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天長節の午前、仙太に「勇気を出せ、懼れるな」と言ってやろうとしながらも、「他の教師が見てい」るのに気付くと「逃げるようにして」その場を立ち去った丑松でした。しかし、その日の午後には、衆目の真っ只中で、誰も組もうとしない仙太と組んでテニスをやるのです。
ここにすでに父の戒めを破る端緒が顕われています。丑松を内部からそのように衝き動かしたものは何だったのでしょう。それは、『懺悔録』に感動した未だ25歳にもなっていないこの若い被差別部落出身の教師の心を抑えがたく支配した、同じ境遇にある生徒に対する深い情愛のほとばしりです。
しかし、注意すべきは、丑松が毅然と敵に立ち向かうとき、それは自己ではなく他の存在が辱めを受けたときであるということです。
この場面における行為がそうです。また、あと6ヶ月の勤務を断念した敬之進のために、恩給をつけてやってくれと校長に談判にいくのがそうです。さらに、蓮太郎を嘲った文平に対して昂然と反撃するのもそうです。
ここには不当に虐げられ辱められる存在とわが身を同一のものとして怒りと涙を共有する丑松がいます。ところが一方、その辱めが自分自身に直接向けられたとき、丑松は極めて無力な存在と化してしまうのです。
丑松には酷な言い方になりますが、結局のところ丑松は、仙太のためにも、敬之進のためにも、あるいは蓮太郎のためにも、遂に何ひとつ助力することができなかったのです。その意味では、丑松は本質的に無力な存在であったと言うべきかもしれません。
それはさておき、このテニスコートの場面に現れた破戒の端緒にもかかわらず、仙太への溢れる情愛は、すぐその晩の父の死によって完全に丑松の胸の中に封印されてしまうことになります。その後、仙太は読者の前から忽然と姿を消してしまいます。藤村は、例の「告白」の朝まで仙太を登場させないのです。
ではその「告白」の朝、この少年の2度目の登場はどのように描かれたでしょうか。蓮太郎の死に遭遇して、遂に破戒を決意した朝、再び丑松は仙太の姿に心を動かしたのです。
その朝は3年生の仙太も早くから出て来て体操場の隅に悄然(しょんぼり)としている。他の生徒を羨ましそうに眺め佇んでいるのを見ると、あいかわらず誰も相手にするものはないらしい。丑松は仙太を後ろから抱きしめて、誰が見ようと笑おうとそんなことに頓着なく、自然(おのず)と外部(そと)に表れる深い哀憐(あわれみ)の情緒(こころ)を寄せたのである。この不幸な少年もやはり自分と同じ星の下に生まれたことを思い浮かべた。いつぞやこの少年と一緒にテニスの遊戯をして敗けたことを思い浮かべた。・・・尋常1年あたりの女の生徒であろう、揃って歌う無邪気な声が起こった。
「桃から生まれた桃太郎、
気はやさしくて、力もちーー」
その唱歌を聞くと同時に、思わず涙は丑松の顔を流れた。 (第21章)
「丑松は仙太を後ろから抱きしめて、誰が見ようと笑おうとそんなことに頓着なく、自然と外部に表れる深い哀憐の情緒を寄せた」とあります。ここには明らかに、破戒の端緒となったテニスコートの場面の丑松がいます。いやそれよりも数段の決意を固めた丑松、「誰が見ようと笑おうとそんなことに頓着しない」丑松がいます。そして、同じ運命を背負った仙太に対する丑松の本心からの愛惜の情が溢れています。
桃太郎の歌を聞くと同時に丑松は思わず涙を流した、とあります。この涙を私達はどう受け止めたらよいのでしょうか。丑松は仙太を後ろから抱きしめながら、気はやさしいが力がない自分を、そのために仙太に何をしてやることもできない自分と仙太の将来を思って涙を流したのではないか、私はそう思います。
仙太をいじめる鬼たちを退治するのは、教師たる自分の役目です。しかし、自分にはその力がない。それどころか、逆に教壇から鬼のように追われるのは自分の方なのです。事実、その日の午後には、丑松は仙太のために何かしてやることもできないまま、「恥の額を板敷の塵埃の中に埋め」てしまわねばならなかったのです。 (つづく)
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初めまして。こんなにも一つの本を分析するなんて驚きです。そしてこうして見て見るといろいろな発見があるんですね。改めて藤村の力量に感服しました。仙太という登場人物と丑松との関係を中心にしてストーリーを作っていくこともできたと思いますが、あえてこの2人の関係を丑松の告白へと向かう契機として、またはその後の伏線として描かれていますね。このように指摘されてみると非常に面白いです。
2007/12/2(日) 午後 10:10
SHINKAさん ようこそ。ぼくも藤村の力量の凄さに感服です。加えて『破戒』の場合、彼が描こうとして描ききれなかったもの、いわば「萌芽」みたいな状態のまま残されたものがあって、そこからも汲み取ることができるように思います。リアリズムの勝利というやつでしょうね。とはいえ、「告白」をどう受け止めるか、まだ迷っている私めであります、はい。
2007/12/3(月) 午前 8:02 [ 鳥獣子 ]
とても力の入った評論です。ほんとに素晴らしいです。
「破壊」は学生のころに読んだのですが、途中で挫折
してしまいました。また、挑戦してみようという気に
なりました。
2007/12/3(月) 午後 6:02 [ eijirou03 ]
seijiさん おおきに。
締めくくりに来て悪戦苦闘しています。
2007/12/3(月) 午後 6:51 [ 鳥獣子 ]