く意思がないなら、署に来てもらっては困る……」
 と言う。
 
それは承服しかねる始末書の要求だった。「バカにするのもいいかげんにしろよ、叩けば何かが出ると思い込んで、お前らが勝手に話を大きくしておきながら、最後は始末書だって。
書かなければ署に来るな、か。上等じゃないか、こっちから辞めてやるよ!」と言ってやりたか った。しかし、その場は「ぐっと」我慢することにした。
 
 そして、事態収拾のためにメンバー全員が同じように始末書の提出を求められた。「これは強制ではないからな」と言いなから雛形どおりに書けというのだ。
 
W巡査長への扱いはとくに面白かった。「俺は車の免許もないんだぜ、船の運転なんかできないよ」とみんなを笑わせて受験しなかった彼の扱いには、荏原警察署幹部も苦心したようだ。
 
始末書の理由は「無届けで危険なマリンスポーツであるクラブに参加し、船に乗った」という「罪状」である。
 
 「ばか言うなよ、それじゃ釣り舟に乗ってる連中もみんな始末書だな」と、いまとなっては笑い話以外のなにものでもない。
 
 次は
狙い撃ちされたクラブ員 p138-143
 
 それは、平成十年十二月三日の朝のことだった。われわれクラブ員は突然、上司からの呼びだしを受けた。全員がバラバラにされ、「犯罪者」として取り調べを受けたのである。
 
上司はすでにわれわれの会報「舵」を手にしており、「違法行為」に手を染めた不穏な連中として取り調べがおこなわれた。当目、われわれは非番で、前夜は布団に入ってゆっくり寝ることもできないという悪コンディションをねらった打ち込みだった。
 
調べの骨子は以下のとおりだ。
 
 
一、「危険なレジャー」であるマリンクラブの結成目的
 
二、届け出を怠って免許を取得した事実
 
三、乱れた男女関係
 
四、ゲストの勧誘行為
 
五、クラブ員の経済的負担
 
 
 取り調べ対象者は、クラブ員以外のゲスト(ぃずれも署員)にまでおよんだ。「なんとしても決定的な違法行為を探しだす」という組織の強い意思が感じられた。しかし、彼らに決定打はない。
 
クラブ員の誰一人として法に触れた事実はないし、また、非難にあたいする非倫理的な行為もいっさいおこなっていないのだから当然だ。
 
 午後にまでおよんだ取り調べからつぎつぎに解放されたメンバーは、荏原警察署の独身寮「荏原寮」に集まった。クラブ員の結束は固い。「誰にも話すなよ」と口止めされても、取り調べ内容を突き合わすなど知れたことだ。
 
 誰もが上司に対して事実をありのまま答え、隠し立てなどいっさいしなかった。
 
われわれの活動は署内でもオープンにおこなわれており、署長以下の幹部に事実上、認知されていたのだ。だから罪の意識もまったくなく、雰囲気はいたって明るかった。しかし、会計を担当していた女性警察官のS巡査長からの電話で、その雰囲気は一変した。
 
 S巡査長はその日の午後、子供の学校で個人面談があるため、半日休暇を申請し、許可が下りていた。しかし、彼女は当時直属の上司で現在警察庁情報管理課に勤務する豊泉哲男警部に缶詰め状態にされ、半日以上にわたって陰湿かつ執拗な取り調べを受けていたのだ。
 
 調べのはじまった当日の朝、彼女が午後には個人面談に行きたいと言うと、
 「今は子供の個人面談なんて言ってられないだろ」
 と怒鳴られたという。
 
 机の上に白紙と鉛筆が置かれ、住所、氏名、職業、生年月日、出生地、家族構成、同居親族の有無、家族の年齢、初任科期別教場、拝命年月日、着任年月日を書かされた。それらは人事記録に書かれている事柄であり、上司である豊泉警部が知らないはずはないのに、それをあえてしたというのは、「おまえは警察官を辞めたいのか。本当のことをしゃべろ、こっちは全部知ってるんだぞ」という脅し言葉に、より具体的な迫力を持たせるための悪質な演出なのである。
 
 昼食も取調室に運ばせ、トイレにも立ち会い、家族への電話にも立ち会うという脅迫的かつ屈辱的な取り調べ手法は、私が第二自動車警ら隊時代に体験した人事一課監察係のそれとまったく同じだった。
 
 取り調べがS巡査長のクラブでの役割におよんだとき、豊泉警部は待ってましたとばかりにクラブの出納簿、貯金通帳、キャッシュカードなどを取りあげたのだ。
 
 いかに閉鎖的で「特殊」といわれる警察杜会においても、これは異常なやり□だ。
 
豊泉警部に不法領得(自己または第三者のものにする目的で他人の財産を奪うこと)の意思がないにしても、何の手続きもなしにS巡査の所持していた貯金通帳などを数日間にわたって取りあげるとは、まさに犯罪行為である。
 
 さらに、「届け出なく試験を受けた行為は内規違反、危険なスポーツを未届けでおこなった行為は服務規定違反だ、場合によっては人事にかかわる」と脅した行為は脅迫罪を構成する。
 
しかし、豊泉警部の「犯罪」はいっさい不問に付され、S巡査長への執拗ないやがらせだけが以後もつづけられることになる。出勤時に携帯電話を取りあげ、退庁時に返されるという日々がつづき、ミニパトカーヘの乗務も禁じられてしまった。
 
 そのS巡査長から電話が入ったときは夜七時近くになっていた。彼女は怯えた声で、
 「いま、署を出たところだけど、公安係(警備課公安係=各警察署に十人ずつぐらぃ配置)のT警部補とS巡査部長に尾行されているの」
 というのだ。
 
われわれは動揺するS巡査長にすぐにそちらに向かう旨を告げ、荏原中延駅前の交番前で合流することにした。少し前の明るい雰囲気は消え、クラブ員の心の中には憤怒の波紋が広がっていた。
 
 
 到着したわれわれは、駅前の少し離れたところから公安係の二名がこちらの様子をうかがっているのを確認した。「これは偶然じゃないぞ」仲間の一人がつぶやいた。
 
われわれは全員で電車に乗った。いつしか「追っかけ要員」は他所属(他の警察署)の公安係員と入れ替わっていた。一名は以前、荏原警察署公安係で勤務していた男だったが、悪びれた様子もなく、堂々とわれわれの前の席に座り、監視しているのだ。
 
 われわれは結局、五反田駅で降りて居酒屋に入った。彼らはわれわれの足取りをとらえ、そこで「消えた」(おそらく、その後は秘匿配備に切り替えたのだろう)。
 
 そこにはS巡査長を含めて七人のメンバーが集まっていた。そして、冷静に一日を振り返った。
 
「人に刺される理由はない、警察幹部は証拠たるものを握っていたわけではない、なんらかの謀略がそこにある」それが警察官としての一致した見解だった。
 
 しかし、現職の警察官がゾロゾロと公安に尾行されるのだから、まるでマンガのようなお粗末な話である。自然に笑いが洩れた。
 
 そんなことがあった翌々日の十二月五日、今度は私が個別に上司に呼ばれた。
 
 「クラブの解散は考えていないのか? 船の売却を考えろ」というのだ。
 
私は「個人の財産処分にまで、命令ともとれることを言われる筋合いはない」ときっぱり断った。
 
 そして逆に、
「この数日間われわれに尾行までつけて大々的に調べたようですが、われわれに何か警察的不具合はありましたか」
 と質問をした。
 
 「それは別にない」
 とT警部は言う。
 
 「なんで後ろを気にしながら歩くのか」
 と、みずから尾行の事実を認める間抜けな発言をしたS巡査長の直属上司の豊泉警部は、意地悪もそこまでいくとお粗末にすぎる。
 
 なぜ、われわれに尾行をつけたのか。そんなことは当事者となった人間が上司に聞くことではないが、私は当時、信頼できる上司だったがゆえに、あえて公安係のE警部に聞いた。彼は「俺はまったく知らない。俺はそんな汚いことはしていない。信じてくれ」と真剣に言った。
 
ならば他所属員まで使って「作業」にあてられる立場にあったのは、現在、某警察署で警備課長の職にあるT警視(当時、荏原警察署警備課長)と、現在警視庁の警備部理事官の職にある唐崎(からさき)郁夫警視(当時、同副署長)だけだ。
 
 
 
 次は
 
発端となった署内「マリンクラブ」の結成 p135-138
 
 どれほどの実績を残し、どれほど社会に貢献しようとも、非情な警察社会はわずかな過ちも忘れようとしない。それどころか、見せしめ的な仕打ちと差別は半端ではない。
 
 平成七年三月のオウム真理教への強制捜査以後、警視庁の全警察官に対して「オウム憎し、全信者を検挙せよ!」という命令が発信された。
 
 全国に張りめぐらされた警察の車輛監視装置「Nシステム」にはオウム真理教関係の全車輛が登録され、一日何回もオウム車輛をヒットさせた。それはただちに「オウム情報」として警察無線に流された。相手がオウム信者ならば、たとえわずかな罪でも寄ってたかって逮捕しろというのである。
 
 これがいわゆる「オウム狩り」だ。
 
 オウム狩りに積極的に参加した警視庁の警察官は、「特別昇給」システムによってほとんどが昇給した。しかし、例外的に私だけは取り残された。懲戒・戒告処分を受けた私には、もはやそんな権利などなかったのだ。
 
 私は挫析感にも似た焦燥感にかられた。顔に出さなくとも心の中では、何か重たいものが堆積していくように感じられた。そんななかにあって、あらためて前述の理不尽な処分に屈辱を感じつづける毎日だった。
 
 この項の冒頭でふれたように、四十代は人生の踊り場という言葉を実感として感じたのはこのころだった。あるとき、そんな私の心のすきまを埋める一冊の本に出会った。ヨットで全国を巡るクルーが、困難な状況下で果敢に自然に立ち向かう姿が描写されていた。
「海か……」
 
 それがきっかけで、私は自分の趣昧として海に出ることを考えるようになった
 
 平成九年十一月、私は友人の勧めで小型船舶操縦士免許を取ることを決めた。同僚のA巡査長も同調し、ともに受験し合格後、早々に一隻の小型クルーザーを購入した。
 
 仕事を離れ、船には警察官としてではなく友だちとして集まった。海の世界には階級も男女の別もない。すべてが平等で、経験が優先される。
 
 岸壁から見る景色と船から見る景色は明らかにちがっていた。
 
おかげで、固定観念にとらわれず、多角的にものを見ることができるようになれた気がした。それが私の人生観に変化をもたらしてくれたのだろうか、人生はいつ果てるとも知れない、だから仕事のトラブルなんか小さなことだと思えるようになった。
 
 船に集まる友人も五十人を超え、やがて常連として乗船する「クルー」が生まれた。どこからともなく「クラブをつくろう」という声があがり、話は一気に具体化した。
 
 M巡査長は一級小型船舶操縦士免許を持っている。だから彼が初代会長となった。会の規約もつくり、会報も発行した。会計係は女性警察官のS巡査長とM・O巡査長、そして前出のA巡査長が担当することになった。
さらに四人の巡査長が中心になってクラブの企画立案に携わり、相談役としてS警部補が名を連ね、総勢十名の「マリンクラブ」が署内に誕生した。
 
 テレビの刑事ドラマなどでは警視庁の警察官は仲間同士の固い結束が売り物のように描かれているが、あれはウソだ。
 
組織がでかいだけに、内部の人間関係は殺伐としたところがある。
 
転勤直後は連絡を取り合うことはあっても、行った先の水に慣れれば、前任警察署のことなど忘れてしまう。寂しい話だが、それはどこに所属していても言えることだ。
 
さらに、警察はれっきとした階級社会だから、職制も内動と外動に分かれ、上下関係が優先され、いつまでも同じ思いの中では生きていけない。人はいずれ変わってしまうのだ。
 
 わがクラブの会員はほとんどが経験十年以上の警察官だった。一所属(一警察署)しか経験のない青二才はいなかった。みんな心のどこかで警視庁のすさんだ人間関係を感じとっていたのである。だから、生涯を通して付き合える友人を船に求めたのだった。
 
 クラブ員のあいだから、いつしか「俺たちも免許を取ろう」という声があがった。
 
それは海に魅了された結果であり、安全意識の高まりでもあった。三ヵ月以内を目標に受験勉強がはじまった。
 
海技、法規、ロープワークなどに真剣に取り組み、平成十年八月、十名のクラブ員のうち八名が小型船舶操縦士免許保持者となった。
 
しかし、このことが私が警視庁を退職するきっかけになろうとは、想像すらできなかった。
 
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