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けれども、文平や校長や郡視学や町会議員たちのする蓮太郎批判に読者が組することはないでしょう。彼らの卑劣な根性を読者は十分知っているからです。
問題はむしろ、蓮太郎の葬儀に集まった人々の側の心の内に潜んでいます。「旅で死んだということを殊にあわれに思うかして、扇屋の家の人もかわるがわる弔いに来る。縁もゆかりもない泊り客ですら、それと聞き伝えたかぎりは廊下に集まって、寂しい木魚の音に耳を澄ますのであった。」(第22章)という、その集まった人々の心の内に潜んでいます。
日頃新平民と言えば、じきに顔を皺(しか)めるような手合いにすら、蓮太郎ばかりは痛み惜しま れたので、殊にその悲惨な最後が深い同情の念を起こさせた。「警察だっても黙って置くもんじゃな い。きっともう高柳の方へ手が廻っているから」と人々は互いに言い合うのであった。(第20章)
「ああ、捕まって行くナ」と丑松の傍らに立って眺めていた一人が言った。「自業自得さ」とまた 他の一人が言った。見る見る高柳の一行は巡査の言うなりに町の角を折れて、やがて雪山の影に隠れ てしまった。(第21章)
「殊にその悲惨な最後が深い同情の念を起こさせた」とあります。それは確かに自然な人情ではありますが、しかし、彼ら「日頃新平民と言えば、じきに顔をしかめる手合い」は、自分の心に湧いたこの同情のために、もう顔をしかめることはしなくなるのでしょうか。それでも、彼らの心の内では「穢多」はやはり「穢多」として、不浄な輩として残るでしょう。
人々が高柳を許さないのは、蓮太郎を殺した罪人としての側面よりももうひとつの側面、その権勢欲のために政略的に「穢多」の資産家・六左衛門の娘と結婚しておきながらそれを隠した高柳の<陰に隠れて「穢多」と結託した「罪」>を許さないのです。高柳に対して吐きかけられた「自業自得さ」という言葉は、宿を追われて出て行く病人の大日向に対して投げつけられた「ざまあ見やがれ」と表裏一体です。
人々が蓮太郎の死に対して示した同情とは何であったか。つまるところ、それは「穢多」に対する己が嫌悪感を棚に上げて、「いくらなんでも殺されるなんて可哀そうだ」という同情、、<「穢多」の蓮太郎>と<肺病病みの蓮太郎>とを区分けした上に成り立った<肺病病みの蓮太郎>への同情であった、と私は思います。
「丑松の運命を司配するものを、忌まわしい穢多事件ではなく、他のものに取り替えて泣きたい」と言ったあの与謝野晶子のように、人々は蓮太郎の運命を司配するものを肺病に取り替えて泣きたいのです。
「藤村は<肺病の持つ神通力>に頼りすぎた」と私は書きましたが、ここでは、人々の心の内に巣食った差別意識のもうひとつの典型を、見事に描いていると私は思います。
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