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何事にも真摯に、正面からぶつかっていく蓮太郎に対する読者の目は、どんなものだったのでしょうか。決して反感を持って迎えたとは思えません。前に見たような差別的偏見と毛嫌いが渦巻く読者層にそういう迎え方をされないように、藤村は注意深く配慮して描いています。作中で蓮太郎を悪しざまに罵る校長や郡視学のような人間の品位の低さを示すことで、また、蓮太郎に心を寄せる丑松に作者の愛情を注ぎ込むことで、そのように描いています。
けれども、校長や郡視学を下劣な人間として描いたからといって、それは藤村がわざと作為的にそう描いたとは私には思えません。もとより、蓮太郎が他の批判を許さないのは、彼の思想の清廉な高潔さによるところなのです。それとは反対に、校長や郡視学や勝野文平などがする蓮太郎批判が読者に何の影響力も持てないで、かえって批判者自身の品位を低めることにしかならないのは、その批判が卑しい下心から発しているからです。だから、彼らが教師仲間の差別心を煽り立てて保身を謀れば謀るほど、その画策はすべてこそこそと物陰に隠れてするいやらしさを露呈しないわけにはいかないのです。むしろ、そのことをそのことのまま藤村は描いたのだと、私は思います。
ところで、『破戒』の読者が蓮太郎を非難しないからと言って、彼は額面どおり読者に受け入れられたのでしょうか? 私は、蓮太郎に対する読者の同情を少しばかり疑っています。一体、『破戒』の読者の同情は<穢多の蓮太郎>に寄せられたものなのか、それとも<肺病病みの蓮太郎>に寄せられたものなのか、ということです。
実際、藤村は初めから終わりまで、すなわち、<蓮太郎の危篤>が新聞で報ぜられるところから、暴漢に襲われて喀血して斃れるまで、<蓮太郎の肺病>を強烈に印象付けるように描いています。なぜ藤村はこれほどまでに蓮太郎の肺病を強調して描いたのでしょうか?
蓮太郎は、思想を武器ともし、生業(なりわい)ともする人物です。にもかかわらず、その思想が具体的に小説の中に書き込まれることはありませんでした。このことが、蓮太郎像を曖昧で抽象的なものにし、思想家としての印象を希薄にしています。リアリズムを貫こうとする藤村が、このことに気付かなかったとは考えにくいのです。おそらく彼は、蓮太郎の思想を具体的に表わそうともがいたにちがいありません。しかしその努力は十分に成功を収めることができませんでした。その意味では、藤村の手にも負えないほど、蓮太郎の出現が時代を突出していたというべきでしょう。
蓮太郎の形象の曖昧さを別のもので補い、読者の同情を惹きつけるためにどうするか。<蓮太郎の肺病>はそのための状況設定だったと思うのです。あるいは藤村は、差別的意識が圧倒的に支配する読書界に<穢多の蓮太郎>を裸のまま投げ込むことに「良心的な」不安を感じて、<穢多の蓮太郎>の上に<肺病病みの蓮太郎>を重ねたのかもしれません。ともあれ、不治の病いの持つ普遍的な共感作用、肺病の持つ神通力のお蔭もあって、蓮太郎はまんまと読者の同情と涙を得たのでした。
(つづく)
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