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「新平民が美しい思想を持つとは思われない」と銀之助は言います。しかし、彼がそう公言するとき、<新平民が美しい思想を持つはずがない>という彼の信念は、すでにぐらついています。
「猪子のような男の書いたものが若いものに読まれるかと思えば恐ろしい」と校長を深く嘆息させた、その「若い世代」の一人として、銀之助は蓮太郎の思想を正直<美しい>と思うのです。それは彼の信念とは真っ向から矛盾した考えです。
<新平民がこんな美しい思想を持つなどということが、一体なぜありうるのか?> さすがの銀之助も自問せざるをえなかったに違いありません。そこでひねり出されたのが、「穢多がああしたものを書くんじゃない、病気が書かせるんだ」という、銀之助一流の結論だったのです。
しかし、自己否定をさらさら考えない彼の分析は、文平の評するような「土屋君の観察は何処までも生理的だ」などといった代物ではありません。強いて言えば、論理的思考を放棄した<生理学者・銀之助>のもっぱら彼個人に関わる<生理的結論>であるにすぎません。
彼は蓮太郎の思想を<生理的に>美しいと感じます。同時にその一方で「新平民が美しい思想を持つ」とは<生理的に>思えないのです。論理ではなく感性によって動く銀之助は、この2つの<信念>がいかに矛盾していようと、<自分が生理的にそう感じる>以上は2つとも真実だと思い込んでいます。
彼にとっては、自分を魅了するあの美しい思想が「ああいう穢れた種族」から生み出されては困るのです。矛盾した2つの<信念>をそのまま肯定することができれば、それこそ彼には<生理的に心地よい>結論となるはずなのです。
このようにして、<蓮太郎の肺病>は、魅力の源泉を「穢多」に求めることを執拗に忌避する銀之助にとって、まさに<渡りに船>となったのでした。
もっとはっきり言えば、肺病に原因を求める銀之助の分析は、「何処までも生理的な観察」などという軽々しい観察から生まれたものではなく、<彼の生理的感覚にまで深くこびりついた度し難い差別感>から生まれたものなのです。
(つづく)
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