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藤村は丑松の父の生き方に対峙させて、社会の旧弊と真っ向から対決を挑む猪子蓮太郎を登場させました。彼は、被差別部落の生み出した思想家として、社会運動家として描かれています。藤村はなぜこのような人物を登場させたのでしょうか。
旧弊を打破する「鬱勃たる精神」を描くために、彼は敢えて「旧弊の最たるものとしての部落差別」を採りあげて、これに闘いを挑む蓮太郎にこの精神を代表させようとした、と私は考えます。
蓮太郎に関する批評は、これまで、「蓮太郎のモデルは誰か」に焦点があてられてきました。
明治22年、中江兆民は「新民世界」と題して、自らが主宰する『東雲新聞』(しののめしんぶん)に次のように書いています。言葉遣いが古いので、現代語に翻訳します。
「私は、昔あなた方が「えた」と呼んできた人間である。(中略)あなた方は平民の立場から貴族を攻撃するが、私は新平民の立場から平民を攻撃する者である。」
猪子蓮太郎のモデルはこの中江兆民だとする説があります。また、出自の問題を別にすれば、藤村に多大な影響を与え、わずか27歳で世を去った北村透谷こそがモデルだとも言われます。しかし、この「モデル論争」以外には、深く蓮太郎その人について論じた批評はありません。というより、論じるに足る材料が『破戒』の中に示されなかったというべきでしょう。
『破戒』が出されたのは明治39年、水平社が設立される15年も前のことです。蓮太郎のような「被差別部落出身の社会運動の闘士」は、現実には見出せなかったのです。そして、そのために藤村は描きたくても具体的にイメージできなくて、蓮太郎像の骨格しか描くことができなかったのです。
しかし、そういう制約はあっても、蓮太郎に迫らなければ丑松の生き方にも迫れません。できる限り想像力を鼓舞してこの人物像に迫ってみたいと思います。
藤村は、思想家・社会運動家としての蓮太郎を大略次のように書いています。(「」は作中から引用)
「社会の下層を流れる清水に掘り当てるまでは倦まず撓まず努め」る蓮太郎は、「貧民、労働者、または新平民等の生活状態」を「右からも左からも説き明かして、呑み込めないと思うことは何度繰り返しても、読者のお腹の中に置かなければ承知しないというやり方」で、「ただ岩石を並べたように思想を並べた」文章で「露骨(むきだし)」に「読者の前に突きつけた」と書いています。
「あの男ほど自分を吹聴するものはない」と陰口を叩かれようが何と言われようが、蓮太郎のやり方はそうでなくてはならなかったのだと思います。「下手に社会へでしゃばろうなんて、そんな思想(かんがえ)を起こすのは、第一大間違いさ」(勝野文平)という差別と脅迫が圧倒的に支配する中にあっては、オブラートに包んだようなどんな上品な物言いも無力であったにちがいありません。むしろゴリゴリと露骨に、同じことを何度繰り返してでも、現実を目の前に突きつけなければ、理解を得ることができなかったと言えるかもしれません。事実、そういうやり方で蓮太郎は「人を動かす力」を得たのでした。
(つづく)
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