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沖縄県在住の歴史好き!

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戦跡散策を再開いたします。
4月19日にタバコをやめましたので、太らないよう運動がてらに続けてみます。
 
自宅から読谷までは20キロ近くもあるので、村役場周辺に駐車してそこから戦跡を散策してます。
 
イメージ 1
この道路は旧日本陸軍がつくった北飛行場の跡地です。
正確には、戦後アメリカ軍が嘉手納飛行場の補助飛行場として拡張、2003年にようやく返還されました。
そのため、いまでも65年前の面影を残している不思議な空間です。
 
以下、読谷飛行場のできた経緯です。沖縄県の資料を引用しております。
 
 
【読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)】
 昭和17年(1942年)末ごろ、日本陸軍の航空部隊は南方戦線を展開するにあたり補給中継基地として南西諸島に航空基地を新設する必要が生じ、真っ先に沖縄本島中部の読谷に広がる読谷野の用地接収をはじめたが、村役場や地主たちは事前に知ることもなかった。
 昭和18年夏、飛行場建設用地に赤い旗が立てられると、その1週間ほど後、関係地主が国民学校に集められ、県警保安課長も立ち会う中で担当将校から「この地域は飛行場として最適であるから諸君の土地を提供してもらいたい。戦争が終わればこの土地は地主に返す。」あるいは「飛行場予定地は土質といい「広さからいっても最適地である。先祖代々から受け継いだ土地で愛着もあろうが、我が国がこの戦争に勝利するため国法に基づいた計画であるから二言はない。こういう次第であるから諸君の土地を国家に捧げてもらいたい。」という説明が行われた。
 接収された土地は村内6字におよび1,956筆で面積約2660,902平方メートル、地域内には48戸の民家と548人の地主がいた。土地代については説明もないまま村長と軍(航空本部経理局)の間で仮契約が行われた。ある調査によると、土地を接収された地主548人のうち、土地代を支給されたものは皆無で、家屋や作物の補償金を受領したものは7%(39人)、一部受け取ったものは23%(124人)、受け取っていないもの19%(106人)、受け取ったかどうかわからいもの51%(179人)となっている。保証金が受け取れた場合でも強制的に国債や郵便貯金に振り返られて結局現金を手にすることはなく、受給の有無もわからないという回答が半数を超えている。
 元第32軍航空参謀は当時の事情を「その頃は、軍事優先の情勢であり、かつ、飛行場建設は緊急を要したので、地主の意志を聴取する暇もなく、坪当たりの単価は後日決定することとし、取りあえず、地上工作物の補償、民家立ち退きの料を支払うこととし、飛行場の緊急整備に着手した」と証言している。
 昭和199月末にまでには航空作戦基地として利用できる状態まで進んでいた読谷飛行場は、「1010空襲」で真っ先に攻撃の目標にされ、大きな被害を被ったが、昼夜兼行の補修工事によって、直ちに補修され、台湾やフィリピンへ延べ数1,000機の中継基地として機能した。しかし、米軍上陸直線の昭和203月末、部隊は読谷飛行場を自ら破壊し、後方に撤退した
 
 
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読谷飛行場跡地は、地権者等との過去の問題 (売却か貸与か、日本軍の債務不履行) もあって、簡単には進展しないようですが、20年後には活気ある街にしていただきたいものです。
 
ここにモノレールが通れば那覇までは30分程だと思いますので、ぜひ開通していただきたいものです。
宜野湾市の普天間飛行場とおなじく、ここも読谷村の中央にあって交通事情はよくありません。特に読谷高校から残波岬に抜ける道路は、闘牛があるぐらいで何キロも渋滞です。高速も遠いし、最悪だと思います。
 
滑走路は現在道路として利用されていますが、都市を満たすインフラとしての機能には程遠く、夜間は怖くて通れないところです。
 
イメージ 3
滑走路は3本あったようですが、扇のような形でその付け根付近に読谷村役場が建っています。
 
戦後65年経過してもグランドレベルは当時のままで、私の住む浦添や那覇市では考えられない戦争遺跡が残されています。
イメージ 7
 
日本軍の掩体壕です。
15個あったうち、ここ数年前まで3個あったようですが、現在ではこの1個だけだそうです。
 
現在修復工事が進められております。保存すべきだと思います。
案内版の写真とおなじ壕だと思います。
 
 
 
イメージ 4
 
 
壕のつくりは、セメントに石灰岩をまぜてつくったようです。
型枠には、ドラム缶と土で形を整え紙を敷いて生コンを流しこんだようです。鉄筋は使われていなようようです。
工事の人にも聞きましたが、鉄筋は見ていないとのことでした。
 
この壕をつくったのは国場組さんで、当時の監督さんも生き残ったことから多くの証言がのこされています。
奥にあるブロック積みは戦後だたと思いますが、米軍さんや農家さんが利用したんでしょうね。
 
イメージ 5
ほとんどが当時のままですから、知覧の三角兵舎よりもリアルだと思います。
 
イメージ 6
先月行われた県民大会の会場ステージの直ぐ裏にあって、徒歩2〜3分の場所にあります。
 
ちゃんとしたかたちで保存していただきたいものです。たとえばですが、歴史資料館でも横につくって、義烈空挺隊も含めた真実を多くの方々に見ていただけないかと思います。
 
 
 

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    man

    [ man ]

    2010/5/10(月) 午後 3:57

    返信する
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    manさんコメントありがとうございます。
    ですが、短いコメントで理解できません。

    [ kushinakayone ]

    2010/5/11(火) 午前 6:29

    返信する
  • 戦争の歴史は正しく伝えるべきですが、
    いまだに戦争の爪痕や、戦争の負の部分を引きずっていては、沖縄での平和な暮らしが出来ないと思う。

    [ TAKA ]

    2010/5/16(日) 午後 7:39

    返信する
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    読谷飛行場が車で走れるとは知りませんでした。我が家は沖縄ブームなので来年も沖縄に行こうかと思っていますのでレンタカーを借りて読谷飛行場に突入、滑走路わきの義烈空挺隊の碑に参拝したいと思います。

    [ たけし ]

    2010/5/23(日) 午後 0:38

    返信する
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    takeさんコメントありがとうございます。

    読谷村は世界遺産や人間国宝の窯元等、みるところも沢山あります。

    ぜひおおこしいただき、お金もたくさん使ってください。

    [ kushinakayone ]

    2010/5/23(日) 午後 1:40

    返信する

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