鳥獣戯語

[散歩道]を新設。俳句のネタにと思いながら果たせなかった写真をどうぞ・・・

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 明治4年(1871)、明治政府は「太政官布告」を発します。いわゆる「えた解放令」です。これよりは「えた」はもう存在しない、差別と迫害は過去の話となるのだ・・・青年期にさしかかろうとする丑松の父は、どれほど大きな喜びと期待をもってこれを受け止めたことでしょう。
 しかしその後の進展は、全く彼の期待を裏切ったのです。彼らは「新平民」という新しい呼び名で呼ばれるようになったに過ぎませんでした。「えた」としての差別と迫害の実体は少しも変わりませんでした。それどころか、彼らの生活はますます過酷になったのです。新しい時代が、彼らに「平民同等」の租税と兵役を課したからです。「えた解放令」は、結局のところ、差別をそのままにして、彼らを「富国強兵」の仕組みの中に組み込む役割を果たしたのです。

 それを思うと、丑松の父は、期待が幻想へ、そして絶望へと変わるのを青春時代の真っ只中で経験したに違いないと思います。闇の中に一条の光を一度見てしまった者の目には、光が失せたあとの闇は元の闇よりさらに深く感じられるものです。「世に立って働くことができないようなら、いっそ山奥へひっこめ、という憤慨の絶える時がなかった」この父の烈しさは、きっとこの絶望の中で増幅されたのだろうと思います。

 彼が「お頭」になったのがいつだったかはわかりません。しかし、このお頭は、「もやは、向町の一族もろとも解放される道は断じて開けはすまい」と、覚悟を決めたのだと思います。とすれば残る道はただひとつです。40戸がそれぞれ「えた」を隠し、死を賭して各人が「脱走」を貫徹する、そうすることでそれぞれにまつわる子孫だけはこの迫害から守り通すのです。この「脱走」は、下劣な根性と言われようと何と言われようと、たとえ野に朽ち果てようとも、2度と再び村には帰らない決意でなければなりません。しかも彼はお頭です。お頭たるものは村全体の運命を最後まで見届けなければなりません。お頭として留まるか、個人的脱走を企てるか・・彼の苦悩はそこにあったはずです。そして、ついにお頭としての自己を永久に葬り去って脱走を決意した時、彼はその永久に消えぬ苦悩の烙印を自らの背中に印したのです。「お頭の脱走」とは、それほど異常な重大な問題としてあったはずなのです。

 ところが、藤村はこの人物の苦悩をそのようには描きませんでした。お頭からも見捨てられた向町の人々の身を案ずる言葉のひとかけらも、ついにこの人物の口の端にのぼすことはありませんでした。藤村は、この人物の背中から「39戸分の命運」をすっかり欠落させてしまった、というより、初めからそのことに思い至らなかったのです。

 では、なぜ藤村は丑松の父を「お頭」として描いたのでしょう。
「父はその監督の報酬として、租税を免ぜられた上、別に俸米(ふち)をあてがわれた。それほどの男であるから、(中略)8歳の丑松を小学校へやることは忘れなかった。」(第1章)
 言い方を変えれば、「お頭でもなければ(並みの「えた」には)こんな精神的矜持はもてまい」と藤村は考えていたようです。

 藤村が「えた一般」をいかに蔑視していたかは、『破戒』に触れてなされた彼の発言でも明らかです。
「(中略)つまりああいう風に世の中から嫌われている特別な種族ですから、独立した事業という方面には随分これまでに発達し得られたのでしょうけれど、智識という方面の側にそういう種族が発達し得るかどうか、それが、私の深い興味を惹いたのでした。」(「『破戒』の著者が見たる山国の新平民」(明治39年6月=談話)
「しかし、ああいう無智な人達の中から生まれてきた、そうして、そういう中で人として目覚めた青年の悲しみとでもいうものに深く興味を惹かれて」(『目覚めたものの悲しみ』(大正12年4月4日付け「読売新聞」)

 藤村自身がこうした偏見に囚われていたために、かれは「お頭」と他の39戸とをいともあっさり切り離してしまうことができたのであり、39戸を置き去りにしたまま小説を完結させてしまうことができたのです。小説『破戒』とその作者藤村の最大の弱点はここにあります。新潮文庫版の解説で平野謙が指摘したように、「藤村は底辺としての部落民を主人公に選びながら、ついには撃つべき封建のヒエラルキーをそのものとしてよく認識しえない」のは、この弱点によるというべきでしょう。


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