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(つづき)
けれども、労働が苦痛でしかないような教師の日常性はまた、精神的荒廃を生む土壌にもなっています。藤村は、その精神的荒廃について、いくつかのタイプを『破戒』の読者の前に示しました。
ひとつは先に見た風間敬之進の場合で、これは完全な諦観型です。
もうひとつのタイプは校長や勝野文平です。彼らは県中央の政界とコネを結ぶことに夢中です。そうすることで現状から抜け駆けしようとしています。己の出世のために虎視眈々と他人の失脚を狙うタイプです。藤村は、二人が人一倍礼儀を重んじたり、服装を身奇麗にしていることをことさら強調して描いています。もちろん政界とコネを結ぶ手段ではありますが、その実、自身の薄汚れた心根を取り繕おうとする彼らの潜在意識が、はしなくも現われたと見ることができます。
女教師の間に人気を博するのが丑松ではなくて文平であるということも、注目する必要があります。文平の人気の秘密は、単に彼の身だしなみが気が利いている(センスがいい)からではありません。若い文平が他ならぬ郡視学の甥だからです。そこには、出世の約束された男と結合することで自らの浮上ないしは安定を謀ろうとする女たちの心が働いています。彼女たちもまた、精神的荒廃のために人を見抜く力を失っているのです。
そしてもう一人、別の方法で抜け駆けを企てる人物がいます。土屋銀之助です。彼についてはあとで別項を立てたいと思いますが、この丑松の親友にとって、しがない小学校教師の職は一時の腰掛けにすぎません。彼が教師の身をさほど苦痛に感じず、常に陽気でマイペースであり、人がよい代わりに無責任でいられるのは、そのためです。その彼も教師の身の上を罵るのですが、それは「農科大学への転進」が決まった後のことです。
なるほど銀之助は最後まで丑松をかばい通しました。彼は親友の不幸を黙って見過ごすような薄情な男ではありません。しかし、彼はどうしてあそこまで丑松のために行動できたのでしょう。それは、彼の「抜け駆け」が校長や郡視学といった「飯山の人間」の口利きではなく、「長野の師範講師」の口利きで行われたからです。つまり、言いたいことをずけずけと言い、丑松の弁護を買って出ることで、どんなに校長や郡視学と敵対関係になろうとも、それは彼自身の希望して止まない「大学への転進(抜け駆け)」にはほとんど悪影響を及ぼさない保障があったからでしょう。
彼は他の教師に比べるとそれほど精神的荒廃を感じさせません。その代わり軽薄です。農科大学への転進にあたって百円という大金が必要になったとき、銀之助は「早速親父の方へねだって」出してもらいました。彼はその金額を「百円足らずの金」と丑松の前であっさり言ってのけたのです。彼が精神的荒廃を免れたのは、薄給とは言え他の教師ほど金のために労働に縛りつけられなくて済んだからです。けれども、その分だけ彼は軽薄な楽天家になったとも言えそうです。
ところで、そうした金もコネもない「えた」の丑松はどうだったでしょう。彼にはこの逼塞した現状に踏みとどまって、そこで若い情熱をせめて教え子たちに託して生きるしか道がないのです。教育に興味を失った教師や抜け駆けをはかる教師群の中で、丑松が生徒たちの人望を一身に集めたのは至極当然の成り行きだったというべきでしょう。
藤村はこのように、教師が教壇に立つそのことも明確に「労働」として、生活のための闘いとして捉え、描いています。しかも同時に、丑松を勇気付け立ち直らせたのがこうした教師仲間の労働ではなく、敬之進の細君や音作たち(彼らは維新までは士族・風間家の使用人だったと思われます)の労働であったことを、はっきり描いています。
教師の労働と小作の労働との間には、どれほどの違いがあったのでしょう。小説から確実に読み取れるのは、小作にとって、労働とはまさに食うか食われるかの命を張った闘いであり、一年間注ぎ込んだ労働の収穫を強引に掠め取ろうとする地主とのわずか半日の掛け合いを、彼らは全知全能をかけて闘わなければならなかったということです。
「『なにしろ坊主九分交じりという籾ですからなあ』こう言って、音作は愚かしい目つきをしながら、傲然とした地主の顔色を窺い澄ましたのである。」(第17章)
「坊主九分交じり」がどんな良質の籾なのかは知りませんが、「愚かしい目つき」をすることで「傲然とした」相手から油断を引き出そうとしながら、音作は地主の顔色に出る心の動きを窺うのです。日の出から日没までの体がゆがむほどの大地との格闘が報われるか否か、すべては収穫物を目の前に置いて展開されるこの地主との闘いにかかっているのです。
こういう熾烈な戦いの前には、教師の労働は比ではありません。まさに、そういう闘いを目の当たりにすることで、丑松は己を取り戻したのでした。
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2007/10/15(月) 午後 7:42 [ tou*ama*a*ui*i ]
touyamaharuitiさん
トラックバックありがとうございます。といいながら、実はぼくにはトラックバックというのがまだよくわかりません。教えてください。こちらからも遊びにうかがいます。よろしく。
2007/10/17(水) 午前 7:23 [ 鳥獣子 ]