|
しかし、藤村はこの<肺病の持つ神通力>に頼りすぎたきらいがあります。その結果、<穢多の蓮太郎>の印象は<肺病病みの蓮太郎>の強烈な印象の下で影を潜め、蓮太郎の運命に注がれた藤村の熱い泪にもかかわらず、『破戒』における部落差別の問題もその分だけ薄められてしまった気がします。
例えば、「悲壮な熱情と深刻な思想とは蓮太郎の演説を通しての著しい特色であった」と書いたすぐ後で、「時とするとそれが病的にも聞こえた」と書く(第20章)。
あるいは、「聞いてみれば聞いてみるほど(中略)この先輩の同族を思う熱情にも驚かれる」と書いた後に、「もっとも、病のある人ででもなければ、ああは心を痛めまい、と思われるような節々が時々その言葉に交じって聞こえた」と書く(第9章)。
このように、蓮太郎に関する叙述はいたるところで執拗に彼の病と重ね合わされています。丑松を取り巻く教師仲間の反応について、藤村は、「たまに蓮太郎の精神を褒めるものがあっても、むしろそれを肺病のせいにしてしまった」(第21章)と書いていますが、ここまで<肺病病みの蓮太郎>が強調されてくれば、同じような反応を読者にも許してしまいます。藤村が肺病の持つ神通力に頼りすぎたというのはそのことです。
それはともかく、現実に蓮太郎は肺病です。そして病魔は、不当な差別と迫害のてめに職を追われるという生活の破綻と、「思想の世界というものは、まだ僕等の仲間には開けていない」という絶望の中で彼を襲ったのでした。彼の肺病は「穢多」としての彼の存在と深くかかわってあることを再確認しておく必要があります。
彼の出自と肺病とを一本の線で捉えるならば、蓮太郎の思想と行動の本質が<「穢多」としての自己主張>にあることは明らかです。実際、登場人物の中にも、蓮太郎をそういうものとして捉えた人々がいます。丑松や弁護士の市村はもちろんそうです。
しかしそれ以外にも、校長や郡視学、勝野文平などもまた、蓮太郎の本質をはっきりと認識しています。認識した上で彼らは<穢多の蓮太郎>を徹底的に攻撃したのです。
卑劣(いや)しい根性を持って、いやに僻(ひが)んだようなことばかり言うものが、下等な人種 でなくて君、何だろう。下手に社会へ突出(でしゃば)ろうなんて、そんな思想(かんがえ)を起こ すのは、第一大間違いさ。獣皮(かわ)いじりでもして、神妙に引っ込んでるのが、丁度あの先生な ぞには適当しているんだ。 (第18章)
勝野文平はまさにこのようにわめいたのです。蓮太郎の反撃の矢が、他ならぬ自分の胸板めがけて射られていることを、彼らは十分承知しているのです。彼らは明らかに恐れ、動揺しています。保身で結びついた彼らの連合は、臆病なハイエナの群のようです。手負いであろうと獅子(蓮太郎)には襲いかかりません。彼らが襲いかかるのは、羊のようにおとなしく見える丑松に対してです。
先に見た文平の批判が蓮太郎本人にではなく丑松に、しかも丑松が「穢多」であることを知った上で行われたということに注意する必要があります。
(つづく)
|