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丑松の父について、藤村は筆を多く費やしていません。この人は読者の前に「生きた姿」では登場しません。この人物について知ることができるのは、すべて、丑松の回想を通じてであり、また臨終に立ち会った叔父の口を通じてです。しかし、それでもなお、この父の生涯と人となりは重い実在感をもって、はっきりと引き出されてくるのです。
「日頃俺はあいつに堅く言い聞かせて置いたことがある。どうか丑松が帰って来たら、忘れるな、と一言そう言っておくれ」と言い遺してその父が息を引き取る件り(第7章)は、高い真実性をもっています。苦しい息の下から、「俺が亡くなったとは、小諸の向町(丑松の生まれ故郷)へ知らせずに置いておくれ」と頼むことを忘れなかったその父。
功名心を火と燃やしながら、一生を差別と迫害のために何ひとつ良い思いをすることもなく、社会から隔絶した谷間の牧場に「憤然と」身を隠すことによってしか自己の人間的尊厳を護ることが許されなかった、そしてその牧場で物言わぬ種牛どもを相手にして初めて己が胸襟を開くことのできた年老いた被差別部落の父親の姿が、そこにあります。その父親の息子にかけた情愛の深さが描かれてあります。
息子にだけは立派に身を立ててもらいたい。だがそのためには「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人にめぐり合おうと決してそれとは打ち明けるな、一旦の怒り悲しみにこの戒めを忘れたら、その時こそ社会から捨てられたと思え」、忘れるな!その秘密はどんなことから漏れるとも限らないのだ。これが丑松の父の臨終の際の「頼み」だったのです。
まさにこのようにして、「部落」を隠して世に出たどれほど多くの若い男・女が肉親の死に目に会えなかったことでしょう。父親の葬式に帰るにも、どれだけ人目を避けて汽車に乗り込まなければならなかったことでしょう。いや、汽車に乗れるお金を持たなかったどれほど多くの被差別部落の人々が、何足もわらじを履きつぶし、いくつもの峠を越えて重い足取りを急がせねばならなかったことでしょう。そうしてやっと間に合った葬式でさえ、「普通の農家の葬式で通ればよし、さもなかった日には、断然断られるような浅ましい目」にあったのです。
天長節の夜更け、森閑として底冷えのする校庭の闇の向こうから遠く呼びかけてきた父の声の、わが子の姿を求めてさまようようにまた最期の別れを告げるように「丑松」「丑松」と繰り返し響くとき、その奥に籠められた世の中に対する深い恨みと烈しい憎しみとが、読む者の背筋を凍らせて迫ってきます。
このように、人里離れた谷間の牧場に封じ込められたまま生涯を閉じた丑松の父。その死んでも死に切れなかっただろう父の屍骸を墓穴に埋めてしまうと、いよいよ父の戒めがのっぴきならないものとして丑松にのしかかってきます。
(父は)その抑え切れないような烈しい性質のために、世に立って働くことが出来ないような身分なら、いっそ山奥へひっこめ、という憤慨の絶える時がなかった。自分で思うようにならない、だから、せめて子孫は思うようにしてやりたい。自分が夢見ることは、どうか子孫に行わせたい。よしや日は西から出て東へ沈む時があろうとも、この志ばかりは堅く執って変わるな。行け、戦え、身を立てよ・・父の精神はそこにあった。今は丑松も父の孤独な生涯を追憶して、あの遺言に籠る希望と熱情を一層強く感ずるようになった。忘れるなという一生の教えのその命・・あえぐような男の魂のその呼吸・・子の胸に流れ伝わる親のその血潮・・それは父の亡くなったと一緒にいよいよ深い震動を丑松に与えた。(第7章)
「せめて子孫には・・」丑松の父のこの精神と「隠せ」という戒めとは、当時の被差別部落の父親・母親が持っていた精神の一つの典型だったでしょう。「部落」を隠して世に出た子孫たちを支えたのはこの親の精神だったでしょうし、かれらはこの精神に応えるために「隠し通す」ことを決意したでしょう。
そして彼らは隠し通せたでしょうか。かれらの決意と忍耐にもかかわらず、彼らは先々で「秘密」を暴かれたのです。彼らは、丑松や大日向を襲った同じ凶暴な世間のために、親よりもさらに孤立した状況で辛酸をなめたのです。だからこそ、噴き出そうとする己の意志の力を己を殺すことのみに向けて、ただ息子とその子孫のためだけに生を託す丑松の父の生き方は、より重たい実在感を持って迫ってくるのです。
(つづく)
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