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朝の澄んだ空気を切り裂いて、モズがひと声鳴いた。いよいよ冬に入る。
モズは寡黙である。スズメやツバメのように饒舌ではない。葉を落とした高い木の梢に止まって、
キィーとだけ鳴く。それなのに、昔の人はどうして「百も舌をもつ鳥」などという名前をつけたのか。
モズは孤独である。群をつくらず、ひとり寂しさに耐えている。目立ちはしないが、冬の厳しい寒さにこそ似合う鳥である。
ところで、ぼくはサトウハチロウの『もずが枯れ木で』が好きだ。
もずが枯れ木で鳴いている
おいらは藁をたたいてる
綿挽き車はおばあさん
コットン水車も廻ってる
みんな去年と同じだよ
けれども足んねえものがある
兄さの薪割る音がねえ
バッサリ薪割る音がねえ
兄さは満州へ行っただよ
鉄砲が涙で光っただ
もずよ寒いと鳴くがよい
兄さはもっと寒いだろ
ここにはお父もお母もでてこない。おそらく冬の間はどこか出稼ぎに行っているのだろう。去年までは兄さがお父の役を果たしていた。年老いたおばあさんと二人だけの冬は、火が消えたように寒く、寂しい。兄さは満州で鉄砲をかついで、どんな思いでいるだろう。
昭和10年、軍部の厳しい思想統制下で書かれたこの短詩は、そんなたくさんの思いを、ただ耳に聞こえる音だけに凝縮させて表現した名作である。だが、原詩は最後の2行が違ったという。
もずよ寒いと鳴くでねえ
兄さはもっと寒いだぞ
これが原詩である。この方が断定的で、むしろ豪胆なサトウらしい気がする。それはともあれ、「もず」を「自分」と置き換えてみるとふたつの違いがはっきりする。
原詩は「泣くな!」と自分を叱っている。「兄さは歯を食いしばって耐えているんだ!」と。しかしもう一方は「泣いてもいいぞ」と癒している。「きっと兄さも泣いているだろう」。
どちらが詩として完成度が高いか、ぼくにはわからない。どちらも捨てがたい味があると思う。
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昔の文学や詩を読んでいると、その音感の素晴らしさに驚くことがあります。
音律の美しさというか、読んでるだけでそこにリズムが存在する心地よさに気付きます。今、小林多喜二の『蟹工船』を読んでいて、その朴訥としたリズム感に浸っているところです(笑)。
先日、鎌倉文学館の館長さんと飲む機会があって、『中原中也展』の招待券もらいました。中原中也もまた、切れのある詩ですよね。ちょっと楽しみにしてます。
2007/10/26(金) 午後 3:40 [ 納屋 ]
中原中也は昔買いこんだまま倉庫に眠っています。やっと暇ができたことだし、ゆっくり読んでみます。
2007/10/26(金) 午後 7:32 [ 鳥獣子 ]