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もともと頼朝の時代に名をはせた千葉常胤(つねたね)という豪族の末であって、 その子孫から、陸前栗原郡花山村に移り住む者がいて、慶長のころ、その一族に 大和(やまと)という人があり、武勇をもって近隣に聞こえていたために 伊達政宗が書状をおくって召抱えようとした。ところが、この人は頑固もので 剣豪にはむしろこのようなタイプが多いのであるが、志気がすこぶる高潔で 「千葉周作遺稿」には録のために政宗に仕えようとぜず、農耕に身を委ねて世をおわった とある。 そのまた数代の子孫が清右衛門といい、その次子が幸右衛門となる。 とここまでは、普通の物語なのであるが、ここからは多少数奇な運命に もてあそばれる結果となる。 それはしかし考えてみると、この親子が江戸で大成するためには 必要な試練であり、巨星が誕生するまでのカオスであり、ブラックホールと いってもいいかもしれない。 幸右衛門は今日も囲炉裏の前で、薬草を煎じながら すでに5歳になろうとする於菟松に、昔話を聞かせるのである。 「昔々(むかすむかす)、飼ってだ馬っこがにげだすたんと、山さ逃げタンとさ それを追っかけた、馬子がいたんだども、いつになっても帰らねべ、 村のすとびとがあ、探すにいったどもみつかんねえ。山の奥にはいったとき 大きな桑の木の枝に変わったトリが留ってたど。 マオウ。ウマーオウと鳴いたべ。村人は・・・これをみて その馬子が、鳥になったことをすったとさ。」 幸右衛門は先祖のいた秋田藩より、士官の道はあったが、 彼はそれを辞退した。暮らしはまさしく貧農で、 馬医者のしごともほとんどが出産の立会、 というよりも馬の膣に腕を入れては、逆子の仔馬を 取り出す仕事といってよかった。 実のところ、人のための医術を志してはいた。 仙台藩には藩医を養成する医学学校が早くからできていたが、特定の身分以上のものにはこのときまで解放されてはいなかった。 幸右衛門は、近代医学につながる、あることに大変興味をもっていた。それは種痘であった。 |

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