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「男女の教員は広い職員室に集まっていた。その日は土曜日で、月給取りの身にとってはかえって明日の日曜日よりも楽しく思われたのである。ここに集まる人々の多くは、日々の長い勤務と、多数の生徒の取り扱いとにくたびれて、さして教育の事業に興味を感ずるでもなかった。」
「毎月のこととは言いながら、俸給を受け取った時の人々の顔付きはまた格別であった。実に男女の教員の身にとっては、働いて得た収穫を眺めた時ほど愉快に感ずることはないのである。ある人は紙の袋に封じたままの銀貨を鳴らしてみる、ある人は風呂敷に包んで重たそうに提げてみる、ある女教師はまた、海老茶袴の紐の上から撫でて、人知れず微笑んでみるのである。」
第2章で藤村はこのように教員達を描いています。ここには「聖職」と言われた教師像は微塵もありません。ほかの箇所でも「『あそこへ行くのは、ありゃあ何だ・・むむ、教員か』と言ったような顔付きをして、はなはだしい軽蔑の色」で見られるのが教員だと言っています。こうした描写の背景には、当時の教育現場をめぐる厳しい監視制度があります。
『破戒』は明治37・8年を小説の舞台としています。それより15年ほど前に「郡視学」制度というのができました。郡視学というのは、現場の教師を指導監督する「県のお目付け役」です。講堂の奥に天皇の御真影は奉納されているか、教育はすべて勅語に従って型どおりに行われているか、受け持ちの学校を定期的に見回って調べるのが郡視学の仕事です。「郡視学の命令は上官の命令」だったと、藤村は書いています。型どおり教えればよし。しかしはみ出し者や教育方針に疑問を持つ者は、丑松のように校長や郡視学の手で弾き出されたのです。
教師達は一様に疲れきっています。しかも彼らは薄給です。その貧しさは丑松の部屋を見れば一目瞭然です。床の間に置き並べた書籍と雑誌の類のほかには本当になにもありません。ことさら廉価に仕上げられた40銭の猪子蓮太郎著『懺悔録』ですら、買ってしまえば明日の食費がなくなるほどだし、蓮華寺へ引っ越すにも丑松は次の給料日を待たなければならなかったのです。
このように、『破戒』に出てくる教師群にとって、給料日こそは、切り詰めたひと月の暮らしを次のひと月にようよう繋ぎとめるための大切な日だったのです。給料袋を「海老茶袴の紐の上から撫でて、人知れず微笑んでみる」ような教師像は、なるほど受け取りようによっては堕落であるかもしれません。しかし、人がパンのみに生きないためには、まずもってパンが必要です。「武士は食わねど・・」では一日たりとも生きていけない教師の現実が、ここにさらけ出されています。
丑松自身も例外ではありません。彼が師範学校に入学したのも「多くの学友と同じように、衣食のみちを得るため」であり、官費で師範へ行った彼は、見返りとして課せられた「10年の義務年限」を終えるまでは歯を食いしばって耐え抜く決意なのです。なぜなら、この義務年限が切れる前に教師をやめてしまえば、国から借りた全額を返さなくてはなりません。そんなお金があるはずがなかったからです。
(以下、つづく)
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