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徳田も北原も、いやこれまでの批評家は私の知る限りすべて、丑松の父を極めて個人的な存在として取り上げています。しかしほんとうにそれでよいのだろうか、と私は思います。
「そもそもは小諸の向町(えた町)の生まれ。北佐久の高原に散布する新平民の種族の中でも、ことに40戸ばかりの一族(いちまき)の『お頭』と言われる家柄であった。」(第1章)
丑松の父は「一族のお頭」だったと、藤村ははっきり書いているのです。つまり、40戸ばかりの被差別部落の支えとなるべき総代です。そのお頭が「せめて自分の子孫は思うようにしてやりたい」がために、小諸の向町を見捨ててひとり村を飛び出したということになります。丑松の「平和な日々」はこうして保障されたわけですが、その代償として、お頭に去られた「40戸ばかりの一族」はなお、差別と迫害の只中に置いていかれたのです。その人々は果たして、この突然姿を隠したお頭を「悲劇中の英雄」として見たでしょうか。ひとりで抜け駆けをはかったこの人物を許すことができたでしょうか。
「俺が亡くなったとは、小諸の向町へ知らせずに置いておくれ」と、父は遺言します。ここがとても微妙なところです。もちろん、知らせれば隠遁した意味もなくなりますし、丑松を護るためにも知らせるわけにはいきません。しかしこの遺言の裏には、「お頭としての矜持」のようなものが感じられます。ほかならぬ「お頭の死」であるからには、本来は知らせるべきだろうが・・・という言葉が言外に隠されています。彼はいまだに「お頭」のつもりですが、では、仮に知らせたとして、向町の人々は「お頭の死」を我がことのように悲しむでしょうか。村を見捨てて一顧だにしなかった卑怯者の死として、打ち捨てられはしないでしょうか。
わたしは、丑松の父について、藤村の描き方に不満を持っています。藤村がある重大な「忘れ物」をしなかったならば、この人物は全然ちがった形で描かれたに違いないと思っています。
藤村はどういう必然性において丑松の父を「お頭」として登場させたのでしょうか? ほかならぬ「向町のお頭」の存在意味の重さを、そのものとして彼は描いたでしょうか? 結論から言えば、「お頭」として描かれたこの人物は、しかし遂に「お頭」としては描かれなかったと言わなければなりません。
丑松の父は「彼個人」である前にまず「小諸の向町のお頭」であらねばならなかったのです。そのことを抜きにして彼個人を語ることはできないし、また小諸を捨てるに至った彼の苦悩も語れないはずです。
(つづく)
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