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たがいに時代にほんろうされ続けた。そして時代はそれぞれに過酷であった。1852年
万次郎が土佐に戻ってきた時も龍馬は知るすべもない。
龍馬の世界観はこのときまだ、田舎の攘夷論に同調する程度でしかなかったであろう。
翌年、お互い、江戸に行くこととなって、嘉永6年(1853年)、
江戸という幕府のお膝もとで、いながら会うことがなかった。
「漂流ばして、10年ば外国にいたそうな」
土佐藩邸にいったとき、噂にきいいてはいるものの、出会った可能性は少ない。
このとき万次郎は、通詞となり直参旗本待遇となっているので、
屋敷もあてがわれたことであろう。
万次郎の世界は大きく変わった。
アメリカからハワイへ、ハワイから、琉球(沖縄)、薩摩、そして長崎、土佐、最後に江戸となった。
薩摩の待遇がよかったものの、長崎のお白州で取り調べを受けた立場からの、コペルニクス的
出世である。それだけ幕府がほしい情報を万次郎は持っていた。
ただ、河田小龍にも学んだが日本語(漢字)や江戸の侍言葉を彼はこのころ、
猛勉強をせざるを得なかった。 それはアメリカの学校での自由な勉強とは
うって変って、必要に迫られる部分も多かったであろう。
彼の偉いところは、日本語の知識をリカバーしながら、辞書の作成や翻訳にも
果敢に取り組んでいったことであろう。 それは日本の近代化への戦いでもあった。
龍馬はこのころ、小千葉道場でしごかれ、日々剣道の修行にいそしんでいた。
剣道の練習は早い、早朝稽古が主流。住み込みもいるが、地方の留学生は
藩の上屋敷または、自費で借り上げた家から通っている。
沿岸警備の要請はここ桶町の道場にも来ていた。
「黒い大きな船が、来てるそうだ。」
重太郎は龍馬にいった。
「へー、上陸して攻めてきますろうか?」
龍馬にとっては、異人とたたかって、その首をとることを
思い浮かべると、武者震いする場合もあった。
このときの気持ちを、国にいる乙女(おとめ)に書き送った。
黒船に出会ったとき、龍馬のこころに、刀の世界とは違うもの。
大砲を持つ船の威力、もくもく黒煙を上げながら、開国を
迫る力、それは世界の産業革命の力であったし、
浦島太郎に用意された、玉手箱であった。
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